ビールを飲みながら考えてみた…

日常の中でふっと感じたことを、テーマもなく、つれづれなるままに断片を切り取っていく作業です。

〈個〉からはじめる生命論 / 加藤秀一

2008年01月04日 | 読書
この記事を読んでいる人に幾つかの問いかけを。まずは直感で答えて欲しい。

1 生きることはそれ自体で価値のあることだ(あるいは存在しないより存在する方がいい)
2 中絶はいけないことだ
3 脳死は仕方がない
4 ペットには長生きして欲しい
5 家畜は食用として育てられているのだから殺されても仕方がない
6 移植用の臓器を提供するために、自分のクローン人間を用意することは許されるべきだ
7 障害者だとしても健常者と同じように生きる権利がある
8 産んだとしても余命が1年しかなく障害で苦しむことが分かっている胎児は産まないほうがいい
9 人間には生/死の自己決定権がある

もう一度回答を見直して欲しい。あなたの回答は論理的倫理的に整合性のある回答だろうか?



〈個〉からはじめる生命論 (NHKブックス 1094)/加藤 秀一



多くの人にとって「生きることはそれだけで素晴らしい」「存在することそのことが価値がある」といった価値観は否定すべきものとはいえないだろう。では「中絶」や「脳死」というものはそのことと矛盾しないのだろうか?あるいは「家畜として豚を育てることは、食肉用にと殺される運命だとしても、生まれることができたのだから豚たちにとってもいいことをしている」などと言われると違和感を感じないだろうか?産んだとしても障害を持ち苦しみながら余命1年しかない胎児は、それでも産むべきなのだろうか?

加藤氏は「ロングフル・ライフ訴訟」という、あまり聞きなれない訴訟をモチーフとしつつ「命の価値」を定義しようとする「生命倫理」という「知/権力」に対する疑問を提示しようとする。

ロングフル・ライフ訴訟とは、重篤な先天的障害をもって生まれた人が、その苦痛に満ちた生そのものを損害であるとして、親に中絶することを促さなかった医師に賠償を請求する訴訟のことである。ここで注意なければならないのが、本人が自らの誕生そのものを損害だとしている点である。つまり本来、私たちは「生まれるべきではなかった」と言っているのだ。結論から言えば、そもそも「存在しなかった(生まれなかった)こと」と「先天的な障害をもって生まれたこと」とを(本人にとって損害かどうかは)比べることができない・そのような問いが無効であるという結論となるのであるが、それは(例えどのような状態であれ)「存在することは価値がある」という価値観そのものを否定するものでもある。

つまり「存在している」という事実からスタートするしかないのだ。

そもそも存在している(生きている)とはどういうことだろうか。

加藤はここで、「人格」という要件を備えているかどうかによって判別しようとすることも、呼応関係といった他者との関係性によって規定しようとすることも不十分だとする。そうしたものはいずれにしろ現実に存在する人々を「生命」や「種」、あるいは「ヒト」「人間」という名ものに抽象化してしまうからだ。そうではなく呼びかけの対象としての「誰か」、人称的存在者としての「誰か」性に基づいて理解する必要があるのだと。

フーコーによると、18世紀以降の西洋統治機関の変質として「生命の問題が政治の問題に反映」されたいう。これは、かって権力にとっての「生命」の問題というのは、「暴力」や「恐怖」によって支配関係を強要する際に、(対象となるものが)「臣下」となるか(=生きるか)「死」を与えるか(=死ぬか)といった段階のものであったものが、18世紀以降、「医療」や「衛生問題」、「都市計画」、「生物学」、「統計学」など、ありとあらゆる行政的政治的な問題が「生命」の問題との関わりをもったことを示す。そしてそれは、現行の統治機構・統治システムの維持のために、黒人との婚姻を禁じた「断種政策」、精神薄弱者や知的障害者に対する治療施設への「強制収容」、「黄禍論」「移民排斥運動」などへとつながる。そしてそれに理論的正当性を与えたのが「優生学」だ。

こうした「優生学」的な動きは何も過去のものではない。我々が気がつかないうちに行ってしまう「生命」への価値付け。「生きるに値する生」と「生きるに値しない生」という線引き。もう一度、ここで問おう。

産んだとしても余命が1年しかなく障害で苦しむことが分かっている胎児は産まないほうがいいのか?

優生学・新優生学的な政策、あるいは「生」に価値付けを行おうとする視点から逃れるためには、「生命」や「いのち」といった抽象化された存在として生命活動をとらえていてはダメなのだと加藤氏は言う。

フーコーが示したように、「生きるに値しない生」といった本来、倫理的な問題でさえも、現在では「政治的概念」として捉えられているのであり、「倫理学」は既に「生政治」の一部として取り込まれてしまっているのだ。いくら「倫理学」として「生命」や「いのち」といった抽象的な言葉を用いて語ろうとしても、権力の側の理論の中に取り込まれてしまうのだ。

しかし個人は社会の要素ではない。抽象化された「人間」であれば社会システム全体の中では交換可能な1要素かもそれないが、現実の「個人」とはそれぞれが全く異なる個性をもった存在だ。そうした個人という観点から見ると、社会にとって個人とは要素ではなく「環境」であり、「ノイズ(雑音源)」となる。つまり、「『個』としての人間は社会にとっての外部性」であり、「人間が1人1人誕生することに、なにか新しいユニークなものが世界」に持ち込まれるのだ。

だからこそ、抽象化された人間ではなく、時間性をもった1人1人のかけがえのない「個人」として、呼びかけ、あるいはそれに応える人称的存在としての「誰か」として、1つ1つの問題を捉え直さねばならないのだ。

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と、加藤氏はこの著を通じて、現在の「生命倫理」への疑問や「生政治」から「倫理学」を取り戻すための問題意識を提示したわけであるが、どちらかというと「態度」は示せたけれど具体的なフレームワークまでは提示できていない。(そのことは加藤氏自身が「あとがき」で述べている)

こうした問題意識を了解した上で、現実を生きる僕らにとって具体的な問題はどのように捉えるべきなのだろうか。

仮に「生まれたこと」そのものには(肯定的にも否定的にも)価値があるわけではないとして、現実の中で生きることの意味を見出せない人たちはどうすればいいのだろうか。

「存在をめぐる不安」とここで書かれたような「闇」を抱えてしまっている人にとって、存在することそのものに価値があるわけでないとするなら、では彼らが生きていく理由というのはあるだろうか。積極的に「死」を求めているような人ではなく、むしろ「生きてしまっている」と感じている人たちにとって彼らが「死」を求めた時にそれを否定する理由を提示することはできるのだろうか。

僕自身、やみくもに「自殺」を否定する気はない(もちろん肯定しているわけではない)。加藤氏が言うように、安易に「生」を肯定する気はないし、「生きている」ことそのものは所与の条件として受け入れるしかないというのも同様だ。

人はそれぞれ固有の悩み・不安・心の闇を抱えている以上、そのこと自体を理解しようとしない「生きていればいいことがあるよ」的な発言は無責任以外の何ものでもないと思う。そう考えると個人の「死」の願望、あるいは「生」の絶望を闇雲に否定できないのだ。

しかしそれは「正しい」ことなのか。
そうした人々に僕らは何を肯定し、何を否定すればいいのだろうか。

答えはまだ見つかっていない。



〈個〉からはじめる生命論 (NHKブックス 1094)/加藤 秀一





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