Opera! Opera! Opera!

音楽知識ゼロ、しかし、メトロポリタン・オペラを心から愛する人間の、
独断と偏見によるNYオペラ感想日記。

CABARET AT CAFE SABARSKY (Fri, Oct 1, 2010)

2010-10-01 | 演奏会・リサイタル
昨日、会社で仕事に燃えているところに、連れから電話があり、
”今、職場の掲示板で、ある情報を見たんだけど、絶対に君、興味があるだろうと思って。”と言います。
あらま、何かしら? でも今まじで超忙しいですから、
100万ドル差し上げますとか、そういう話じゃないと興味ないですから。かたかたかたかた、、(引き続きコンピューターのキーを叩く音。)
すると連れが続けて、”パトリシア・ラセットが今夜と明日の夜、
ノイエ・ギャラリーにあるカフェ・サバルスキーでキャバレー・ソングを歌うみたいだよ。”
えええっっっ!!?? ほんと、ほんと、ほんと?!?!?
”僕は残念ながら、仕事で両日とも行けないんだけど、、、。”と続ける彼をそっちのけで仕事を放り出し、
ペンを握りながら叫んでしまいました。”で、チケットを購入するにはどこに電話すればいいの?”

強力なマネジメントやレコード会社がついている歌手と違い、
ラセットはオペラハウスの公演以外の活動については、
地道に自分で色んなところからデータを集めないと、なかなか情報が入ってこないうえに、
私がそういう検索活動があまり得意でないせいもあり、今回のこのキャバレー・ソングの企画は全然知りませんでした。
連れの機転に大感謝です。

しかし、電話をする前に、ノイエ・ギャラリーのサイトで同企画の紹介のページを見て、
一つ、問題があることに気づきました。
それは、7時から2時間にわたる食事があって、その後、9時からキャバレー・アワーが始まることで、
チケットはこのお食事とキャバレー・アワー(歌の部分)がセットになっており、ばら売りはしていない点です。
今日はこの調子で行くと、とても食事の開始に間に合う時間に職場のコネチカットからマンハッタンに戻るのは無理だし、
大体、着ているものがカジュアルすぎて、こんな格好でノイエ・ギャラリーに行くのははばかられます。
だけれども、明日は6時半から一時間、メトで『ボリス・ゴドゥノフ』のレクチャーがあるではありませんか、、。
Madokakip、人生最大のピンチ!
しかし、こういう時は無駄に考えることに時間を費やせず、交渉をするに限ります。
というわけで、早速ノイエ・ギャラリーに電話。

”キャバレー・アット・カフェ・サバルスキー”は、ラセットだけでなく、
色々な内外のボーカリスト、インストメンタリストを招き、
1890~1930年代のドイツおよびオーストリアの音楽を紹介する企画なのですが、
その担当でいらっしゃるリアさんはとても親切で、
仕事で(さすがにメトのレクチャーとバッティングして、とはいえなかった、、、。)
一時間ほど遅刻しそうなので、料金はもちろん食事分も支払いますが、明日のリサイタルだけ参加することはできないでしょうか?というと、
食事も配膳するペースを工夫すれば何とかお召し上がりになれると思いますよ、と言って融通をつけてくださいました。
”ただ、相席にはなるかもしれませんが、、。”とおっしゃるので、そんなことはノー問題!
椅子に座れなくても、そこに居れるだけで、私は満足です!という気分でした。

当日、『ボリス』のレクチャーが終わると、速攻でキャブをつかまえ、セントラル・パークを渡ってイースト・サイドに移動。
ほどなく、5番街の86丁目にある、ノイエ・ギャラリーに到着しました。



順序が後回しになってしまいましたが、ノイエ・ギャラリーについて簡単に説明しておきますと、
周りにあるメトロポリタン美術館やグッゲンハイム美術館の影に入ってしまって、やや知名度が低い感じもしますが、
20世紀のオーストリアおよびドイツ美術のコレクションに特化した小さめの規模の美術館で、
特にクリムトやシーレ、バウハウスの作品に魅力的なものがあり、
1914年築の、かつてヴァンダービルト家によって所有された邸宅の中にコレクションが展示されています。
コレクションは、アート・ディーラーのサバルスキー(カフェの名前は彼からとられた)の力を得て、
ロナルド・ローダー(化粧品メーカー、エスティ・ローダー創始者の息子にあたる)が収集した、
個人のコレクションがべースになっています。

