イチローが引退してしまった。
正直、この日本での公式戦で最後という予感みたいなのはあった。
この日本ではメジャー枠が28人だが、アメリカに戻れば25人になる。いくらチームのレジェンドとはいえ、45歳でオープン戦の打率が1割未満では厳しい。昨年はチームのフロント入り?のような奥の手を球団側は用意したが、奥の手は2年連続では使えない。
個人的にはメジャーにこだわるのではなく、最後は日本に戻ってきてほしかった(古巣のオリックス、地元・愛知県の中日は大歓迎だろう)が、最後の感動的なシーンを見ると「なんも言えねえ」である。幕引きとしてはこれ以上ないものだったのではないか?
イチローは数多くヒットを放ってきた。その中で最も印象に残るヒットは?
というアンケートがあれば1位は間違いなく09年・第2回WBC決勝での勝ち越しタイムリーだろう。
それに触れるのはありきたりなので、ここでは2番目に印象に残っている、96年日本シリーズ第1戦について触れようと思う。
この年の日本シリーズは巨人VSオリックスというカードだった。
巨人は一時11.5ゲーム差をつけられ自力優勝がなくなったが、そこから反撃し優勝。「メークドラマ」と言われた。
松井秀喜はホームラン王のタイトルこそ逃したが38本99打点とブレイク。4番は落合でこの年が巨人最終年(オフにFAで清原が入団したため追われるような形で退団)。仁志と清水がルーキーながら活躍し、2人で新人王争いを繰り広げた(新人王は仁志が受賞)。
一方のオリックスは前年に続く2年連続リーグ優勝。イチローもすっかりチームの柱になり、監督の仰木彬の「マジック」によってチームは円熟期を迎えていた。なにより、95年の1月には神戸で震災があり、「がんばろうKOBE」の合言葉のもと、チームはその復興の象徴のようになっていた。
そんな両チームの対戦は初戦から大接戦。
2点を追う9回裏、巨人は大森剛の2ランホームランで同点。
延長10回、表のオリックスの攻撃も簡単に2人が倒れ2アウト。
東京ドームは大森の同点弾に沸き、雰囲気も最高潮。
「あとアウト1つとってチェンジとなり、裏の攻撃でサヨナラだ」
そんな巨人ファンの思いを打ち砕いたのがイチローだった。
2死無走者で打席に入る。それまでの4打席はすべて凡退だった。
ピッチャーは「ゲンちゃん」こと河野博文。
当時のプロ野球界は交流戦がまだない時代だったため、セの投手と対戦する機会はなかなかない(オープン戦、オールスター、日本シリーズくらい)が、河野は前年まで日本ハムに所属しており、対戦経験は豊富で、しかもイチローは河野をよく打っていたらしい。
イチローは高めのストレートを逃さなかった。振り抜いた打球はライトスタンドへ消えた。
勝ち越しホームランである。
普段は1番打者だが、まるで4番打者のような一撃に唖然とさせられた。
これが決勝点となり、第1戦はオリックスの勝利。
結局、これが流れを変え、巨人はわずか1勝しかできずシリーズに敗れた。
シリーズ全体をみれば19打数5安打1打点と巨人はイチローをある程度抑えられた。
だがその「1打点」はあまりにも貴重だった。
実は私は第6戦のチケットを持っていた。チケットを確保するために早朝から並んだのに、それが無駄(第5戦でシリーズが終わったから)になり、その悔しさもあって、あれから23年経ってもよく覚えています。
イチロー選手、長い現役生活、お疲れ様でした。
正直、この日本での公式戦で最後という予感みたいなのはあった。
この日本ではメジャー枠が28人だが、アメリカに戻れば25人になる。いくらチームのレジェンドとはいえ、45歳でオープン戦の打率が1割未満では厳しい。昨年はチームのフロント入り?のような奥の手を球団側は用意したが、奥の手は2年連続では使えない。
個人的にはメジャーにこだわるのではなく、最後は日本に戻ってきてほしかった(古巣のオリックス、地元・愛知県の中日は大歓迎だろう)が、最後の感動的なシーンを見ると「なんも言えねえ」である。幕引きとしてはこれ以上ないものだったのではないか?
イチローは数多くヒットを放ってきた。その中で最も印象に残るヒットは?
というアンケートがあれば1位は間違いなく09年・第2回WBC決勝での勝ち越しタイムリーだろう。
それに触れるのはありきたりなので、ここでは2番目に印象に残っている、96年日本シリーズ第1戦について触れようと思う。
この年の日本シリーズは巨人VSオリックスというカードだった。
巨人は一時11.5ゲーム差をつけられ自力優勝がなくなったが、そこから反撃し優勝。「メークドラマ」と言われた。
松井秀喜はホームラン王のタイトルこそ逃したが38本99打点とブレイク。4番は落合でこの年が巨人最終年(オフにFAで清原が入団したため追われるような形で退団)。仁志と清水がルーキーながら活躍し、2人で新人王争いを繰り広げた(新人王は仁志が受賞)。
一方のオリックスは前年に続く2年連続リーグ優勝。イチローもすっかりチームの柱になり、監督の仰木彬の「マジック」によってチームは円熟期を迎えていた。なにより、95年の1月には神戸で震災があり、「がんばろうKOBE」の合言葉のもと、チームはその復興の象徴のようになっていた。
そんな両チームの対戦は初戦から大接戦。
2点を追う9回裏、巨人は大森剛の2ランホームランで同点。
延長10回、表のオリックスの攻撃も簡単に2人が倒れ2アウト。
東京ドームは大森の同点弾に沸き、雰囲気も最高潮。
「あとアウト1つとってチェンジとなり、裏の攻撃でサヨナラだ」
そんな巨人ファンの思いを打ち砕いたのがイチローだった。
2死無走者で打席に入る。それまでの4打席はすべて凡退だった。
ピッチャーは「ゲンちゃん」こと河野博文。
当時のプロ野球界は交流戦がまだない時代だったため、セの投手と対戦する機会はなかなかない(オープン戦、オールスター、日本シリーズくらい)が、河野は前年まで日本ハムに所属しており、対戦経験は豊富で、しかもイチローは河野をよく打っていたらしい。
イチローは高めのストレートを逃さなかった。振り抜いた打球はライトスタンドへ消えた。
勝ち越しホームランである。
普段は1番打者だが、まるで4番打者のような一撃に唖然とさせられた。
これが決勝点となり、第1戦はオリックスの勝利。
結局、これが流れを変え、巨人はわずか1勝しかできずシリーズに敗れた。
シリーズ全体をみれば19打数5安打1打点と巨人はイチローをある程度抑えられた。
だがその「1打点」はあまりにも貴重だった。
実は私は第6戦のチケットを持っていた。チケットを確保するために早朝から並んだのに、それが無駄(第5戦でシリーズが終わったから)になり、その悔しさもあって、あれから23年経ってもよく覚えています。
イチロー選手、長い現役生活、お疲れ様でした。