文理両道

専門は電気工学。経営学、経済学、内部監査等にも詳しい。
90以上の資格試験に合格。
執筆依頼、献本等歓迎。

批評回帰宣言

2024-10-05 09:00:48 | 書評:その他
 

 私はあまり思想的なものは読まないのだが、今回は書評を書く一助になるかもと思い読んでみた。読んでみてまず思ったのは、「ソーカルさん出番ですよ」ということだ。(ソーカル事件を知らない人は、ネットで検索してみて欲しい。沢山でてくるはずだ。)

 本書は、近代システムの矛盾を乗り越えるには批評が必要だといっている。それでは近代システムとは何か。次のような記述がある。
「近代システム」とは「虚無」のことである。(p7)「近代システム」とは具体的には、資本主義のことであり、(p23)
つまり「虚無」=「資本主義」という訳だ。この時点でイデオロギー的な臭いがプンプンしてきた。

 また近代とは何か? 一般には日本においては、明治維新から太平洋戦争終結までらしい。それなら今さら昔のことを掘り返す必要はないのではないか。江戸時代の武士について、ここが良かったとか悪かったといってもどうしようもないからだ。ただ近代と言う言葉には現代も含むことがあるらしいのでちょっとややこしい。それに扱っているのが和辻哲郎だとか坂口安吾、江藤淳、中江兆民、福沢諭吉、夏目漱石といういわゆる昔の人を扱っているのも違和感がある。もし現代まで扱うのなら、現役の方の思想を取り上げるべきだろう。

 本書を読んで、批評というものは、自分で枠をつくり、これにあてはめて色々なことを解釈しているということを再認識した。作品が先に来るのではない。自分の枠が先なのだ。例えばシェリー夫人の「フランケンシュタイン」に対する批評である。一例をあげると、なんと若干19歳の彼女の小説に対してマルクス主義批評なるものがあるようだ。(廣野由美子「批評理論入門」2005中公新書)そもそもこの小説が発表されたときマルクスはまだ生まれていないので、作者がマルクス主義者という訳ではない。マルクス主義の窓からみて、本書を批評するとこうなるというものだ。

 このことを端的に示しているのが次の部分である。第二章の江藤淳論の一部だ。
家族と敗戦は、彼の批評スタイルを決定してしまった。(中略)世界をもう一度自分なりの価値観で腑分けし、色彩を取り戻さねばならない。(pp110ー111)
だから批評と言うものは決してニュートラルなものではない。評者の価値観から見てどう見たということだろう。批評をしようとするものは、自分の立場をはっきりさせておくべきだろう。

 著者は巻末の著者紹介から判断すると日本思想史が専門のようである。それがどうしてガリレオとかケプラーを引き合いに出すのか。
また流動する世界に魅せられ、探求しつづけたガリレオ・ガリレイやヨハネス・ケプラーの場合その変化の奥にある不変なもの、すなわち永遠に触れようとした。(p102)

確かに物理学はなるべく少ない原理で世界を証明したいというところがある。しかしガリレオやケプラーが流動する世界に魅せられていたというのは信じられない。いろいろ調べてみたが、残念なことにそれらしきものを見つけることができなかった。まあ彼らがどう考えていたかを知るのは、今では悪魔の証明になってしまうのでまず無理である。
ただ、信じられない理由として、彼らよりずいぶん後の人であるアインシュタインさえも、自身の一般相対性理論で「膨張する宇宙」という解が見つかったときに、宇宙は変化せず定常的なものとして宇宙項を付け加えたのは有名な話だ。(もっとも後で「人生最大の誤り」として撤回したが。)西洋はキリスト教などの影響が強い。だから流動する世界に魅せられというのはまずないだろう。

 ところで、本書には批評だけでなく、著者の歩いてきた道も伺い知ることができる。私は伝記を読むのが好きなので、なかなか興味深かった。
☆☆
コメント
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