久しぶりに北野武監督の「ソナチネ」を観る。これまでもはまった映画が何本もあったが、しかし一番お気に入りの映画は何か、と問われれば間違いなくこの映画だろう。常に「暴力」の世界に生きていた男たちのひと時の休息、人間的な生き方との出会いを通じて、生きることに内在する「暴力性」や「死」があくまで日常に位置することを描き出した作品。これは1つの哲学である。
【予告編】
ソナチネ (1993) - 劇場予告編 (Takeshi Kitano)
【ストーリー】
北嶋組幹部・村川は、組長から沖縄の友好団体・中松組が敵対する阿南組と抗争しているので助けてほしいとの命令を受けた。村川の存在が疎ましい幹部の高橋の差し金だったが、結局村川は弟分の片桐やケンらを連れて沖縄へ行く。沖縄では中松組幹部の上地や弟分の良二たちが出迎えてくれるが村川らが来たことでかえって相手を刺激してしまい、抗争はますます激化。ある者は殺され、ある者は逃げ出す。生き残った村川、片桐、ケン、上地、良二の五人は海の近くの廃家に身を隠した。ある夜、村川は砂浜で女を強姦した男を撃ち殺した。それを見て脅えもしない若い女・幸はいつのまにか村川と一緒にいるようになる。
【レビュー】
村川(北野武)にとって「生きる」ということは何だったのだろうか。これまで村川は「暴力の世界」に生きていた。「ドンパチ」にしろ「しのぎ」をあげることにしろ、やくざとして「生き」ていく上では「暴力」は肯定されるものであり、あるいは「(他者の)死」は村川自身が「生きていく」上では必要不可欠のものであっただろう。弱肉強食の世界で「緊張感」に包まれながら走り続けることこそが「生きる」ことだったのだ。
しかし彼は沖縄で別の世界を知ってしまう。
抗争の激化に伴って身をひそめた海沿いの廃屋での生活は、良二(勝村政信)とケン(寺島進)のやり取りに象徴されるように、これまでの「暴力」の世界とは正反対の世界だ。そこには「緊張感」ではない「生きる」ことの喜びがあり、敵を倒すことでも弱者を弄ることでも自身の征服欲を満たすことでもない、ただ「生きる」ことを楽しむ世界だ。
海が遥か彼方まで広がり、空は深い青に彩られる。そこは「死」とは程遠い。
この180度価値観の違う世界に接することで、村川の中で何が起こったのか。
村川がこめかみに銃を突きつけた時、それはただの空砲ではなく、もしかしたらこれまでの自分との「決別」だったのかもしれない。
しかしいくらコンクリートで街を覆ったとしても不意に発生する自然災害でわれわれの住む街が廃墟と化すように、決してこの穏やかな日々が長続きするわけではない。世界とは「不条理」であり、常に「暴力」と「死」とにつながっているのだ。次々と殺されていく仲間たち。そして村川はもう一度、かっての世界に戻ることを決意する。「暴力」と「死」と「緊張感」が溢れた世界へと。
そしてラストシーン、村川は生き残り廃屋に戻ろうとする。
しかし何かがそれを踏みとどませる。
彼がこの廃屋での日々を知らなければ、ここで死を選ぶことはなかっただろう。もう戻ることができないことを知っているのだ。「生」の世界にも「暴力」と「死」の世界にも。
しかしこの映画の真に凄いところは、物語の展開とそれが語りうるメッセージではない。
この映画は全編を通じて、「生」と「死」とは常に共に存在しているのだということ、人間のもつ「暴力的性」、生きることの「不条理」、人間に内在する「破壊願望」を観る側に突きつけてくるのだ。だからこそストーリーとその解説などに意味はなく、全てのメッセージを作品そのものとして受け取る必要がある。
この作品を撮影した当時、たけしはフライデー襲撃事件というある意味での「自殺」を行い、また(本当は自殺だったのではといわれる)バイク事故を起こすなど、精神的にも非常に不安定な時期であった。もともと北野武の作品には「死」の影が付いてまとうのだが、このソナチネについては最も「死」について近づいいるのは、そうした本人の状況によるのだろう。
しかしだからこそ人や世界のもつ「不条理」にもっとも近づいた傑作に仕上がったのだろう。
【評価】
総合:★★★★★
北野色満載:★★★★
観ればわかるよ:★★★★★
ソナチネ~神は北野武に何物与えるのか

