豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

三丁目の夕日--豪徳寺の場合は

2006年09月02日 | 玉電山下・豪徳寺
 今年の父の日に上の息子が「お父さんの時代の話だから・・」と「ALWAYS 三丁目の夕日」のDVDをプレゼントしてくれた。せっかくの息子には申し訳ないのだが、やっぱり違うのである。少なくとも、ぼくの世田谷、豪徳寺での昭和33年はあんなものではなかった。おそらく、同じ昭和33年、同じ東京といっても、上野駅近くの東京と世田谷、詐欺まがいの求人広告をうつ町工場とサラリーマンの家庭とでは、異なった経験があったのだろう。
 できることなら、東京中から昭和の風景の残っている場所を探し出して、オールロケでとって欲しかった。しかしセットで作られた背景は、サンシャインの「なんじゃタウン」に迷い込んだみたいだし、これでもかとばかりに使われている小道具類も「“昭和の懐かしグッズ”をかき集めてきました」みたいな感じなのである。たぶんああいう手法で昭和33年を描くことはもはや無理だったのだと思う。
 挿入された音楽もがっかりである。昭和33年で、夕日といったら、美空ひばり「花笠道中」や三橋美智也の「夕焼け空がまっかっか・・」(なんて曲名だったか?)は絶対に欠かせないはず。NHKラジオの尋ね人の時間だけでなく、民放で夕暮れ時にやっていた竹脇昌作のDJの独特の節回しも、昭和33年の豪徳寺、玉電山下のごちゃごちゃした商店街の思い出とともに聞こえてくる。日本信販提供だったが、「ニッポンシンパン」の「クーポン」って何だろう?と聞くたびに不思議だった。「アメリカン・グラフィティ」の昭和33年、東京版を期待したぼくには、BGMの点でも不満が残った。
 ただ1つ、リアリティがあったのは、吉岡秀隆が面倒をみるハメになったいわくありげな少年である。たしかに、昭和33年の豪徳寺にも、一体あの人たちはどういう関係なんだろう、どこから来て、何をしているのだろうという、わけあり気な家族がいた。そして、いつの間にか、「風の又三郎」か「時をかける少女」のように消えていってしまった。「三丁目~」でも、あの少年の出自など示さないでいてくれたほうがよかったのに、と思う。
 「三丁目~」は、やはり、西岸良平で読んだほうがいいだろう。ちなみに、ぼくが住んでいたのは、残念ながら、豪徳寺2丁目(ただし当時は「世田谷2ノ ~番地」と表記した)である。

 * 写真は、「ALWAYS 三丁目の夕日」DVDのカバー(山崎貴監督、小学館、2006年)。

(2006年 9月 2日)

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