ビールを飲みながら考えてみた…

日常の中でふっと感じたことを、テーマもなく、つれづれなるままに断片を切り取っていく作業です。

「めぐりあう時間たち」-自分らしく生きることの「困難さ」と「決意」

2004年12月29日 | 映画♪
日常のささやかの営みの中にこそ「幸せ」は転がっているというのは正論だろう。多くの人々はそうした営みの中にとどまりながら天寿を全うしていくのだから。しかし今、自分の生きている社会や暮らしというものの生き難さに耐えられない人間はどうしたらいいのか?ただ「生きること」を肯定し強要する社会において、自分らしく生きるための選択はそれだけで尊重されるべきだと思う。ヴァージニア・ウルフの選択もローラ・ブラウンの選択もリチャードの選択も正論によって否定されるべきものではない。ヴァージニア・ウルフの小説『ダロウェイ夫人』をモチーフに、異なる時代の3人の女性の人生を象徴するような一日を描いた傑作。それぞれの役者が見事な演技を披露している。

1923年 イギリス、リッチモンド。病気療養中のヴァージニア・ウルフ(ニコール・キッドマン)は一人の女のたった一日の出来事、その一日に主人公の全ての人生が入っている傑作「ダロウェイ夫人」の執筆を始めていた。その書き出し「……ミセス・ダロウェイは言った、花は私が買ってくるわ」をなぞるかのように2人の女性の朝が始まろうとしていた。
1951年 ロサンジェルス。閑静な住宅地に住む主婦ローラ・ブラウン(ジュリアン・ムーア)は、"理想的な"夫のダン(ジョン・C・ライリー)が望む理想の妻を演じることに疲れていた。ダンの誕生パーティのための準備を始めるが、妻なら誰でも当たり前のように作ることのできるケーキがうまく焼けない。息子・リッチーを隣人に預け、ローラはある決意を胸に、大量の薬をもってノルマンディ・ホテルへと向かう。しかし彼女の腹にはもう1人の子供が。
2001年 ニューヨーク。クラリッサ・ヴォーン(メリル・ストリープ)は、エイズに冒された友人の作家リチャード(エド・ハリス)の受賞パーティーの準備をしていた。彼女は彼がつけたニックネーム"ミセス・ダロウェイ"に縛られたかのように、リチャードへの想いを抑え込んだまま彼の世話を続けてきたのだった。そんな彼女の心を見透かしたかのようなリチャードの言葉。そして3人の女性の一日がゆっくりと進み始めるのだった…





「ダロウェイ夫人」もそれ以外のヴァージニア・ウルフの作品も読んだことがなかったので、原作のどういうものがモチーフになっているのかはちょっとわからないのだが、そういう立場で見ると劇中劇のように2人の女性が見え始め、そういった意味でも緊張感が全編に溢れている。とはいえ、主人公の3人の女性は時代も違えば彼らを囲む環境も全く違うということもあり、彼らが抱えている周囲への違和感、生き難さは必ずしも共通するものではない。それぞれがそれぞれの問題を抱えており、それぞれの役者がそれを演じきっているが故にこの映画に深みを与える一方で、3人に共通するテーマの分かりにくさを作っている。

あえて共通するテーマを述べるなら、「自分らしく生きていくということはなんと困難なことなのだろうか」というところか。

ニコール・キッドマンが演じたヴァージニア・ウルフは同姓愛など社会のタブーの中で生きながら、しかしその感受性の高い精神は、一方で意識の流れを追求するという独自の文体を確立しつつも、もう一方で精神を病むことになる。他者の視線、傲慢さ、誰もが感じたことがあるであろう周囲との違和感――彼女は作家として、また1人の人間として周囲との不調和の中で必死に生きている。

メイドの一言一言や夫の優しささえも時に彼女を傷つける。愚鈍な人々にとってはなんでもない"傲慢さ"に耐え切れなければ、あるいは自意識の高さに折り合いをつけられなければ、その先にあるのは残酷な結末だ。「バナナ・フィッシュ」を見てしまったシーモアのように、「石が歩く姿」を見た太宰のように、あるいは「核-core-」や「彼」を歌った尾崎のように、彼らの「死」という結末は決して否定されるべきものではない。

