ビールを飲みながら考えてみた…

日常の中でふっと感じたことを、テーマもなく、つれづれなるままに断片を切り取っていく作業です。

【映画】鈴木先生:啓蒙主義を否定した鈴木メソッドがもたらす息苦しさ

2013年09月29日 | 映画♪
「息苦しくなりましたねぇ」コンプライアンス強化やら、セキュリティ対策やらで最近の職場で出た会話。しかしこれは何もうちの職場だけではない。社会全体を覆うある種の空気感を象徴していると言っていい。映画版「鈴木先生」ではこの「息苦しさ」がテーマ。しかし僕が感じたのは「鈴木先生」の持つ息苦しさだ。

【予告編】


OP映像


【あらすじ】

緋桜山中学の国語教師・鈴木先生(長谷川博己)は、一見問題がない普通の生徒ほど内面が鬱屈していると考えており、独自の教育理論・鈴木メソッドを用いて理想的なクラスを築き上げようと日々奮闘している。常識を打ち破る局面もあるため、他の教師と対立することもある。また、理想の教室を築く上で欠かせないと考える女子生徒・小川蘇美(土屋太鳳)を重要視しているうちに、よからぬ妄想を抱いてしまうこともしばしばある。そんな鈴木先生を妻の麻美(臼田あさ美)はよき相談相手となりそっと支える。麻美には相手の考えていることを見抜き生霊を飛ばす特殊能力があり、鈴木先生は身重の麻美に気苦労させまいとより一層自らを律している。生徒会選挙や文化祭など行事の多い2学期を迎え、慌ただしいながらも充実した日々を送る中、OBの勝野ユウジ(風間俊介)が小川を人質にとり学校に立て篭もる事件が起こる……。(「Movie Walker」より)


【レビュー】

ドラマはテレビ東京系列で放送されたが視聴率は2%前後と正直、低調だったが、ギャラクシー賞テレビ部門優秀賞等高い評価を得た作品。

実際、見てみると、これまでの学園モノとはちょっと違う。これまでの学園モノが問題児や不良を中心に先生たちの奮闘を描いていたのだとしたら、このドラマでは「学校教育は手のかからない普通の生徒の心の摩耗の上に成り立っている」との認識に従い、普通の生徒たちの些細な、時には重要な問題に対し、真摯に立ち向かう鈴木先生の活躍が描かれている。

この物語では「鈴木メソッド」と呼ばれる独自の教育方法が採用されている。

と言っても、独自のツールを使うというようなものではない。既存のカリキュラムや指導法をそのまま教えるというのではなく、生徒たちが実社会をサバイブしていくために「自ら考える」能力や「視点」を身につけ「変革」させるために、一歩引いた立場からアドバイスをしていくというものだ。

それは過度な「平等主義」や「建前的な良心」を教え込む教育とも、教師が生徒に一方的に「教え込む」「啓蒙していく」教育とも違う。戦後教育が抱え込んだ課題に対し挑戦するものだ。

この作品ではこうした「啓蒙主義」的な教師の象徴として富田靖子演じる足子先生と鈴木メソッドで指導していく鈴木先生との対立が基軸をなす。そしてドラマ版では啓蒙主義的良心の権化であるはずの足子先生が壊れ「死ねー、鈴木」と叫ぶことになる。人間には決して理性や良心によってのみ行動できるわけではないのだ。


映画版では足子先生が復帰し、「全員参加の公正な選挙」や「(生徒の安全を守るために)公園から喫煙所の撤去」を打ち出す。こうしたフレーズは啓蒙主義的な良心であり、否定しにくいものだ。しかしここに現実を無視した良心が跋扈する。理性的に、良心に従って行動するというのは目指すべき像かもしれないが、決して人間はそれだけで行動できるわけではない。そうした規範から外れたものの受け皿としての緩衝地帯、グレーゾーンが必要なのだ。

しかし否定しにくいこのフレーズが推し進められ、やがて2つの暴発を引き起こすことになる…

もちろんこの作品でも「鈴木メソッド」が是として描かれることになるのだけれど、一方でこの「鈴木メソッド」に対する違和感もある。

もちろんこのドラマの面白さは、現実を無視した啓蒙主義に対し、現実をサバイブする能力を身につけるための「鈴木メソッド」の正当性にあるわけだけれど、一方でこの鈴木メソッドの目指すものとは、「自己啓発」書的な思考法と同じ匂いを感じる。

もちろん自己啓発自体が悪いことはない。スティーブン・R・コヴィー氏の「7つの習慣」等はビジネスで成功した人たちの指南書としても紹介されているし、極論すれば、ポジティブに人生を歩むためのメソッドといってもいい。

何でもマイナス側面ばかり考える人や、常に受け身で不満ばかり持っている人、何事も他責にしてしまうような人は、これを読めば自らが「負」を呼び込んでしまっていることがわかるだろう。そして生き方・考え方を変えることで救わる人も多いはずだ。

しかしその一方でこうした「自己啓発」とは、現在の社会に最適化された人間を創り出すものでもある。だからこそ(著者の意図がどうであれ)社会での成功が謳われ、それを求めて皆が参加するのだ。

鈴木メソッドとは、結局、社会に最適化された人間を創り出すための教育方法でしかないのではないか。それが僕が感じる違和感だ。自己啓発書で展開される主張では、何か問題が生じた際にも主体的に問題を解決する、あるいは問題解決に参加することが望まれる。社会人であればこうしたスタンスは素晴らしい。しかし高校生がぶち当たる問題とはそうした実際的な問題だけだろうか。悩むこと自体に意味がある場合もあるのではないか。たとえそこで答えが見つからなくても、悩み考え抜くこと自体で何かが深まっていく、そんなこともあるだろう。

しかし社会に最適化するということは、「答えのない問題を考える」ことを是とはしないだろう。それは無意味だからだ。漠然とした人生の意味について考えるよりも、具体的に何になりたいか、そのためにはどうすればいいかを考えるだろう。そうした実践的知を10代に求めることは適正なのか。

否、鈴木メソッドはそうしたことを求めているわけではないのかもしれない。そうした問題も含めて、多様な視点から考える能力を磨こうとしているだけかもしれない。しかし例えそうした理念であっても、それを応用する側はより実践的な問題だけを見ようとするかもしれない。そのように利用されかねない要素を「鈴木メソッド」では持っているのだ。

今の教育方針を支持するつもりはサラサラないが、こうした「鈴木メソッド」を手放しで評価できないとこに、教育というものの難しさがあるのだろう。

【レビュー】
全体:★★★☆☆
ドラマ版の方が生徒たちが活き活き描かれていたような…:★★★★☆
とはいえ、学園ものの歴史を変えます!:★★★★☆


「映画 鈴木先生」DVD


7つの習慣―成功には原則があった! / スティーブン・R. コヴィー


コメントを投稿