豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

東京オリンピック--15歳の主張

2006年09月06日 | あれこれ
 
 何となく書きたいこと 

 つい2、3日前の新聞に、東京オリンピックを各国がどのように見たかという記事が掲載されていた。それによると、アメリカ、イギリスでは「親切のオリンピック」などとほめていたが、フランス、イタリアなどの国々では「観衆はまるで儀式を見ているようだ。日本人はスポーツに冷淡な国民だ」と批判していたそうだ。
 僕が気になったのは、もちろんフランス、イタリアの批判だ。はたして日本人はスポーツに冷淡な国民だろうか。そんなはずはない。チャスラフスカ選手は、日本旅行中にトラック一台分のおみやげを贈られたという。これは多少オーバーかもしれないが、真のオリンピック精神というものを日本人に教えてくれたセイロンの選手に、日本人形や山のような激励の手紙が送られたこともあった。品物が贈られたばかりではない。開催前から懸念されていた拍手も公平に送られていた。
 それでは、フランス、イタリアの言い分は誤っているのだろうか。確かに日本人はオリンピックに対して好意も示した。そのことはフランス、イタリアにもわかってもらえたろう。しかし、彼らにはそれ以上に、儀式的で堅苦しい日本人の印象が強かったのだと思う。例えば閉会式である。整列してて出てくるはずだった選手団がスクラムを組んで出てきたとき、ラジオのアナウンサーは、「アメリカの選手が見えます。ソ連も、ドイツも、そして日本の選手が」と放送していた。当然、日本の選手もいると思ったのだろう。しかし、日本選手団だけは、最後に八列縦隊になって出てきた。見ていた者もだれだって、各国選手たちと肩を組み、手を取りあって行進している日本選手のほうがよかったに違いない。
 決して日本人はスポーツに冷淡な国民ではない。しかし、堅苦しい一面があるためにこのような批判を受けるのは非常に残念なことである。堅苦しい人間が多い理由はいろいろあるだろうが、ぼくは、今の学校が少し生徒をおさえすぎることにあると思う。けれど戦争中に教育された人の多い先生方に、すぐに生徒を自由にしろと言っても無理だろう。それではだれがそういう気風を築いていくのか。それは、他ならない僕たちではないか。現在は、受験だ、何だで束縛されることが多いかもしれない。しかし、心の中にはいつもこういう考えをもって何事にものぞみたい。そして、そんな気風が日本にも確立したら、今度は僕たちの手でオリンピック大会を招き、僕たちの新日本を世界に示そう。

(2006年 9月 6日。初出は、1965年3月)

 * 当時15歳だったぼくが書いて、中学校の卒業文集に掲載された1965年の(!)東京オリンピックに対する「青(少)年の主張」 である。こんな文章を卒業文集に掲載してくれるほど、ぼくが在籍した中学校は自由だったのである。校歌には「自治の楽園 いま花開く」とあった。この中学校での3年間はぼくにとって人生最良の日々の1つであった。ちなみに、もう一度オリンピックを招きたいなどという気持ちは、今ではまったくない。招致の経済効果からオリンピックが論じられるなど、日本もオリンピックもあらぬ方向へ行ってしまったのだから。
 ** 写真は、「月刊朝日ソノラマ」1965年12月号(東京オリンピック特集号)の表紙。東京オリンピックの名場面の録音とともに、オリンピックの最中に起きたソ連のフルシチョフ首相の失脚のニュースも録音されている。

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