ビールを飲みながら考えてみた…

日常の中でふっと感じたことを、テーマもなく、つれづれなるままに断片を切り取っていく作業です。

Wikipedia問題と「正しさ」の程度を見抜くセンス

2005年12月07日 | 思考法・発想法
インターネットの世界に書かれていることが真実か?否、ブログやHPをはじめインターネット上のサイトに書かれていることなんて言葉は全て、ただの意見の表明であり、独り言であり、ただの言葉にすぎない。リアルな世界で存在するキャッチコピーが真実であるか否かを問うことと同じであり、あらゆる書物もまたそうである。改訂されなかった教科書や辞書があっただろうか。

そういうこともあってWikipediaが絶対に正しいという気はないものの、仮に1ブロガーの意見表明よりも、Wikipediaの方が事実に近いこともまた事実。これまでの世界のような「正しい」という権威が薄らぎつつある中で、程度の問題として「正しい」に近いものを信用するだけだ。そう考えると、オープンソースというものの在り方について、この問題は非常に興味深いものだ。

 成長の痛みを味わうWikipedia--2つの「事件」で問われる在り方

所謂、大学の教授やその道の権威者のみが編集し、発行することが許されていた時代の感覚からすれば、このある意味、「正しい」を程度の問題として扱うこのルーズなスタイルは「正しくない」として認められないことかもしれない。しかし、より急速に、瑣末に、膨張していく「モノゴト」に対して、より迅速に「意味」を整理しようとするならば、全てを把握しつくした「神」にでも任せるか、はたまたより多くの人の手にゆだねながら、より「正しい」に近づこうとするこのスタイルは決して悪いものではない。

性善説的な価値観、インターネットユートピア論を求めすぎてはいけないと思いつつも、多少の改竄の可能性を認めつつも、利己主義や拝金主義とも違う、Wikipediaのこのスタイルは貴重な存在だ。

むしろ求められるのは、「間違い」や不当な改竄が無いことではなく、それらの存在を常に指摘しつづけ、複眼的な観点からバランスよく、より「正しい」ものに近づいていこうとすることであり、また全てが「正しい」ことを求めるのではなく、程度の問題としてより「正しい」ものを見抜く感覚なのだろう。


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