ビールを飲みながら考えてみた…

日常の中でふっと感じたことを、テーマもなく、つれづれなるままに断片を切り取っていく作業です。

【読書】親の死なせかた / 米山公啓

2013年08月09日 | 読書
「親の死なせかた」ちょっと衝撃的なタイトルではあるけれど、第三者として患者と接する医師が「親」という特別な存在の看取りに際して、どのように考えたか、どうすべきかをまとめた本。病名やおかれている状況も違うし、そこに正解があるわけではないのだけれど、自らの考え方を整理するために購入した本。


親の死なせかた 医者が父母の最期を看取って考えたこと / 米山公啓

【概要】

海外では「口から食べられなくなった時点で医療を打ち切る」のだという。それは社会のコンセンサスとして、不要な延命措置は患者の利益にならないとされているからだ。しかし日本では、(盲目的に)「医療は命を救うもの」とされてきたこと、何もしないことよりも何かすることが望ましいと考えられること、医療機関側からすると「点滴」「胃瘻」などが患者の管理を行いやすいことなどの理由から、過剰な延命措置が行われてきた。

しかし医療の世界でも「死」に対する考え方が大きく変わった。「死」が「医師の敗北」というわけではないと考えられるようになったのだ。口から食べれなくなった場合、選択しとしては、「鼻腔栄養」と「中心静脈栄養」という2つがあった。「鼻腔栄養」は鼻から管をいれて胃の中へ栄養を入れるというものだが、「肺炎」の原因となりやすい。「中心静脈栄養」は鎖骨下静脈のように太い静脈に点滴を行うが、感染症を起こす可能性がある。そのため、最近では胃に直接栄養を送る「胃瘻」という方法が用いられるようになった。胃瘻は病院側からは患者の管理が容易なこともあり、積極的に採用している施設もある。しかし認知症などで寝たきりとなった患者に胃瘻を続けた結果、何年も延命し続け介護を続ける家族の負担がいたずらに増加する場合もある。

最後まで口から食べる努力ができる環境、それが周囲の負担にならない雰囲気が必要であり、そこまでやっても食べられないなら余計な延命はしないというのが理想だろう。

医療方針や延命措置のあり方などについて、本人の意志「リビングウィル」を残すというやり方もある。ただし必ずしも臨床の現場で家族がそれに同意しない場合もある。また本当に「自己決定」ができればいいが、「家族の負担になるから」といった周囲への気配りに影響される場合もある。家族のへのカウンセリングや経済的援助など、患者が純粋に自分の意志を表明できなければ、自己決定を言う意味がないだろう。

【感想&レビュー】

この著の中でも書かれていたが、家族のが「死なせる決断」というのは難しい。「口から食べれなくなった時点で医療を打ち切る」というのは、概念としてはわかるのだけど、それをどこまで確固たる意志をもって主張できるだろうか。

実際、「インフォームド・コンセント」と言われながらも、医者と患者ではもっている情報量も知識も全く違う。どんなに説明をうけてもそれが(その処置が)最適なのかの判断がつくわけではない。この本を読む限り、結局のところ、医師だとしても、明確にその判断を下せるわけではないのだということが伝わってくる。

全体としては、自らの体験とそれに紐づく「認知症患者」の延命措置のあり方についての記述が多く、もう少し他の状況の「終末医療」についても記載して欲しかったと思う。


親の死なせかた 医者が父母の最期を看取って考えたこと / 米山公啓

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