長い会議。A案がいいか、B案がいいか―。どちらもそれぞれ課題がある。それぞれ解決策も話し合った。それでも問題が完全に払拭されたわけではない。時間が過ぎる。今日こそは結論を出さねばならない。もう締め切りは間近に迫っている…「こっちの方がいいかな」「やむを得ないな」その場の流れはA案に傾きかける。一同が顔を見合わせ、互いに確認し合う。後は部長が了解すれば終わりだ。
課長「部長、A案でいかがでしょうか?」
沈黙。皆が部長の次の一言に注目する。
部長「…両方とも違うと思うんだよなぁ~」
一同「…………」
これまでの議論や議論の前提を最後の最後で木っ端微塵に吹き飛ばす一言。努力や汗の結晶を無に帰すセリフ…。僕らはこの技を「ちゃぶ台返し」と呼んでいる。例えば、
・まとまりつつある意見の両方を否定する「違うと思うんだよなぁ」
・はなっから自分の中で別な結論が出ていて皆の議論は必要なかった「俺はC案だと思う」
・これまでの議論すべてを否定する「これ本当に必要なの?」
などなど。いずれにしろこれら「ちゃぶ台返し」を効果的に演出するためにはタイミングが必要だ。皆の緊張を高め、疲労がピークに達したその瞬間に肩すかしを食らわせねばならない。
しかし意外とこの技を使いこなす上司は多い。訓練でも受けているのか?まさか。
では彼らは何故、こんなことができるのだろう。
大前提として、「ちゃぶ台返し」をするためには「権限」や「権力」を持っていることがあげられる。そりゃそうだ、新入社員がそんなことをしたって「黙殺」されて終わりだろう。
「権力」を持っている上司に対して、部下たちは気を遣う。上司には都合のいい情報しか上げないし、お追従をいう。また「現場」から離れていることも多いため、「現場感覚」は失われ、その結果、自分の意見が常に正しいかのように、ある意味、「裸の王様」のようになってしまう。
その上で、いくつかのパーソナリティに基づく要因があげられる。
1)「人の話を聞かない」「自分の中で結論を出したがる」
2)「単純化思考」「総合的な判断に弱い」
3)自分を客観化する視点が弱い
1)の「人の話を聞かない」「自分の中で結論を出したがる」といのは決して悪いことばかりではない。人より「勘」やセンスが優れている、先見の明があるといった上司であれば、部下たちが何を言おうと彼の意見に従えばいい。問題はそう思っている上司は多いかもしれないが、そう思われている上司は多くないということだ。
結局、本人にそうしたセンスが備わっていないのであれば、そうしたセンスのある意見を参考にする、あるいは部下からの多面的な議論の結果を踏まえて、適切な(可能性の高い)判断を下さねばならない。しかし「裸の王様」になってしまうと、そうしたことする忘れてしまう。自分の中で結論を下したがるという性向を、周囲が後押しをしてしまうのだ。
2)の「単純化思考」とはなんだろう。
そもそも誰に聞いても結論が出ているような問題であればこんな話にはならない。こういう話が出るのは、問題そのものが複雑でその立場立場で利害が異なる場合やどうしても拭い去れないリスクが伴う場合だろう。そして往々にして現実の問題とはこうしたケースだ。
利害関係が錯綜している問題の場合、関係性の複雑さはもちろん、立場によってメリット/デメリットが異なるわけだけれど、そうした「複雑な問題」を理解できない人、しようとしない人、リスクをとりたがらない人の場合、問題をやたらめったら「単純化」しようとする。
もちろんこれも悪いことではない。複雑な問題を複雑なまま対処しようとすれば、にっちもさっちもいかなくなることだってある。そんなときにあえて問題を単純化し、本当に必要な要素を明確にするということは間違いではない。しかしこれだって限度がある。複雑な問題は単純化・モデル化したとしても、決して1つの結論になるとは限らない。
「俺が知りたいのは、(A案とB案の)どっちがいいのかなんだ!」
「A案でもB案でもいいから、どうすれば解決できるのか知りたいんだ!」
こうなるとこれは単純化やモデル化ではない。適切に判断するための材料を提示した上で、それでもこうした発言が出るのだとしたら、それは思考停止か責任放棄と言っていい。過度な「単純化思考」は、単に複雑な問題に対しての「総合的な判断力」が不足していることでしかないのだ。
本来であれば、1)にしろ2)にしろ、上司に対して意見ができる部下がいればいいのだけれど、なかなかそうはいかないもの。そうした状況に対して、自分が「裸の王様」かどうかをチェックするあるいは周囲の人間が本当はどう感じているのかを把握する能力というのが上司にあればこういうことは避けられる。
こうした状況を生み出してしまう原因として、やはり自分自身を「客観化しようという意識」の不足があるだろう。
ま、こうした上司を持ってしまったことは不運だと思うしかない。もちろんそこに食い下がってみるという手もある。するとこう思われるのだ。