まだ始まってもいないよ―北野武の「キッズ・リターン」

武がたけしを殺す理由

【予告編】
ソナチネ (1993) - 劇場予告編 (Takeshi Kitano)
【ストーリー】
北嶋組幹部・村川は、組長から沖縄の友好団体・中松組が敵対する阿南組と抗争しているので助けてほしいとの命令を受けた。村川の存在が疎ましい幹部の高橋の差し金だったが、結局村川は弟分の片桐やケンらを連れて沖縄へ行く。沖縄では中松組幹部の上地や弟分の良二たちが出迎えてくれるが村川らが来たことでかえって相手を刺激してしまい、抗争はますます激化。ある者は殺され、ある者は逃げ出す。生き残った村川、片桐、ケン、上地、良二の五人は海の近くの廃家に身を隠した。ある夜、村川は砂浜で女を強姦した男を撃ち殺した。それを見て脅えもしない若い女・幸はいつのまにか村川と一緒にいるようになる。
【レビュー】
村川(北野武)にとって「生きる」ということは何だったのだろうか。これまで村川は「暴力の世界」に生きていた。「ドンパチ」にしろ「しのぎ」をあげることにしろ、やくざとして「生き」ていく上では「暴力」は肯定されるものであり、あるいは「(他者の)死」は村川自身が「生きていく」上では必要不可欠のものであっただろう。弱肉強食の世界で「緊張感」に包まれながら走り続けることこそが「生きる」ことだったのだ。
しかし彼は沖縄で別の世界を知ってしまう。
抗争の激化に伴って身をひそめた海沿いの廃屋での生活は、良二(勝村政信)とケン(寺島進)のやり取りに象徴されるように、これまでの「暴力」の世界とは正反対の世界だ。そこには「緊張感」ではない「生きる」ことの喜びがあり、敵を倒すことでも弱者を弄ることでも自身の征服欲を満たすことでもない、ただ「生きる」ことを楽しむ世界だ。
海が遥か彼方まで広がり、空は深い青に彩られる。そこは「死」とは程遠い。
この180度価値観の違う世界に接することで、村川の中で何が起こったのか。
村川がこめかみに銃を突きつけた時、それはただの空砲ではなく、もしかしたらこれまでの自分との「決別」だったのかもしれない。
しかしいくらコンクリートで街を覆ったとしても不意に発生する自然災害でわれわれの住む街が廃墟と化すように、決してこの穏やかな日々が長続きするわけではない。世界とは「不条理」であり、常に「暴力」と「死」とにつながっているのだ。次々と殺されていく仲間たち。そして村川はもう一度、かっての世界に戻ることを決意する。「暴力」と「死」と「緊張感」が溢れた世界へと。
そしてラストシーン、村川は生き残り廃屋に戻ろうとする。
しかし何かがそれを踏みとどませる。
彼がこの廃屋での日々を知らなければ、ここで死を選ぶことはなかっただろう。もう戻ることができないことを知っているのだ。「生」の世界にも「暴力」と「死」の世界にも。
しかしこの映画の真に凄いところは、物語の展開とそれが語りうるメッセージではない。
この映画は全編を通じて、「生」と「死」とは常に共に存在しているのだということ、人間のもつ「暴力的性」、生きることの「不条理」、人間に内在する「破壊願望」を観る側に突きつけてくるのだ。だからこそストーリーとその解説などに意味はなく、全てのメッセージを作品そのものとして受け取る必要がある。
この作品を撮影した当時、たけしはフライデー襲撃事件というある意味での「自殺」を行い、また(本当は自殺だったのではといわれる)バイク事故を起こすなど、精神的にも非常に不安定な時期であった。もともと北野武の作品には「死」の影が付いてまとうのだが、このソナチネについては最も「死」について近づいいるのは、そうした本人の状況によるのだろう。
しかしだからこそ人や世界のもつ「不条理」にもっとも近づいた傑作に仕上がったのだろう。
【評価】
総合:★★★★★
北野色満載:★★★★
観ればわかるよ:★★★★★
ソナチネ~神は北野武に何物与えるのか

まだ始まってもいないよ―北野武の「キッズ・リターン」

武がたけしを殺す理由

※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます