ビールを飲みながら考えてみた…

日常の中でふっと感じたことを、テーマもなく、つれづれなるままに断片を切り取っていく作業です。

「イノセンス」~押井守の描いた「攻殻機動隊」以降の身体のあり方

2004年10月10日 | 映画♪
この映画はもちろん「GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊」の続編であり、押井守からの新しい進化の可能性に対する問いかけでもある。実体としての身体からの解放は「退廃の美学か、現代を生き抜く新たな哲学の誕生か」と。

舞台は少佐こと草薙素子が失踪後の世界。本来安全なはずの少女型のアンドロイドが突如暴走、所有者を惨殺、最期には自身も"自殺"で果てるという怪事件が発生。しかし所有者の遺族からは1件の告訴も出ることなく全て製造メーカー ロクスソルス社との示談が成立しているという。脳以外は全て義体かされているサイボーグのバトーと生身の体を扱うトグサは事件を追うが、やがてバトー自身、捜査を妨害するハッカーに狙われることに――。

【予告編】
Ghost In the Shell 2 - Innocence (Japan Trailer)


【レビュー】

前作を見ずにこの映画を見にきた人にとっては非常に難解な映画だったのだろうなぁ、と思う。1つは、この映画の設定自体が前作「GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊」を前提としたものであり、それはたんにストーリーの設定というだけでなく世界観をいきなり引き受けなければならないところにある。前作を知らないとこの作品は正直つらい。そしてもう1つ、惜しくもDVDの中の押井守監督との対談の中で鈴木敏夫プロデューサーが指摘していたことだが、この映画が押井守の"観念"を体現したものであるからだ。つまり(前作同様)ストーリーを追うことに意味がない。

そのことは物語の序盤、僅か10数分のところで検死官ハラウェイがいきなりテーマを語ることでもわかる。

「何故、彼らは人の形、それも人体の理想形を模して作られる必要があったのか、人間は何故こうまでして自分の似姿を作りたがるのかしらねぇ」

この物語はまさにこの問いを巡る物語といっていい。


我々は既に前作で「身体」の境界線が曖昧になっていることを知っている。「私」というものを構成する要素であり自明なはずの「身体」さえも、合理性・効率性の追求の中で交換可能なパーツとなってしまった。(参考:「GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊」―押井守が問いかける「私」であることの意味)

マクルーハンはテクノロジーを「身体の拡張」であるとした。バイクや飛行機は拡張された「脚」であり、テレビは拡張されたが「目」であり、コンピューターという外部記憶装置の発達が「脳」の拡張である。そういう意味では「2001年宇宙」のオープニングが象徴するように、"骨"を道具として使い出した古代よりわれわれは身体を拡張させてきたのである。

では「私」とは何か、「私」の「身体」とはどこまでをいうのか。

押井守は先の対談の中で、現代人の「身体の喪失」とともに外部の存在にこそ「身体性」もしくは「生命」というものを感じると述べている。

そして検死官ハラウェイの問いかけ。

「何故、彼らは人の形、それも人体の理想形を模して作られる必要があったのか」

キムがこう応える。

「…人間の認識能力の不完全さはその現実の不完全さをもたらし、そして、その種の完全さは意識をもたないか、普遍の意識を備えるか、つまり人形あるいは神においてしか実現しない。」

そして動物――彼らは不完全な理性の下ではなく深い無意識の森を生きる。

この物語のエンディングであり、象徴的なシーンとして、自我の確立がなされていない「人間」以前の存在としての「子供」が「人形」を抱え、それをトグサが抱える姿とバセットを抱えたバトーが相対するというシーンを我々は目撃する。つまり我々は不完全な身体ではなく完全な身体的存在(「犬」や「人形」やあるいは「子供」!)を通して、再度、我々は自らの「身体」あるいは「生命」に巡りあっているのではないか、「もう1つの身体」を獲得したのではないか、と。

押井守はこの作品を通じて、新しいテクノロジーの発達―それが例え電脳化・サイボーグ化といったものでも、それを「退廃の美学」として否定するのではなく、「新しい進化の形」として受け入れる可能性を示唆したといえる。我々は仮に自らの「身体」を喪失したとしても「もう1つの身体」を通して「生命」というものを感じ取れる以上、「魂」を実体としての「身体」に閉じ込めておく必要はないのだと。しかし、果たして我々はこれを「新しい哲学の誕生」として受け入れられるだろうか。

同じように脳内の認識を中心とした「唯脳論」を唱えつつも養老孟司は全く別な解釈を行っている。脳とその延長としての神経回路、あるいは脳に対しての入出力系としての「身体」は、押井守が描いたように"電脳"というものを不可能とした上で、だからこそ「実体としての身体」こそが「私」と不可分であると。つまり我々は「もう1つの身体」ではなく、「失われた身体」を取り戻すことでしか、我々ではありえないのではないか、と。

あるいは鈴木敏夫が対談の中で述べたように、我々はバセットと戯れるバトーの姿に、「可能性」ではなく「孤独」を感じるのではないか。孤独の源泉がプラトンが言うように、失われた「半身」(=理想の女性像とそれを反映した少佐)にあるのだとすれば、例え常に"そこ"に少佐いるとしてもバトーの孤独は癒されることはない。「失われた半身」との一体化が、結局は魂(=ゴースト)あるいは自我の完全なる合一にしかありえず、現実的には不可能なことだとしても、それに近づくために我々は誰かを求め、触れ合い、接吻をし、1つになろうとするのではないか。自らの肉体を通して触れ合う感覚の意味は決して小さくない。そしてバセットにはそうした我々のつかの間の孤独を埋めることしかできない。


押井守の問いかけに対して、我々はどのような答えを出すことができるのだろうか。実体としての身体からの解放を選択した草薙素子に対して、実体にとどまりつづけるバトーはこう評す。

「自分が生きた証を求めたいなら、その道はゴーストの数だけあるのさ」



【評価】
総合:★★★★★
映像の美しさ:★★★★★
テーマの難解さ:★★★★☆


【参考】
「GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊」―押井守が問いかける「私」であることの意味 - ビールを飲みながら考えてみた…

EMOTION the Best GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊 [DVD]


イノセンス


唯脳論 (ちくま学芸文庫)/養老孟司


対論 脳と生命 (ちくま学芸文庫)/養老孟司



3 コメント

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トラックバックありがとうございます (sabi)
2004-10-10 20:44:13
すごく興味深く読ませていただきました。正直ラストのバトーとトグサの対比は漠然としていたんですが、なるほど~そうか~と思いました。私は孤独というものにも、楽しいところもあると思っていますが、何をよしとして生きるかは人生の数だけあるんですよね。
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コメントありがとうございます。 (網加)
2004-10-24 22:07:21
コメント、ありがとうございました(^^)。

興味深く読ませて頂きました、私も自分の解釈をもう一度読み直しいろいろと考えました。

ぜひ紹介されている養老孟司さんの本も読んでみたいですね。

解釈は人それぞれですが人それぞれの解釈を深く考えられる映画を制作した押井守監督には脱帽です。

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TBありがとうございます (酎犬八号)
2004-11-15 21:50:32
この映画の深い解釈を、たいへん興味深く読ませていただきました。

ラストシーンについては、自分なりに意味を考えていました。

人形にひどい目に会わされたはずなのに、おみやげに人形を買って帰るトグサと、それを嬉しそうに受け取る娘を、バトーは嘲笑したのではないかと、単純な解釈ですがそんな風に思いましたよ。

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