カフェ・サバルスキーはこのギャラリーの中にあって、シェフはクルト・グーテンブルナー。
キャバレーの企画には60人収容可とありますが、
今回、実際に食事をしていたオーディエンスの人数はもう少し少なかったのではないかと思われ、
それでも、かなりスペース一杯にテーブルがしつらえられていました。

ここのカフェのスタッフは非常に良く教育が行き届いていて、
私が遅刻して現れた際も、非常に感じの良いエスコートで、しかもびっくりしたのは、
当然相席だろうと思っていたのに、私専用の一人テーブルが、
ラセットが立って歌うであろう位置の、真正面にしつらえられていた点です。
電話でリアさんに私がラセットの猛烈なファンであることを滔々と訴えたために気を利かせて下さったのか?

猛烈な腹空きモードで駆け込んだうえ、私はすでにメイン・ディッシュに手をつけている人もいる
他のオーディエンスたちに一気に追いつかねばならないので、
前菜、メイン、デザート、それぞれ二種の中から一種を選べるようになっている半プリ・フィックス・メニューから、
食べたいものを選び、それに赤ワインを注文すると、
”待ってました!”と言わんばかりに、すごい勢いで食べ物が出てきました。
食事は期待していたよりもおいしくて、非常に満足だったのですが、
ふとワインを飲みながら周りを見回してみると、
皆さん、ご夫婦、家族、カップル同士(男女、男男の組み合わせ両方。
)でいらっしゃっていて、
一人で来て食事している人など、他に誰もいない、、、、?
と思ったら、少し離れた斜めのテーブルに、猛烈にめかしこんだ老人男性が一人で座っていました。
テーブルにはもう一つ、食器がセットされているのでですが、すでにその男性は一人で食事を始めていて、
”あらら。一時間立ってもお連れ合いが現れないなんて、ブッチされたのかしら?
でも大丈夫。私も一人ですから。”と、
目が合った瞬間に軽くスマイルしてみたら、”わしはお前のような一人もんとはわけが違うのだ!”と、思いっきりシカトされました。
んまっ!何なの、このおやじ!!
まさか、私があんたみたいな爺をナンパしようとしてるなんて、勘違いしたんじゃないでしょうね!
あたしにも好みってものがあるざんす!!と、頭から蒸気を出しながら、デザートの菓子にフォークを突き刺した丁度その時、
肩から大きなバックをかけて、いかにも仕事からかけつけた、という様子の、
長身で、なかなか素敵なやや年配の女性がカフェの入り口に現れました。
すると、あの勘違い甚だしいじじいが、鼻の下をのばしながらテーブルから立ち上がり、
女性の両手を握りしめ、”ごめんなさいね。本当に遅くなってしまって、、。”と平謝り状態の女性を、
”何を、何を。全然待ってないさ。”と、彼女をエスコートしようとするウェイターを押しのけて椅子に座らせるのでした。
この雰囲気はどう見ても夫婦じゃないから、老いらくの恋だな、、と思いつつ、
まあ、しかし、こんな素敵な彼女がいたら、
わしを独り者扱いするな!ときれる爺の気持ちもわからないではないか、と納得しました。
しかし、これで、今や、オフィシャルに私が現在カフェで唯一の一人客、、、。
オペラハウスでは一人客など、掃いて捨てるほどいますが、
さすがに食事がついてくるとなると、一人で来る人はいないんだな、、、と今更実感。
ラセットが出演するというので、自動的にオペラと同じモードになってしまっていた私、ぬかりました。



ゆっくり(私は1時間しかなかったので普通のスピードでしたが)時間をかけて食事し、
食事相手(そして、それは私にはいませんでしたが、、)と楽しく語らっていると、2時間は丁度良い時間で、
やがて、カフェのスタッフから紹介があって、ラセットとピアノを担当するクレッグ・テリーがカフェに現れました。
ラセットの紹介によると、テリーはLOC(リリック・オペラ・オブ・シカゴ)のピアニストもつとめているそうです。

