ビールを飲みながら考えてみた…

日常の中でふっと感じたことを、テーマもなく、つれづれなるままに断片を切り取っていく作業です。

バイオリンとテクノロジーと身体性

2011年12月13日 | 思考法・発想法
先日、FLYING KIDSのギタリスト・丸山史朗がアコースティックのライブを演るということで「高武丸@JAVIN」を観賞。「高武丸」というのはメンバーの3人、高田正則(g)、武藤祐生(vl)、丸山史朗(g)の頭文字をとったバンド。ブラジリアン音楽を中心にツインギターとバイオリンという編成でアコースティックな音楽を聴かせてくれる。

メンバー3人とも実績十分ということもあって、見事な演奏。丸山さんのギターは軽やかに、かつ表情豊かだったし、何よりも武藤さんのバイオリンが呼吸でもしているかのように旋律を奏でていた。

その様を見ていると、僕は改めて「アフォーダンス」や「テクノロジー」と「身体」との関係について考えさせられてしまった。 何故、こうもバイオリンと身体と一体となれるのか、果たしてこのことはどのように考えるべきなのか、と。

僕は以前、ホルンを吹いていたことがあるのだけれど、ホルンつまり管楽器の場合、「吹く(口で音を作る)」と作業と指でキーを「押さえる」という作業の「同調」によってメロディーは奏でられる。より豊かな表現を作り上げるためには、音量や唇の震わせ方といった「吹く」ことと、キータッチ、「押さえる」という両方が組み合わさってはじめて成り立つ。

これはギターなんかでもそうだろう。左指の弦を「押さえる」という作業と右手の「弾く」という作業の「同調」行為によってギターは上手くも下手にもなる。

唇と指という違いはあるにしても、この両者の場合、ともに奏者が楽器に対して直接的に働きかけるという点で共通だ。しかしバイオリンはそうではない。バイオリンの場合、ギターと同様左手は弦を直接押さえる。しかし右手はというと弦に直接触れるのではなく、弦を弾くための「弓」を操作することになる。弦を「押さえる」ことと「弾く」ことの同調作業が必要ではあるものの、バイオリン本体とは弓を通じて間接的に操作するのだ。

直接自身が触れているのであれば、その操作感は理解しやすい。音量を大きくしたければ、息を大きく吹きこんだり、弦を強く弾けばいい。その感覚も自身で直接コントロールできるだろう。しかしバイオリンの場合、弦と弓との接触した「感覚」を弓を通じて感じとり、また弓を通じて「加減」を伝えなければならない。ここにアフォーダンスをみることができる。

アフォーダンスというのは、主体である人間が客体である物(ex.弦や弓)に対して、見たり聞いたりという刺激を受け取り、一方的に認知を行うのではなく、物(客体)との接点において物から与えられる/生じている情報によって認知していく行為、あるいはそうしたフィードバック機構そのものをさす。つまり人は自らが主体的に物事を認知・判断するのではなく、客体だと思っていたモノとの相互作用の中で理解し、判断しているのだ。

こうしたアフォーダンスの作用はバイオリンだけではない。ゴルフやテニスのような道具を使うものもそうだし、直接ボールを扱うサッカーやバレーボールもそうだろう。クラブとボールとが触れた微細な感覚から瞬時に力加減を変更したり、強いボールを柔らかくレシーブするというのは、客体(クラブやボール)と触れることで適応させる能力なのだ。僕らはトレーニングを通じて、道具をあたかも身体の一部のように扱うことが可能となり、そのことで技能を競い、あるいは芸術としてより高い価値を見出そうとする。

そうした「道具」をどのように使いこなすか、つまり「テクノロジーの身体化」の問題として捉え直した時、こうした事象は肯定されるべきものとして存在する。テクノロジーは上手く使いこなされた方がいいし、その様は時に「美」として人を魅了するのだ。

しかし仮にこうした事象を全てのテクノロジーにも適用するならば、押井守が「ghost in the shell」や「イノセンス」での問いかけについても必然的に肯定しなければならなくなる。押井守が問うたもの――身体のサイボーグ化を認めるか否かという問題だ。

僕らの進歩と発展の駆動力が人間の尽きない「欲望」にあるのだとして、押井守が攻殻機動隊で描いたものは、その欲望の果てに、あるいは効率という名の下に、自らの身体をサイボーグ化した姿だった。そこでは僕らは自らの身体を義体と交換する代償として、通常の肉体では得られない高度な能力を手にしているのだった。

物語の詳細はここでは書かないけれど、仮に押井守が問うたように、僕らは記憶と情報を処理するという意味での「思惟」活動(ghost)以外の実体としての身体を、すべてサイボーグ化することに異存はないかと問われれば、多くの人が感情的には反発するのではないか。我々の身体は固有のものであり、たとえ高度な能力が得られるとしても交換可能な機械のような存在ではないのだと。しかしその反発とは裏腹に、僕らはきっとそれらを肯定するのだろう。

自らの欲望を実現するためにテクノロジーは存在し、そのテクノロジーを使いこなうこともまた肯定されるのだ。

そしてその先には、あるいは自らの身体だけではなく、機械を「子供」や「ペット」のように愛するようになるのかもしれない。それらも自らの身体性の延長であるのだとして。たとえそれが「退廃の美学」だと呼ばれようと、僕らはきっとそれらを肯定し、受け入れてしまうのだ。

バイオリンの呼吸するような、つまり生命を感じさせるような感情豊かな演奏を聴きながら、僕はテクノロジーに対する人間の業欲を感じてしまったのだ。。


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