Opera! Opera! Opera!

音楽知識ゼロ、しかし、メトロポリタン・オペラを心から愛する人間の、
独断と偏見によるNYオペラ感想日記。

VIENNA PHILHARMONIC ORCHESTRA (Sun, Oct 3, 2010)

2010-10-03 | 演奏会・リサイタル
昨日は一人寂しくディナーして、デートの相手さえ見つけられないうえに、
観客仲間に手当たり次第ナンパをしかける変な女、という、屈辱的な勘違いをされた
私ですが、
今日はそういうことにならないよう、連れとカーネギー・ホールにやって来ました。

彼の好きなベルリン・フィルは隔年でしかNYに来てくれないので、
代わりに、全然違うタイプのオケですが、ウィーン・フィルの演奏会に強制連行です。
私たちはお互いに仕事のスケジュールが全然違うので、
日時的に一緒に行ける演奏会という条件だけですでに、相当数が絞られてしまうのですが、
その中で、私が今シーズン目をつけたのは、ウィーン・フィルが何日か行う演奏会のうち、
ドゥダメル指揮、ヨーヨー・マが客演の日のものです。

よくよく考えれば、ここ数年、ウィーン・フィルについては毎年連れと最低一公演は一緒に鑑賞しているような気がするのですが、
このオケほど、演奏の内容だけでなく、佇まい・空気・態度までがあからさまに変わるオケも少ないのではないかと思います。
固定した音楽監督がいて、その指揮者と毎回NYにやってくるオケと違って、
毎回指揮者が違っている、ということも大きな要素なのでしょうが、
それはもう、生理中の女かと思うくらい感じ悪く傲慢な時があるかと思えば、
突然借りてきた猫のようにおとなしくなってみたり、
全くやる気がなくなってみたり、一応頑張ってる振りをしてみたり、と、
このブログが始まってからだけでも、ウィーン・フィルが繰り広げる百面相の一部を我々も見せて頂きました。
しかし、ふと気づくのは、演奏の内容は常に一定のレベル以上に保たれていて、
そして、それはそれですごいことなのですけれども、
一方で、記憶に鮮烈に残るような彼らの生の演奏に、私はこれまで出会ったことがないということ。
そこで連れにその話をしてみると、彼もやっぱりそうで、
だから自分はベルリンの方が好きなのだよ、わはは!と言います。

さて、最近の、若くて割と見栄えの良い指揮者なら誰でもが必要以上にちやほやされるトレンドに、
私自身は必ずしも賛成していない部分もあるのですが、
彼らのパフォーマンスについてネガティブなことを書いたり、批判するからには、
彼らの音楽をちゃんと聴かなくてはなりません。
また、中には、面白い個性とそれを音に出来る実力が同居した若手指揮者ももちろんいるはずです。
ドゥダメルは間違いなく現在注目されている若手指揮者の一人であると思うのですが、
以前、別の記事のコメント欄で紹介頂いた、ユース・オーケストラを指揮する彼の様子を収めたYouTubeの映像からは、
躍動感と音楽を演奏することの楽しさというものが溢れていて、
1981年生まれ(この若さ!メーリの時に続けてくらくらして来ました。)という若さながら、
彼らしさ・個性がきちんとあるのには、好感を持ちました。

けれども、今回の演奏は、素直な若人たちが集まった自国のユース・オケが相手ではなく、
指揮者によって態度がコロコロ変わる海千山千オケのウィーン・フィルです。
ウィーン・フィルは、指揮者の選抜に関してもオケのメンバーのコンセンサスが必要、と聞いたことがあるのですが、
それでも、私はもしかしたら、ドゥダメルが、この海千山千オケに、あからさまな態度で軽くあしらわれるか、
控え目にいっても、冷ややかな態度で、必要最低限のところだけ押さえるような気のない演奏を
オケが繰り出す現場を目撃させられるのではないかと、ちょっぴり心配していた部分もあります。
さすが、人に、家に遊びに来ますか?と聞いておいて、”では伺います。”と言うと、
”あの人、ほんまに家来はるで!”と陰口を叩く京都人と共通したところがあるというウィーンの人々だな、
指揮に呼んでおいて、意地悪するとは、、と、演奏会前に、どんどん妄想は広がります。
京都的しきたりにのっとると、ドゥダメルは3回くらい辞退して、
それでもウィーン・フィルが、”どうしても!!”というなら、
真剣に誘われているんだな、と解して、コントラクトにサインしてもよいですが、
その前にサインしてしまうと、”さすが南米の田舎もん。”と陰口を叩かれてしまいますよ、と忠告さしあげなきゃ、とか、、。
(注:ここで京都出身の方は、どうぞ、かりかりされませんよう。かく言う私も京都出身ですから。)



