車の通りのない交差点。信号機を見ながら子供に「赤信号は渡ってはいけない」と教える母親。この当たり前のシーン、全く正しいシーンを目にするたびに微妙な違和感を感じることがある。
僕が感じる違和感というのは、車の通りがないのに「渡ってはいけない」と考える思考様式であり、そもそも「赤信号で停まる」「信号を守る」といったルールというのは、社会を円滑に回すために恣意的に取り決められた制度であって、そもそもは自由に往来すべきものだということが「忘れられていること」への違和感だ。
ある意味、こんなことは考えるべきことではないのかもしれない。こんなことを問うたところで、結局のところ、たどり着く先は社会制度の恣意性・無根拠性というだけなのだから。
例えば円滑に交通を回すだけなら、「青で止まる、黄色で進む」だっていいし、「3分単位で進んでいい方向が切り替わる」だっていい。「赤で止まる」必要はない。そもそも車の通りがないという状態で、「赤で止まる」というルールは必要なのか。
昔は「神」によって与えられた「正当性」が今は「法律」によって与えられている。では「法律」の正当性は?と問えばとたんに声が小さくなる。「功利主義」「社会契約説」「ロールズ的自由論」「コミュニタリズム」…いずれの原理も最終的には「理」によって語られている。そしてそれらは「ポストモダン」や「文化多元主義」の名のもとに相対化されてしまう。絶対的な正当性などどこにもない。誰もが納得するヒトに共通の「本能」や「性(さが)」や自然の「摂理」によって語られたわけではない。
そんなことを考えていると、あるゆる「物事」や「ルール」「制度」というものが解体されていく。「倫理」や「道徳」だろうが、人間の性や特性によって語られたものでなければ、あらゆるものが「虚構」の存在として存在基盤を失ってしまう。
先日、同じくらいの年代の集まりがあって、もちろん仕事でつながりがあったりと比較的に親しいメンバーで、会話も盛り上がったのだけど、何だろう、語られる会話の同質性というか、その場は奇妙にくらい同じような価値観に支配されていた。
「赤信号は渡らない」
そんな当たり前のことが問われることもなく大前提となっているような「場」。誰もが社会人となり働いている。それぞれが家庭をもち生活がある。役職についているものもいるし、PTAの活動に参加しているものもいる。しかし果たしてこのメンバーが10年前に集まったとしたら、こんな風だっただろうか。今の価値観に否を唱えたり、他の価値観を唱えたり、もっといろいろな可能性についても語られたのではないか。これがこの10年という年月の「丸くなった」結果なのだろう。
組織の中で生きれば組織のルールがある。コミュニティの中で暮らせばそのコミュニティのルールがある。当たり前だ。それが「社会」というものなのだから。では、そのルール自体を問うことは間違いなのか。
AH 耳を塞いでる僕がいる それなのになぜか声がする
見えない夜に色をつける声は誰だ
「エンドレス/サカナクション」
その一方でこうしたルールが求められていることもよくわかる。社会自体に秩序をもたらし安定させるには、(暗黙のうちに)誰もが守るべきルール、道徳や倫理、価値観が必要なのだ。社会全体としてのモラルが崩壊しつつある中で、道徳や倫理、共通のルールの再構築が求められている。
必要性を理解していることとその恣意性を理解してしまっていること。ミッシェル・フーコーが指摘したように僕らは「規律」という名のパノプティコンを自らの内面に築いている。だとすると、このことをどのように扱うべきなのだろう。
気づかなければ何も疑問を持たないのかもしれない。
「赤信号は渡ってはいけない」
その言葉の意味にどうしても違和感がぬぐい去れないのだ。
フーコー入門 (ちくま新書) / 中山元
サカナクション / エンドレス
僕が感じる違和感というのは、車の通りがないのに「渡ってはいけない」と考える思考様式であり、そもそも「赤信号で停まる」「信号を守る」といったルールというのは、社会を円滑に回すために恣意的に取り決められた制度であって、そもそもは自由に往来すべきものだということが「忘れられていること」への違和感だ。
ある意味、こんなことは考えるべきことではないのかもしれない。こんなことを問うたところで、結局のところ、たどり着く先は社会制度の恣意性・無根拠性というだけなのだから。
例えば円滑に交通を回すだけなら、「青で止まる、黄色で進む」だっていいし、「3分単位で進んでいい方向が切り替わる」だっていい。「赤で止まる」必要はない。そもそも車の通りがないという状態で、「赤で止まる」というルールは必要なのか。
昔は「神」によって与えられた「正当性」が今は「法律」によって与えられている。では「法律」の正当性は?と問えばとたんに声が小さくなる。「功利主義」「社会契約説」「ロールズ的自由論」「コミュニタリズム」…いずれの原理も最終的には「理」によって語られている。そしてそれらは「ポストモダン」や「文化多元主義」の名のもとに相対化されてしまう。絶対的な正当性などどこにもない。誰もが納得するヒトに共通の「本能」や「性(さが)」や自然の「摂理」によって語られたわけではない。
そんなことを考えていると、あるゆる「物事」や「ルール」「制度」というものが解体されていく。「倫理」や「道徳」だろうが、人間の性や特性によって語られたものでなければ、あらゆるものが「虚構」の存在として存在基盤を失ってしまう。
先日、同じくらいの年代の集まりがあって、もちろん仕事でつながりがあったりと比較的に親しいメンバーで、会話も盛り上がったのだけど、何だろう、語られる会話の同質性というか、その場は奇妙にくらい同じような価値観に支配されていた。
「赤信号は渡らない」
そんな当たり前のことが問われることもなく大前提となっているような「場」。誰もが社会人となり働いている。それぞれが家庭をもち生活がある。役職についているものもいるし、PTAの活動に参加しているものもいる。しかし果たしてこのメンバーが10年前に集まったとしたら、こんな風だっただろうか。今の価値観に否を唱えたり、他の価値観を唱えたり、もっといろいろな可能性についても語られたのではないか。これがこの10年という年月の「丸くなった」結果なのだろう。
組織の中で生きれば組織のルールがある。コミュニティの中で暮らせばそのコミュニティのルールがある。当たり前だ。それが「社会」というものなのだから。では、そのルール自体を問うことは間違いなのか。
AH 耳を塞いでる僕がいる それなのになぜか声がする
見えない夜に色をつける声は誰だ
「エンドレス/サカナクション」
その一方でこうしたルールが求められていることもよくわかる。社会自体に秩序をもたらし安定させるには、(暗黙のうちに)誰もが守るべきルール、道徳や倫理、価値観が必要なのだ。社会全体としてのモラルが崩壊しつつある中で、道徳や倫理、共通のルールの再構築が求められている。
必要性を理解していることとその恣意性を理解してしまっていること。ミッシェル・フーコーが指摘したように僕らは「規律」という名のパノプティコンを自らの内面に築いている。だとすると、このことをどのように扱うべきなのだろう。
気づかなければ何も疑問を持たないのかもしれない。
「赤信号は渡ってはいけない」
その言葉の意味にどうしても違和感がぬぐい去れないのだ。
フーコー入門 (ちくま新書) / 中山元
サカナクション / エンドレス
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