ビールを飲みながら考えてみた…

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【書評】大往生したけりゃい医療とかかわるな-「自然死」のすすめ / 中村仁一

2013年08月21日 | 読書
「がん放置療法のすすむ(近藤誠)」と「生きる力がわく「がん緩和医療」(向山雄人)」の後に引き続き読んだ一冊。近藤誠さんが、「がん」、特に根治の可能性のない転移癌については、積極的な治療を求めるのではなく、QOLを確保するための治療や痛みをとるための治療のみとすることが望ましいとし、どちらかというと「積極的な治療」の否定派だとすると、向山雄人さんは「緩和治療」を抗がん剤などの「積極的治療」と並行して活用することで、(根治は難しくとも)がんの治療・延命に貢献できるというスタンスをとっている。その両者とはまた別の観点で、ある意味、もっとも過激かもしれないのが中村仁一さんの本著。その主張は一言でいうと、「自然死こそが望ましい」だ。


大往生したけりゃ医療とかかわるな (幻冬舎新書) / 中村 仁一


【概要】

中村仁一さんは老人ホーム「同和園」付属診療所所長ということで、これまでに数多くの「自然死」に立ち合わせれており、その経験から死期を延ばすような延命治療こそが患者の死を苦しめるのであり、天寿を全うするように、自然死する場合は決して苦しむことがないのだという。

そもそも人間には「自然治癒力」が備わっている。医師や薬はそれらの自然治癒力をサポートするためのものだ。例えば「発熱」の場合、発熱そのもので体の具合が悪くなるわけではない。発熱の原因によって具合を悪くなっているのだ。

細菌やウィルスに感染して発熱した場合、敵の力を弱めて早く回復しようという人体の作用によって発熱している。これを解熱剤を使って熱を下げるというのは、かえって治りが遅くなることになる。もちろん熱を下げることによって、食欲が増すというような場合もあるが。人間には自らを治す力を備わっており、その仕組みをうまく利用することが大事となる。

そのためには、

1)自然治癒力の回復過程を妨げぬこと
2)自然治癒を妨げているものを取り除くこと
3)自然治癒力が衰えているときは、それを賦活すこと
4)自然治癒力が過剰である時には、それを適度に弱めること

が必要となる。


「自然死」の実体とは「餓死(飢餓と脱水症状)」だ。

「飢餓」の段階では脳内モルヒネ様物質が分泌され、「脱水症状」では血液が濃く煮詰まるために、意識レベルが下がりぼんやりとした状態になります。この状態が続くと何の苦痛も感じない状態になる。呼吸が困難となり、酸欠状態となると脳内モルヒネ様物質の分泌が加速し、あわせて炭素ガスの排出が困難となり体内貯蔵溜が進むと麻酔作用があると言われている。

「死」というのは自然な営みである以上、そんなに過酷ではない。痛みや苦しみもなく、不安や恐怖や寂しさもなく、まどろみのうちにこの世からあの世へと移行することだ。年寄りの「老衰死」というのは決して苦しいものではない。

本来は歳をとればいろいろところがガタがきて、「健康でないこと」が当たり前のはずなのに、現在は高齢者でも健康であることを強制している。そのため過剰な治療・延命を求めることが当たり前となっており、家族の側も何もしないことに罪の意識を感じるから、医師に対して延命治療を求めることになる。

食べないから具合が悪いのではなく、「死に時」が来たから食べない高齢者に対して、「胃瘻」や「鼻チューブ」により強制的に栄養注入する。チューブを抜かないように患者を縛り付ける。高齢者にとって必要以上のカロリーを注入する。それで患者が喜んでいるのか。

がんの治療には、手術、放射線治療、抗がん剤治療と大きく3つあるが、完全に根絶できるものでないと意味がない。その意味では、手術と放射線治療だけが根絶の可能性がある。抗がん剤治療で「効く」というのは、大きさが小さくなり、その状態が一定期間続くことでしかない。その上、抗がん剤は猛毒なので、延命期間が数か月延びたとしても、副作用が強烈なので体はボロボロになる。

「同和園」でもがんで亡くなった高齢者も多いが、その様子を見ていると、痛みがなく発見が手遅れになってしまった場合、何の手出しもしなければ痛むことがない。がん性腹膜炎などで腹水が増えた場合にも、やがて傾眠状態となり、腹水もむくみもすべて消え、老衰死のコースをたどり着くことになる。死ぬのは「完全放置の癌」に限ります。


【感想】

人間には自然治癒力がある。このことにはまったく同意。風邪をひいても、基本、放置してひたすら寝るだけだし、たとえ医者へ行っても、もらった薬は殆ど飲まない。そんなこともあって、レントゲンをとったら「肺炎」の跡がある。どうやら(医者代ももったいなかった)貧乏学生の頃に肺炎をこじらせたらしいのだけど、それもいつの間にか治ってしまっている。

ということもあって、中村さんのこの考え方は非常に納得がいくというか、自分も死の時はこんな風に余計な治療などなく「自然死」がいいな、などと思ってしまう。しかしこれには覚悟がいる。この著書の後半にも書かれているが、本人が倒れれば周囲の人間や普通の医療関係者は普通、治療をしてしまう。そういった周囲の心配りに対し、「事前指示書」という形で、個別の治療に対し、どのような治療を希望し/希望しないのかを明示する必要があるからだ。

実際に「死」を意識した人であればともかく、そうでなければ、概念としてはわかるが、個別の症状に対し、そのようなスタンスを貫けるか。ここでは癌でさえも攻撃しなければ「痛まない」とあるが、果たして本当にそうなのか。「自然死」のプロセスもわかったものの、果たして本当に苦しくないのか。そんなこと誰にもわからない。

また本人であれば、ある程度、勝手に覚悟して決断してしまえばいいけれど、親族の場合はどうか。果たして覚悟ができていない親族に「「痛み」をとるような治療さえもする必要はないよ、人間の回復力が及ばなければ、それは死に時なのだから、ほおっておけば昏睡状態になり痛みさえもないのだから」などと言えるだろうか。あるいはそれで納得できるだろうか。

近藤誠さんが言うように緩和ケア、QOLの確保を目指した「がん放置療法」がいいのか、向山雄人さんが言うように「緩和医療」をうまく活用しながら「積極的治療」を進めたほうがいいのか、そもそも全てを「あるがまま」に任せてしまうほうがいいのか、最終的には個人の選択だとはいえ、正直、どれが適切なのかわからない。ただ同様な問題に直面しているのであれば比較してみるのはいいと思う。

全体的には、語り口なども含めてコラムや散文のような感じで、具体的な情報は見えてこない。もう少し症例や読み手の側が客観的に判断できるような事例や情報が入っていると説得力があったのだろう。


大往生したけりゃ医療とかかわるな (幻冬舎新書) / 中村 仁一



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