そんな妄想いっぱいで聴きはじめた今日の演奏会ですが、
まず驚くのは、ドゥダメルの丁寧な指揮。
どんなに細かい部分にも、きちんと入りの指示があり、しかも、一つ一つの指揮の動き、
それによって何を指示しようとしているかが本当にわかりやすい。
というか、これなら、何の楽器もまともに弾けないこの私が、たった今ウィーン・フィルに飛び入り参加しても、
きちんと演奏が出来てしまいそうな、、って、さすがに、そんな大それた妄想は許してもらえそうにありませんが
まあ、それ位、指揮がクリアだということが言いたいのです。

ここ数年、生で接した若手と言えば、ジュロウスキ、ネゼ・セギャン、ネルソンス(全員70年代生まれ)などの名を思い浮かべますが、
その中でも、断然指示がわかりやすくて、いい意味で指示が細かいという印象を持ちました。

そして、さらにびっくりは、ウィーン・フィルが、いささかの踏ん反り返った態度も、
ひねくれた姿勢もなく、一丁、こいつの言う通りにきちんと演奏してみるか、という、
少なくとも私がこれまで聴いた中では、最も素直な姿勢で演奏をしている点です。
どうした、ウィーン・フィル!JFケネディ国際空港のエスカレーターで転んで頭でも打ったのか??

しかし、こう、じっと見ていると、これはドゥダメルの人柄もあるのかもしれませんが、
あの一生懸命な指揮振りと音楽に対するまじめで真摯な姿勢には、つい、オケのメンバーをして、
この人のためなら、真剣に演奏してみようか、と思わせるような何かが彼にはあります。
指揮には、当然、技術、知識、センスといったものも求められますが、
何よりも、それらを実際に音にしてくれるオケの奏者の気持ちをつかむことができなかったら、
それらは何の意味も持たないでしょう。
もちろん、技術も知識もセンスもない指揮者について行きたいと思う奏者はいないわけで、
それらは相互に絡み合っているわけですが。
嬉しい発見は、ドゥダメルがオケの奏者の心を摑む手腕については、まず心配がなさそうという点で、
もうこの時点で、私は、”おぬし、なかなかやるな、、。”という気にさせられました。
とりあえず、意味無くちやほやされている指揮者ではなさそうだ、という予感が、まずこの一曲目でありました。

プログラムの最初の曲である、ブラームスの『悲劇的序曲』では、まだ少しオケが、
音が乗り出す前の段階のような感じもありましたし(例えばホルンのセクションは若干精彩を欠いていたと思います。)、
あと、これはドゥダメルの若さゆえのせいもあるのかもしれませんが、
彼の場合は、彼の個性が生きる曲と生きない曲で、演奏から受ける印象にかなりの違いがあって、
この曲の、隙のないくそまじめさ(私にはそう思える)は、
彼の個性にはあまり合っていない感じがあって、少し演奏がコンサバで堅苦しかったかな、と思います。

もちろん決してこんなもの聞かせやがって!!というような内容のものではなく、
料理で言うと、特別想像性に富んだ一品でもないけれども、
シェフの才能を予感させるに十分な皿ではあるので、
続く料理に期待!という、そういう感じとでも言えばいいでしょうか?

で、その次に続く第二の皿は、オーディエンスの期待度でいえば、
メイン・ディッシュのドヴォルザークの交響曲第9番(『新世界より』)と、限りなく同等、
もしくは人によってはそれ以上かも?とも思える、
ヨーヨー・マを迎えての、シューマンのチェロ協奏曲イ短調作品129です。

私、実は、ドゥダメルだけではなく、ヨーヨー・マを生で聴くのも今回が初めてで、
ヨーヨー・マは、ものすごく評価の高いチェリストですから、チケットを購入した後、
連れに、”ヨーヨー・マ!ヨーヨー・マ!”と日々連呼し続けたくらいです。
私たち、すごいチェリストを聴きに行くのよ!というアピールです。
その時に、心なしか、連れの反応が鈍いな、とは思ったのですが、
ま、仕事で疲れているか、私のしつこい山びこのようなヨーヨー・マ!にうんざりしているのだろう、
と勝手に思っていました。

マが舞台に登場すると、さすがに、一気にカーネギー・ホールの温度が数度あがった感じでした。
ところが、出てきた音を聴いて、目が点になりました。
”音、ちっさ、、、、。”

