ビールを飲みながら考えてみた…

日常の中でふっと感じたことを、テーマもなく、つれづれなるままに断片を切り取っていく作業です。

マクルーハン / W.テレンス ゴードン:我々の身体感覚はどう変化するのか

2007年11月27日 | 読書
先日、「世界のしくみが見える「メディア論」―有馬哲夫教授の早大講義録」を読んで、改めてマクルーハンのメディア論について読みたいなぁと思って買ってみたものの、これを読んで一体どこまで近づけただろう。POPな絵がちりばめられているからといって、甘く見たら大間違い。網羅的にマクルーハンをたどりつつ、決して手抜きのない一冊。



マクルーハンにとっては、「メディア」というものは普段僕らが使う意味合いよりももう少し大きい概念でとらえられている。それはどちらかというと「テクノロジー」という言葉の方が近いかもしれない。つまり身体感覚を伴った人間本来の活動に対し、生活を便利にするために、その活動を拡張しようとするあらゆる「道具」や「装置」(それは物理的な道具だけでなく言語のような行為を含む)を「メディア」と呼んだのだ。そしてこうした身体の拡張としてのメディア(テクノロジー)の登場はこれまでの在り方(人間やそれを含む環境世界)に対して、単に利便性を与えるだけではなく人間の身体感覚(感覚比率)に変化をもたらすという。

例えば「文字」というものの発明(但しマクルーハンは漢字のような象形文字ではなくアルファベットのような表音文字を想定している)。これはそれまでの「話し言葉」中心の世界からすれば、情報伝達という点で画期的な変化をもたらしたろう。話し言葉というのは、人間の思考活動において根元的なものであるし、今流行りの言い方をすれば、典型的な「同期」型メディアだ。もちろん「言い伝え」のように古えの出来事を時代を越えて伝聞形式で伝えていくという場合もあるが、その場合でさえ語りべと聞き手は同じ時間を共有する。

話し言葉というのは、話し手と聞き手、話をするもの同士が「時」と「場所」を共有するものであり、つまりそれは人間にとって「時間」と「空間」とを一体の連続したものとして認識させていた。何かを「観る」時、そこには同時に「音」も存在していたし、何かを伝えようとする時にはまず「音」があったのだ。

しかしこれが「文字」が登場することでどうなったか。「文字」の登場は、不可分だった「時間」と「空間」とを分けることを可能にした。伝えるべきことは書き記すことで時と場所を越えて共有可能となり、そして誰かの書き残した何かを読むことで、その状況を想像するということを知った。人間を動物とを大きく分かつ「想像力」や「観念」「抽象化する能力」が誕生した。

こうした「文字」というメディアの獲得に際し、マクルーハンは人間の知覚能力において、「聴覚」への依存が低下し「視覚」を重視した感覚比率の変化が生じたとする。これは単に目をよく使うというだけではない。聴覚を中心に認識されていた世界では、「無限」の広がりと「連続的」な連なり、「情感」に満ちた世界が存在していたにも関わらず、文字の登場によってその世界は「文節化」され「線的」に記述され「論理」や「概念」によって構成されるようになったのだ。そしてその流れを一気に拡大したのがグーテンベルグの活版印刷技術ということになる。

これは何も「文字」に限られるものではない。メディア(テクノロジー)というものが身体の拡張である以上、新しいメディアの登場は、それまでのメディアに適合していた身体感覚を切断し、常に新しい身体感覚を呼び寄せることになるのだ。

「世界のしくみが見える『メディア面』」でも書かれていた「HOT/COOL」という概念についてはどうだろう。具体的な「HOT」と「COOL」の区分については先のとおり。ではそれを分かつものというのは何かというと、高精細/低精細という風になるのだけれど、分かりやすくいえば、「高精細度のメディア(HOT)は、与える情報が多く受けてはほぼ何もしなくてもよい」。それに対し「低精細度のメディア(COOL)は、情報が少ないが、欠けているものを補うために受け手を働かせる」とのこと。こう書かれると何故、テレビがCOOLなのか分かりやすいだろう。

もう1つのマクルーハンを彩る言葉「地球村(グローバル・ヴィレッジ)」。電子メディアの発達は地球の再部族化を促すというものだけれど、この言葉についても決して単純に「世界は1つになる」というユートピア論ではない。「人類という部族が本当の意味で1つの家族となり、人間の意識が機械文化の束縛から解放され、宇宙を自由に移動できる」としつつも、これまでのナショナリズム以上に「分裂的で」「紛争に満ちている」とする。大きな差異が消滅することで、より多くの小さな差異が争点となるのだ。

それにしてもこの本を読むと、果たしてマクルーハンは本当にインターネットいうものを知らなかったのだろうか。思わずそう思うほど、マクルーハンの予言的メッセージは現代にこそ適合する。

もし仮に、これまで「話し言葉」から「書き言葉」に主要なコミュニケーション・メディアが変化したように、あるいはテレビのような「映像」メディアが台頭してきたように、コミュニケーション・メディアとしてより「5感」そのものを利用できるようなメディアが登場した場合、人間の身体感覚はどのように変化するのだろうか。

映像メディアの台頭は人間の身体感覚をより直感的・感覚的に移行させたといえる。それはある面では「想像力」や「論理的判断」を奪うかのように、「きれい/汚い」「楽しい/苦痛」「面白い/退屈」という感覚的・刹那的な判断を基準とするようになった。これは「文字」メディア中心の世界観とは明らかに違うだろう。

実際、音声や文字、静止画や動画などの「情報」はデジタル化された瞬間、bit化され、等価なデータとして処理されることになる。しかもこうした視覚・聴覚に関わるものだけでなく、「香り」さえも通信可能(正確には「香り」を送っているわけではないが…)となってきているし、ヴァーチャルリアルの技術は触感さえも情報として扱うことを可能にするだろう。こうして5感全体により「綜合された感覚」を伝達することが可能なメディアが登場するとしたら、我々の「感性」あるいは「身体感覚」というものはどう変化するのだろうか。

「攻殻機動隊」の世界では、それぞれの首元にある入出力IFをネットに接続することで、直接、電脳に情報を送りこむことが可能になっている。個々のメディアの情報ではなく、あるものが体感している「全体(時間と空間が一体化されている世界)」を遠く離れて共有できるのだとしたら…その答えは遠くないうちに体感するのかもしれない。


世界のしくみが見える「メディア論」/有馬哲夫



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