「あいつは面倒くさいなぁ」
あ、もちろん僕のことじゃないですよ。
課長「部長、A案でいかがでしょうか?」
沈黙。皆が部長の次の一言に注目する。
部長「…両方とも違うと思うんだよなぁ~」
一同「…………」
これまでの議論や議論の前提を最後の最後で木っ端微塵に吹き飛ばす一言。努力や汗の結晶を無に帰すセリフ…。僕らはこの技を「ちゃぶ台返し」と呼んでいる。例えば、
・まとまりつつある意見の両方を否定する「違うと思うんだよなぁ」
・はなっから自分の中で別な結論が出ていて皆の議論は必要なかった「俺はC案だと思う」
・これまでの議論すべてを否定する「これ本当に必要なの?」
などなど。いずれにしろこれら「ちゃぶ台返し」を効果的に演出するためにはタイミングが必要だ。皆の緊張を高め、疲労がピークに達したその瞬間に肩すかしを食らわせねばならない。
しかし意外とこの技を使いこなす上司は多い。訓練でも受けているのか?まさか。
では彼らは何故、こんなことができるのだろう。
大前提として、「ちゃぶ台返し」をするためには「権限」や「権力」を持っていることがあげられる。そりゃそうだ、新入社員がそんなことをしたって「黙殺」されて終わりだろう。
「権力」を持っている上司に対して、部下たちは気を遣う。上司には都合のいい情報しか上げないし、お追従をいう。また「現場」から離れていることも多いため、「現場感覚」は失われ、その結果、自分の意見が常に正しいかのように、ある意味、「裸の王様」のようになってしまう。
その上で、いくつかのパーソナリティに基づく要因があげられる。
1)「人の話を聞かない」「自分の中で結論を出したがる」
2)「単純化思考」「総合的な判断に弱い」
3)自分を客観化する視点が弱い
1)の「人の話を聞かない」「自分の中で結論を出したがる」といのは決して悪いことばかりではない。人より「勘」やセンスが優れている、先見の明があるといった上司であれば、部下たちが何を言おうと彼の意見に従えばいい。問題はそう思っている上司は多いかもしれないが、そう思われている上司は多くないということだ。
結局、本人にそうしたセンスが備わっていないのであれば、そうしたセンスのある意見を参考にする、あるいは部下からの多面的な議論の結果を踏まえて、適切な(可能性の高い)判断を下さねばならない。しかし「裸の王様」になってしまうと、そうしたことする忘れてしまう。自分の中で結論を下したがるという性向を、周囲が後押しをしてしまうのだ。
2)の「単純化思考」とはなんだろう。
そもそも誰に聞いても結論が出ているような問題であればこんな話にはならない。こういう話が出るのは、問題そのものが複雑でその立場立場で利害が異なる場合やどうしても拭い去れないリスクが伴う場合だろう。そして往々にして現実の問題とはこうしたケースだ。
利害関係が錯綜している問題の場合、関係性の複雑さはもちろん、立場によってメリット/デメリットが異なるわけだけれど、そうした「複雑な問題」を理解できない人、しようとしない人、リスクをとりたがらない人の場合、問題をやたらめったら「単純化」しようとする。
もちろんこれも悪いことではない。複雑な問題を複雑なまま対処しようとすれば、にっちもさっちもいかなくなることだってある。そんなときにあえて問題を単純化し、本当に必要な要素を明確にするということは間違いではない。しかしこれだって限度がある。複雑な問題は単純化・モデル化したとしても、決して1つの結論になるとは限らない。
「俺が知りたいのは、(A案とB案の)どっちがいいのかなんだ!」
「A案でもB案でもいいから、どうすれば解決できるのか知りたいんだ!」
こうなるとこれは単純化やモデル化ではない。適切に判断するための材料を提示した上で、それでもこうした発言が出るのだとしたら、それは思考停止か責任放棄と言っていい。過度な「単純化思考」は、単に複雑な問題に対しての「総合的な判断力」が不足していることでしかないのだ。
本来であれば、1)にしろ2)にしろ、上司に対して意見ができる部下がいればいいのだけれど、なかなかそうはいかないもの。そうした状況に対して、自分が「裸の王様」かどうかをチェックするあるいは周囲の人間が本当はどう感じているのかを把握する能力というのが上司にあればこういうことは避けられる。
こうした状況を生み出してしまう原因として、やはり自分自身を「客観化しようという意識」の不足があるだろう。
ま、こうした上司を持ってしまったことは不運だと思うしかない。もちろんそこに食い下がってみるという手もある。するとこう思われるのだ。
「あいつは面倒くさいなぁ」
あ、もちろん僕のことじゃないですよ。
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