オペラも同じで、別に音や声の小ぶりな奏者、歌手が悪い・駄目とは、私も全然思ってないですが、
やはり、その曲のエモーショナルな波をオーディエンスにダイレクトに伝えるには、
最低限、備わっていて欲しい音量というものはあると思うのです。
いや、音量というと、単純なデシベルの話みたいになってしまうので、語弊を生みますね。
体感音量とでも言うべきでしょうか。
歌手でもよくあるのですが、声が小ぶりでも、備わっている響きによっては、
大きな会場でも、十分、後ろの方まで観客に音の波が伝わってくる歌手というのがいます。
それと同じことを、やはり、ソロで楽器を演奏する奏者には、こちらは期待するものではないでしょうか?
彼のチェロの音色は、少し響きが乾いているというのか、カーネギー・ホールのような、
割と残響がしっかりしているホールでも、あまり音が残らなくて、
確かに私はこの日、かなりステージから離れた座席に座っていたことは事実なんですが、
カーネギー・ホールはメトと違って、特に巨大なホールというわけでもありませんし、こりゃ一体?という感じでした。
(座席数は2800ほど。ちなみにメトは立ち見を除いて3800席、立ち見込みで約4000人収容可。)

それから、もう一つ驚いたことは、彼の持つ音色は、彼の名声から期待していたほどには、
特別・強烈な個性があるわけではない点です。
むしろ、この個性のなさが、個性なのか?と、演奏を聴きながら考えてしまいました。
今回演奏されたチェロ協奏曲には、途中で、オケのチェロの首席奏者と絡みながら演奏する箇所がありますが、
音色で言ったら、ウィーン・フィルの首席の方がよほど個性があります。
(NYタイムズによると、この日演奏したチェロの首席はフランツ・バルトロミーという方だそうです。)
以前、私はメト・オケのチェロの首席奏者のラファエル・フィグェロアさんの音が大好きだ、
というのを記事にも書いたことがあると思いますが、
このバルトロミーさんやフィグェロアさんの音なら、もしかしたら目隠しでも言い当てられるかもしれない、と思いますが、
ヨーヨー・マのサウンドについては、全く自信がないです。
もし、私が彼が世界に名の知れたチェリストということを知らずに、彼の音色(演奏ではなく音色だけ)で、
特別なチェリストだということがわかるか?と聞かれたら、恥をしのんで、答えはノーです。

私が感じるところでは、ヨーヨー・マの個性は、あの精緻極まりないテクニックにあるのかな、と思うのですが、
私自身のオペラ歌手への趣味からも、おそらく全開な通り、
私はもちろんテクニックのある奏者、歌手は素晴らしいと思うのですが、
それが多少犠牲になっても(あまりにもの犠牲は問題外ですが)
演奏から強烈なドラマやエモーションを感じる歌手や奏者をより好む傾向にあるので、
まあ、簡単に言えば、ヨーヨー・マの今日の演奏スタイルとは、あまり相性が良くないのだと思います。
全編通して、サロンでさらっと演奏しているような雰囲気の演奏で、
オケの奏者との掛け合いの場面も、対等に一対一でぶつかり合うというよりは、
ウィーン・フィルの奏者を、余裕で見守るヨーヨー、という雰囲気で、
どこか一歩退いた感じがします。
それは彼の芸術的選択なのでしょうが、
演奏会の数日前から、ジャクリーヌ・デュ・プレの演奏によるこの作品を聴いて、
勝手にヨーヨー・マも、このような演奏を聴かせてくれるに違いないと思い込んでいた私は、
すっかり肩透かしを食らってしまいました。




アンコールはバッハの無伴奏チェロ組曲第1番ト長調 BWV1007で、こちらの方が、
彼の個性と曲がマッチしているという風に私は思いました。

インターミッションに入って私が浮かない表情になっているのを見て、
連れが”どうした?”というので、昨日まで名前を連呼していた元気はどこへやら、
”ヨーヨー・マがなんか期待外れでした、、期待が大きかっただけに、、。”と告白すると、
”いやー、君の好きなタイプの演奏をする奏者ではないんじゃないかな、と思っていたんだけど、
言えなかったんだよね。”
だから私の”ヨーヨー・マ”一人エコーにも反応が鈍かったのか。
しかも、彼は1980年代に彼の演奏を聴いたことがあるらしいのですが、
”こわいくらい当時と演奏が変わっていない、、。”と言ってました。
それって、良いのか、悪いのか、、、なかなかに面白い意見です。

セカンド・ディッシュでマのセンスと噛み合わなかったので(ドゥダメルはひたすら
マが演奏しやすいようにオケを導いた、完全伴奏系でした。)、
こうなったら、ドゥダメル・シェフの『新世界より』に一点賭け!!!

