六歳のスイス留学 18.

2010-12-25 00:01:37 | 物語
18.通信教育

 息子が日本でいう中学三年になった年、リセの同級生の日本人女子三人を誘って、我が
家で日本の教科書を使う日本塾を始めた。
 リセには日本人の男子は殆どいなかった。女の子ならば、フランス語が出来るというだ
けで、将来なんらかの職に就けそうだが、男の子の場合、日本の大学に入れることを考え
るせいか、帰国子女でもリセに入れる親は少ないようだった。
 NHK教育テレビがリセを取材に来たことがあった。日本人の男の子がリセでは何を考
え、どういう立場にいるかをインタビューするのに、息子に白羽の矢が当たった。
 リセから帰ってきた息子からこの話を聞いて、私は慌てて、すぐにリセに電話をかけた。
親に断らずに子供の取材を受けてもらうのは困ると。取材映像は放映してもらいたくない
と伝えた。誰が見るかわからない。
 私たちは静かに暮らしているのに、夫や夫の親族が見たら何が起こるか。
 息子は幼児の頃とは顔も姿も変わってはいるけれど、名前や雰囲気でわかる可能性はあ
る。リセからは今後気をつけると謝罪があり、NHKにはその旨伝えると言われた。
 翌日、番組を担当するディレクターから、うちに電話がかかってきた。画面に出るのは
数分のことであり、名前は出さないからいいではないかと、居丈高に押し通された。
 結局、テレビのない我が家では、この放送は見なかったので、どんな画面になっていた
のかは、知らずじまいになった。
 日曜塾では、国語、数学、社会、理科の四科目を教えた。検定教科書を神田の三省堂に
買いに行くと、何種類もあって迷った。フランスの教科書は一種類で、日本のようにしょ
っちゅう改訂改訂を繰り返したりしないので、前年度のものを譲り受けることができる。
とくに我が家のように貧しい家では、新品を定価で買わなくても済むのは助かった。改訂
を繰り返し、何種類もあるのは、役人が教科書の会社から賄賂をもらっているからと疑い
たくもなる。
 年度末、リセの校庭では生徒間で古い教科書を売買する、フリーマーケットのような光
景が見られる。それぞれの加減で値段交渉を子供たちがし合っている。
 お古を下級生に売り、上級生から次の年度の教科書を買った息子は、差し引き利益が出
たと喜んでいた。
 私は息子を日本の大学に入れるつもりだった。リセは日本では学校として認められてお
らず、リセを卒業しても日本の大学を受けることは出来ないので、大検(大学入学資格検
定試験)を受けさせる方法を考えていた。
 日曜塾の時間割は、子供たちが朝から我が家を訪れ、午前中の勉強が済むと私の作った
給食を食べ、昼休みのあと夕方まで勉強という内容にしていた。
 どの子も、自己主張は美徳であるとつゆ疑わない活発さ。息子は皆の中で真面目くさっ
た顔で冗談を連発していた。
 作文は息子が一番筋が通ってうまかったが、数学は妙な仮説を立てて、先生の私と対立
した、
「あのね、教科書に載ってる数学の問題は、必ず正解があるものとして出してあるんだか
ら、変なこと考えなくていいの」
 私はいらだって、息子に数学を教えるのがいやになった。
 ほかの子供たちは親にすすめられて通ってはいるものの、塾には行き慣れていないので、
なぜ日曜も勉強しなければならないのかという面持ちで、長続きは難しそうだった。
 息子には、リセは卒業までは通わせるけれど、日本の大学に行かせるためには、大検を
受けさせようと考えていたところ、その計画にはぬかりがあることを知らされた。
 大検の受検資格の一つである、「外国の学校に十二年間学んだ者」には、日本国内の外
国人学校の卒業者は除外されるという但し書きが付いていたのだ。国外に居て外国人の学
校に学ぶのは仕方がないが、日本にいながら日本の教育を受けないのはけしからんという
ことのようだ。
 私は、大検の別の受検資格である「高等学校の通信制の課程に在学している者」につい
ての方法を検討し始めた。
 都立上野高校には、通信教育のコースがある。ここに入れば大検も受けられる。だがそ
の通信制に入学するには、中学卒業という条件が要る。
 上野高校の校長に手紙を書くことにした。息子には日本の中学を卒業したのと同じ学力
