ビールを飲みながら考えてみた…

日常の中でふっと感じたことを、テーマもなく、つれづれなるままに断片を切り取っていく作業です。

タイせんべいの味覚と言葉

2013年03月02日 | 思考法・発想法
アジアンカフェで「タイ」せんべいを食べた。感触としては油で揚げた「えびせん」に近いのだけど、その味覚を表現しようとするととたんに困ってしまう。「美味しい」ではあまりにも大雑把だし、かといって「甘酸っぱい」でもないし「辛い」でもない。その両方の要素が何となく入っているのだけど、「甘酸っぱいですよね」とか「辛いですね」と聞かれても素直に同意できない。その両方の要素が交わりながら、日本語では適切に表現できない微妙な味わいなのだ。

改めて「言葉」とはその生活様式とともに成り立っているのだと思う。

例えば「雪」という存在。東京で生活していると、「雪」を見て「雪が降ってきた」という言い方をするけれど、1年を通じて「あられが降ってきた」「雹が降ってきた」「みぞれがふってきた」という言い方をすることはほぼない。「あられ」や「雹」「みぞれ」といった言葉は、東京の人でも当然知っているだろうが、いざ東京で生活してみるとそれを区分けするほど雪を見る機会もなければ、その必要もない。そこには大くくりの「雪」という言葉があれば十分だ。

しかしこれが北陸のような雪国になると具合が違う。「あられ」と「雪」は全然違うし、「みぞれ」と「雪」も全然違う。雪にしたって、「粉雪」なのか「ぼたん雪」なのか、そうしたもので、出かけ時に傘がいるのか、雪かきが必要なのか、そういったものが変わってくる。大くくりの「雪」だけではなく、「雹」や「あられ」が個別に存在することになる。

さらに雪の世界で生活しているエスキモーでは、そもそも「雪」という言葉は存在しない。そんな大くくりの存在ではなく、もっとその状態に合わせて個別の呼称として存在している。例えば、「降っている雪」「地面に積もっている雪」「半解けの雪」「氷のように固まっている雪」というように異なる存在として見なしている。

雪の中に生活する彼らにとっては、「雪」などと一言で片付けられるようん存在はなく、大くくりで見ても4つの異なるものとして存在し、更にそれぞれの状態を表現する50以上の言葉が存在する。

世界は言葉によって分類され組み立てられる。

「タイせんべい」に感じている味覚を適切にあらわす「言葉」「概念」がないというのは、これまでの日本の生活、食文化の中でこうした味覚が存在しなかったからだろう。そして言葉がないことで、僕らは感じている味覚を表現できないのだ。分類不能な感覚として、僕らの認知外の存在となる。

生活の中から「言葉」が生み出されているのか、「言葉」によって世界は切り取られ発見されるのか。あるいはその相互作用なのか――。

アサヒの「スーパードライ」が登場した頃、それまでのビールの評価基準として「キレ」という言葉が登場した。そしてその言葉によって、10年以上にわたってビールの新しい価値基準とともに「スーパードライ」が業界を席巻することとなった。その後、「キレ」に代わる新しい「言葉」が求められ続けた。「コク」や「苦味」「旨み」「深み」あるいは「カロリーオフ」など…

ただそれらの言葉で表現しきれないまま「プレミアムモルツ」が市場で高い評価を得ている。もしこの味を表現する言葉/価値基準が生み出されれば、その勢いはさらに続くのだろう。いや、ないからこその「魔力」なのか。

きっと、僕らの生活は常に変化し、分類できない新しい感覚が生まれ続けているのだろう。そしてだからこそ「言葉」が求められ続けるのだろう。


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