映画で法学入門--その2
“映画で法学入門”といっても、映画を観ているうちに知らずに法律学の入り口に到達できるなどといった便利な映画があるわけではないが、教科書に登場する法律問題の具体的な場面を映画によって体験してもらおうというのが今回の趣旨である。そして映画“ひまわり”(ヴィットリオ・デ・シーカ監督、1969年)を観ながら「失踪宣告の取消と重婚」という法律問題について考えてみよう。
失踪宣告という法制度
失踪宣告というのは、戦争や船舶の遭難などによって生死が不明となってしまった人に対して、いつまでも生死不明のままにしておくことは、その人の残した財産の管理や処分の点で、また残された配偶者の再婚など人生の点でも困難を招く場合が少なくないことから、一定の要件をみたした場合には家庭裁判所が失踪宣告を行い、(危難が去った時、つまり)戦闘が終結した時点や船舶が沈没した時点で死亡したものとみなす制度である。これによって失踪宣告を受けた者について相続が開始し、同人の財産を処分することが可能となり、その配偶者は再婚が可能となる(民法30条以下)。『司法統計年報』によると、毎年ほぼ2000件台の失踪宣告が行なわれている。
“ひまわり”の二人はどうしたか
映画“ひまわり”の舞台は第二次大戦末期のイタリア、主人公は、ソフィア・ローレン(妻)とマルチェロ・マストロヤンニ(夫)のイタリア人夫婦である。新婚早々のマルチェロはロシア戦線に出征し、雪の平原を敗走中に凍傷を負って取り残されてしまう。記憶を失った彼はやがて命を救ってくれたロシア人女性リュドミラ・サベリエヴァと結婚し、女の子が生まれる。イタリアのミラノでは、妻ソフィアが彼の生存を信じて帰りを待ちつづけている。わずかな情報を頼りにロシアまで夫探しの旅に出たソフィアは、夫が新しい家庭を営む家を見つける。そして新しい妻リュドミラに会い、彼女に案内されたロシアの片田舎の駅でついに汽車から降り立つ夫と再会する。その瞬間、夫の記憶がよみがえる。動き出した汽車に飛び乗ったソフィアは、座席につくなり泣き崩れる。車窓にはひまわり畑が地平線までつづいていて、ヘンリー・マンシーニのテーマ曲が流れる。
しかし、話はこれで終わらない。かつての妻と再会した瞬間に記憶をよみがえらせたマルチェロはソフィアが忘れられなくなり、もはや愛されていないと悟ったリュドミラは身を引く決意をし、夫をイタリアに帰国させる。嵐の夜に夫はソフィアが住むミラノのアパートを訪れる。話をするだけと言っていたマルチェロだが、ソフィアと会うと「どこかへ行って二人で暮らそう」と迫る。そのとき隣の部屋で赤ん坊が泣く。今はソフィアにも新しい夫がおり、男の子が生まれていたのだ。そして、その子にはマルチェロと同じ名前がつけられていた。翌朝、ミラノ駅を出発する汽車のデッキにマルチェロは悄然として立ちすくみ、ホームで見送るソフィアの目に涙があふれる。
失踪宣告の取消と再婚の効力
ソフィアが再婚していることから、マルチェロは失踪宣告を受けたと思われる。失踪宣告を受けた者が実は生きていることが分かった場合には失踪宣告は取り消されることになっている(民法32条。イタリア民法がどうなっているのかは分からないが、日本の話だと思ってほしい)。しかし失踪宣告が取り消されても、失踪宣告以後その取消以前に善意で行った行為の効力は失踪宣告の取消によって影響されないという民法の規定がある(32条1項但し書)。「善意」というのは法律用語では「失踪者が生きているとは知らないで」という意味であり、その事情を知っていた場合を「悪意」という。再婚のような行為についてもこの民法の規定が適用されるかをめぐっては、学説の間でさまざまな議論がある。
再婚の両当事者ともに失踪した前夫の生存を知らなかった場合にのみ再婚は有効とされ、前の婚姻は復活しないというのが通説であり、戸籍の実務もそのような扱いとなっている。この説によれば、“ひまわり”ではソフィアはマルチェロの生存を知っているから(悪意)、たとえ新しい夫がそのことを知らなかったとしてもソフィアの再婚は無効ということになろう。
しかし、このような夫婦の愛情が絡んだ問題についてまで財産上の取引と同じ扱いをすることには無理があるとして、再婚夫婦が善意であろうと悪意であろうと、前の婚姻が復活するとともに再婚も有効で二つの婚姻は重婚状態となり、前の婚姻を離婚とするか再婚を取り消すかは当事者三人で話し合って解決するしかないという見解も昔から有力に唱えられている。“ひまわり”でいえば、ソフィアとマルチェロとの話し合いによって、かつての婚姻を復活させないことになったということだろうか。
同じく当事者の善意・悪意は不問としつつ、このような場合は常に再婚だけが有効で前の婚姻は復活しないという説もある(学生諸君の間で広く読まれているという内田貴教授の『民法Ⅰ総則・物権総論』(東大出版会)など)。法制審議会が答申した婚姻法改正要綱(平成8年)もこの立場を立法化することを提案している。
学生諸君の感想は
私は自分が担当している1年生の講義の際にも、“ひまわり”を観た感想文を書いてもらった。受講生の9割以上の諸君がこの映画の結末を支持していた。圧倒的多数の学生がその理由として挙げたのが、ソフィアの新しい家庭にもマルチェロの新しい家庭にも子どもがいるということだった。この問題の解決に子どもの有無を考慮する主張は法律学者のなかには見当たらない。そもそも婚姻の効力は、子どもの存否とは関係なく決定されることになっているのである。しかし、私はこれらの感想文を読んで、学生諸君の健康さを感じたのであった。
法律というのは紛争解決のための道具の一つにすぎない。有力な道具であることは確かだが、あくまで道具であって、法律家にとって本来の目標は紛争の解決である。何のために道具の使い方の修練を積んでいるのかを忘れてしまっては本末転倒である。「失踪宣告の取消と重婚」というテーマをめぐる学説の理解や記述にはつたなさも目についたが、ソフィア=マルチェロ夫妻の間に生じた紛争の望ましい解決策を彼らは正しく模索してくれたと私は思う。
そして、愛されていないリュドミをマルチェロとの婚姻に縛りつけ、同じくソフィアの新しい夫を現在の婚姻に縛ることは、リュドミラやその子らにとっても不幸なことであるから、今でも愛し合っているソフィアとマルチェロとの婚姻が復活したほうがみんなにとってかえって幸せであるという、これもまた青年らしい感想が数通あったことも最後に指摘しておこう。
(2006年9月2日。初出は、2002年9月)
* 写真は、「ひまわり」から、ソフィア・ローレンが夫と再会する直前のシーン。ようやく探し当てた夫(マルチェロ・マストロヤンニ)には、新しい妻(リュドミラ・サバリエヴァ)がいた(筈見有弘編「ソフィア・ローレン」芳賀書店、1975年より)。
** せっかく「ひまわり」の話なので、次の書き込みまでは、背景もひまわりにしておきます。