があるので、通信制への入学を考慮してもらいたいと。
 学校側の一番の懸念は、息子に日本語の能力があるかという点だった。息子はスイスか
ら帰国してすぐに漢字辞典を欲しがり、好んで漢字を使っていた。「所謂」や「何処」な
ど、今時漢字では書かない言葉も、あえて漢字を使って親しんでいたので、読み書きには
殆ど問題がなかった。本人も読書はフランス語より日本語の方が早く理解できると言って
いた。
 上野高校には、私の高校時代にもご縁があった。教育テレビで数学を教えていらしたI
先生は、夏や冬の休暇の予備校の講習会のために福岡にいらっしゃることがあって、全く
受験に熱心ではない女子高に通っていた私は、受験校で有名な上野高校の模擬試験の用紙
を、分けていただけないかとI先生に願い出た。I先生は、用紙を送ってくださるだけでは
なく、解答の採点と順位と、志望校への可能性まで知らせると約束して下さった。その後
私が大学生になるまで何やかやとお世話になり、大学への合格の知らせも一番にみつけて
下さった。
 I先生はすでに退職なさってはいたけれど、久々にお電話をして、校長への口添えをお
願いした。
 リセは日本の学校として認められていないのだから、上野高校とかけもちをしてもよか
った。時間的にも通信制なので、重ならない。日曜のスクーリング出席も、リセの休みの
日なので支障がない。
 息子は上野高校に入学した。動物園と博物館に通った上野公園で、今度は高校が息子を
待っていた。
 予想していたことではあったけれど、息子はすぐに上野高校を自分の当然の居場所とい
う顔をするようになり、スクーリングに通った。知らない間にクラス委員にも立候補して
当選していた。
 スクーリングのない土曜日は、一日中有栖川公園の中央図書館で、三島由紀夫や谷崎潤
一郎の本を読みあさっていた。
 それに加えてか、日本史の教科書がわりに買い与えた「まんが日本の歴史」の影響で、
息子は急に天皇や皇室への興味を膨らませた。
 五月のある朝、目を覚ますと子供はもう出かけていた。いつものゴミ出しをやってくれ
ているのかと待っていると、日の丸の小旗を手にして帰ってきた。
「国民のみんなも健やかに、だって」
 皇居まで天皇誕生日の参賀に行ってきたのだ。しかし息子の場合、思想や主義というよ
り趣味に近く、リセにいることで日本人という意識が強く出てきたに違いない。
 大検は、高校で単位の取れる課目は受験しなくてもよかったので、実際には数課目だけ
を受験した。大検に関しては、高校二年ですべての課目をパスできた形になったので、そ
れ以後は上野高校には通わなくてよくなった。あとは大検が発効になる十八歳を待つだけ
になった。
 リセの卒業は六月で、息子は同年齢の日本の高校生より、半年早い卒業になる。その半
年を使って、息子に足りない日本の大学の受験勉強をさせる予定でいた。
 フランスでは、個々の大学を受験するのではなく、バカロレア(大学入学資格の国家試
験)をリセの最終学年で受けてから希望の大学に進む。それも日本のように猫も杓子も大
学に行くという選択はしない。社会が進んでいるからというより、むしろ古くからの分類
が生きていて、身の程を蹴散らしてまでよその世界に入り込もうとしない、というのが私
の印象だ。
 リセの最終学年で、息子はバカロレアに落ちた。数学が不合格だった。日本の大学に進
むのだから、バカロレアは必要ないのだが、普段から勉強ができると思っていただけに、
大抵の生徒は合格するバカロレアに落ちたことは、息子にとって打撃だったはずだ。初め
ての敗北は、それだけで経験という収穫はあったかもしれない。
「十年間授業料をつぎ込んできたのに」
私はうらみがましく言った。
 これでフランスの大学に行く道は断たれたので、背水の陣で日本の受験に臨むことにな
った。しかしまだ、息子には日本の受験戦争がどれだけ厳しいものかわかっていない。私
が口でどんなに説明してもわからなくて当然だろう。
 半年のラジオ講座と自宅学習だけで受験した息子は、志望の京都府立医科大学に落ちた。

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