またローラ・ブラウンは周囲からみれば幸福な生活だったのだろうが、彼女にはそれを「幸福」とし
て受け入れることができない。それはまだフェミニズムに触れることなく、女性が「自分らしさ」を知ることなく生きていかねばならぬ時代に漠然とした違和感・自我の目覚めを感じていたからなのか、「夫」や「子供」という本来尽くすべき存在以上に自分の欲するものを知ってしまったからなのか、いずれにしろ主人公3人の中でもっとも「幸福」を実現していたはずの彼女は、夫と自ら腹を痛めて生んだ子供を捨て生きていくことを選ぶ。

そして現代を生きるクラリッサ。彼女はヴァージニア・ウルフやローラ・ブラウンが許されなかった世界を体現している。「自立」「自由恋愛」「同性愛」「出産」…しかし、だからこそ自分らしく生きていくための決意は感じられない。彼女は現代の女性が抱えているように自分の生き方や恋愛、生と死について悩む。しかし答えはない。自分の愛したリチャードのストイックなまでの自意識に影響されながら、常に惑いつづける。あらゆることが選択可能であり、あらゆるチャンスがあり、あらゆることが許されつつも、結局彼女は何かを確固たる意思で選択できたのかわからない。もしかしたらそのことがリチャードを苦しめたかもしれないというのに。

クラリッサに比べ、リチャードの選択ははるかに前者2人に近いのかもしれない。母親への深い愛情と呪縛、放蕩な日々を過ごしたであろ青年期、そして両性を愛し、今はクラリッサに支えられながら生きている存在。彼はエイズという現実とともにヴァージニア・ウルフの感じていたであろう世の中のスノップさ傲慢さと戦い、崇高な精神を追求している。そこには「詩人」としての尊厳と価値はあるにしても決してクラリッサが獲得したであろう社会的ステータスとも無縁の存在である。そして彼もまたヴァージニアと同じ選択をせざろう得ない。

この物語の中にあるのは、社会の大部分を占める大衆たちと迎合し生きていくことのできないアウトサイダー、あるいはそうした社会的規範を超えて自分らしさを追求せざろう得ない人々の、そうせざろう得ない「決断」を描いているのだ。彼らは明確に自分がこの社会のルールに従って生きていくことのできない人間であることに気付いている。おそらく苦しみやもがきもあったであろう。それでもなお、彼らは彼ららしく生きるための「決断」を迫られるのである。

その決断が例えその時代や社会において許されざるものであったとしても、つまり「自殺」や「家族」といった社会の根幹をなす紐帯からの「逸脱」であったとしても、彼らの選択は社会のルールに従うだけの者によるうわべだけの批難に晒されるべきではない。何より彼らは自ら「選択」をし、多くの人々は(クラリッサのように)「選択」をしてしまっているだけなのだから。

ラスト、クラリッサは年老いたローラ・ブラウンと対話する。そこで彼女は初めて自らの行っている行為の重さ、決断の重さについて知る。私は果たして自分のために生きてきたのか、自分の本当に求めるもの、愛したものたちに十分に尊んできたのかと。

あらゆるものが選択可能な現代において、クラリッサがヴァージニアやローラになる必要はない。とはいえ、それは「生」を無意味に過ごすことを意味するのではない。自らが自らのために真剣に生きること、「人生に立ち向かい、いかなる時も人生から逃れようとせず、あるがままを見つめ、最後には受け入れる」こと、そのことの意味をもう一度問い直す必要があるのだろう。

あなたはあなた自身の人生を真剣に生きていますか?

その問いに答えるには、僕はすっかり社会に染まってしまったようだ。

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【評価】
総合:★★★★☆
役者の演技:★★★★★
内向的な時に見ると感染しそう度:★★★★★


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めぐりあう時間たち―三人のダロウェイ夫人(原作)


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大工よ、屋根の梁を高く上げよ|シーモア-序章/サリンジャー


壊れた扉から/尾崎豊
壊れた扉から

1 コメント

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Unknown (Anna)
2005-02-14 23:30:48
Let it be a flowerのAnnaです。

TBさせていただきました!

私はまだまだこの映画のよさを分かりきれないと思ったので、ブログで他の方たちのコメントを探していたのですが、mailtotaroさんの批評がとても素敵だったのでなるほど~と思いながらゆっくり拝読させていただきました。

ありがとうございました^^
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