私が通った小学校では、下校時にかかる音楽が、『新世界より』の、
あの、”遠き山に~”の部分で、当時、我が家にあったクラシック名曲全集のLPのうち、
親しく知っている、そこそこ長さのあるメロディーが含まれている曲は、ゆえに『新世界より』だけで、
よって、その全集で何度か取り出して聴いたことがあるのは、その一枚だけだったように思うのですが、
(ただ、その全集には、編集者がワグネリアンだったのか、
なぜだかワーグナーの作品の抜粋が全体の作品数に対して異常にたくさん含まれていて、解説書を眺めながら、
子供心ながらに、ワーグナーって、すごいおじさんなんだな、、と思った覚えがあります。)
多分、それで勝手に十分聴いた気になって、その後、大人になってからは、
ほとんどまともにこの作品を通して聴いたことがなかったことに今回気づきました。

そして、興奮のままに書いてしまいますと、こんなに生のウィーン・フィルの演奏でわくわくしたのは、
私、本当に初めてです!
今回じっくり聴いて、この作品って、こんなにソロの聴かせどころが多かったっけ、と思ったのですが、
子供の頃の記憶は当てにならないのと同時に、今回はどの奏者の演奏も素晴らしかったから、特にそう思うのかもしれません。
一瞬たりともテンションが下がらずに、次々バトンタッチしていくソロや、各楽器の掛け合いに、もう本当わくわくしました。
やっぱりウィーン・フィルはすごい腕を持った奏者の集団なんだな、というのを今回ほどしみじみ感じたことはありません。
また、その凄い腕、というのが、ソロや各楽器のアンサンブルが、”俺が俺が”的なでしゃばり演奏になってしまうのではなく、
全体のまとまりの中できちんと分をわきまえ、音楽の大きな流れを壊さずに、
作品全体の中でどういう役割を与えられているのかを、理解しながら演奏するという、とても美しい結果になって現出しているのです。

ドゥダメルはスコアなしの暗譜で指揮をしていて、
必ずしも暗譜で指揮する指揮者の方が優れているとは限ってはいませんが、
彼の場合は、またしても、この私にもわかる!な、非常に明晰な指揮をこの作品で繰り広げていて、
かつ、ウィーン・フィルが出来る限り、それに則って演奏しようとしているものですから、
ああ、こういう演奏で出て来た結果こそ、”ドゥダメルとウィーン・フィルの”と形容できるものだな、と思います。

私が例えば昨シーズンの『トゥーランドット』でのネルソンスの指揮につい?マークをつけたくなるのは、
彼の場合、ドゥダメルのように指示がクリアじゃなく、オケにお任せ状態になるような箇所が見られるからなのです。
メト・オケや、その他の、一定以上の力のあるオケなら、それなりに自分たちで形になるように取り繕ってしまいますが、
それは、”メト・オケの”演奏であって、”ネルソンスとメト・オケの”演奏とは言わないんじゃないかな、と思うのです。

小学校の下校時間を激しく思い出すあの旋律が含まれた第二楽章は、
おセンチに思い入れたっぷりにならずに、むしろ淡々と、しかしやや幻想的に演奏して行くことで、
かえって曲全体の美しさが際立っていたのは、指揮、オケ両方のセンスの良さを感じましたし、
第4楽章も、ラテンな青年ドゥダメルなので、なりふり構わず爆発するかと思いきや、
決してそうではなく、常に作品全体への視点を忘れない、冷静なところがあるんだなと、良い意味で感心しました。
まだ物凄く深みのある演奏を聴かせる、というレベルには達していないかもしれませんが、
(この年齢で達していたら、それもちょっと不気味です!)
大きなポテンシャルを持つ、いい指揮者だな、と思います。
わかりやすい指揮をする、ということに引け目を感じない、その素直な姿勢は好感がもてますし、
また、その素直なアプローチに、きちんと敬意を持ってこたえて、
優れた演奏を出したウィーン・フィルの意外(?)な一面も称えたいです。

ウィーン・フィルとドゥダメル、
一見ミスマッチに思える食材の組み合わせから、思いがけなく美味なものが生まれる時のことをふと考えた公演でした。
このコンビなら、またぜひ聴きに行きたいと思います。


Vienna Philharmonic Orchestra
Gustavo Dudamel, Conductor
Yo-Yo Ma, Cello

JOHANNES BRAHMS Tragic Overture, Op. 81
ROBERT SCHUMANN Cello Concerto in A Minor, Op. 129
encore by Yo-Yo Ma
JOHANN SEBASTIAN BACH Cello Suite No. 1 in G Major, BWV 1007
ANTONÍN DVOŘÁK Symphony No.9 in E minor, Op. 95, "From the New World"

Carnegie Hall Stern Auditorium
Balcony9 Odd

*** ウィーン・フィル Vienna Philharmonic Orchestra ***