昨シーズンのメトの『三部作』でソプラノ三役を歌うタイミングと合わせて
ニューヨーク・タイムズに掲載されたラセットへのインタビューによると、
彼女はニュー・ハンプシャーのブルー・カラーの家庭の出身。
ずっとジャズ歌手になることが希望で、北テキサス大に入学したのもジャズを勉強するためだったそうで、
大学の先生たちが彼女をオペラ歌手になるようにすすめ始めた時は、かなりへこんだそうです。
そんな彼女がオペラに目覚め、その道を進む決心をするきっかけになったのは、
レナータ・スコットが歌った『修道女アンジェリカ』を聴いた時で、
その後、彼女がほとんど毎年メトでキャスティングされるソプラノとなったのは、皆様もご存知の通りです。
(新シーズンは『イル・トロヴァトーレ』のレオノーラ役で登場します。今回のキャバレー・リサイタルは、
その『イル・トロヴァトーレ』のリハーサルの開始時期にひっかけたもののようです。)
しかし、彼女は同じインタビューで”この先、キャバレー・ソングを歌うキャリアが開け、
自分の心に訴える曲のみを集めてテーラーしたプログラムを歌えればいいな、と思っています。
オペラ歌手という職業は、もちろん愛していますが、
どこかに、オペラの世界には完全にはまれない自分もいて、
キャバレー・ソングはルーツともいうべき場所に私を引き戻してくれます。”と語っています。

ということで、この彼女の言葉を元にすれば、彼女のルーツであり、
本来彼女が歌いたいジャンルに最も近いレパートリーの曲を披露してくれるのが今日のイベントと言えます。
先に”キャバレー・アット・カフェ・サバルスキー”は、
ドイツ/オーストリアのキャバレー・ピースを紹介する場、と書きましたが、
今回のラセットが歌うプログラムに関しては、
”ドイツ/オーストリアのキャバレー・ソングのカウンターパートとも言うべきアメリカやフランスの歌を紹介します。”と説明されており、
つまり、ジャズ・シンガーによってもしばしば取り上げられる
アメリカ人の作曲家によるスタンダード・ピースや、
シャンソン・ピースを歌ってくれるということであり、
彼女が歌いたいと公言しているジャンルそのもの、と言い切ってもいいかもしれません。



キャパは60人弱と書きましたが、かなり一杯一杯にテーブルが設定されているため、
カフェの面積は決して大きくありません。(上の写真を参照。)
ラセットがもう目の前にいて、一人一人の聴衆とアイ・コンタクトを取りながら歌えるような場所ですし、
マイクも使用していますから、メトのオペラハウスのような場所で歌うのとは全く条件が違います。

彼女の声はメトでも決して小さいと感じたことがなく、それも、蝶々夫人のようなドラマティックな役でそうなのですから、
こんな小さな会場で、マイクを使って歌ったら、こちらの鼓膜が破れるのではないか、と心配です。
実際、歌い始めて感じたのは、やっぱり彼女の声量はすごい、ということ。
もともとの声量もそうなんでしょうが、それよりも、彼女はおそらくオペラを歌うことを通して、
無駄に息を使わず、全てを音に転化する技法が身に染み付いてしまっているので、
ジャズ・シンガーがしばしば曲によって披露する、力を抜いたけだるい歌唱というものとは、かなり異質な歌唱です。
それから、オペラを歌っている時とは、歌い方が異なっているために、
オペラで聴いて慣れている彼女の声の音色とは、少し違うトナリティが入るのは興味深いです。
オペラでの彼女よりも、キャバレー・ソングでのほうが、よりコケティッシュな味わいはあると思います。
ただ、この声量と声の音色の違いを加味すると、やはり、私は彼女の声のクオリティとしては、
オペラの世界に彼女をプッシュした大学の先生の判断が正しかったと思います。
せっかくのこの声量、それからオペラ的発声をした時にだけ出てくる彼女の魅力的なピュアなサウンドというのは、
ジャズのレパートリーの範疇では、ほとんど無用の長物、宝の持ち腐れとなっています。

彼女がいかにオペラで優れた歌唱を披露するかということを私が知らなかったとして、
こういったノン・オペラティックなジャンルの曲を歌う彼女を聴いて、
すぐに彼女を特別なジャズ、もしくはスタンダード、もしくはキャバレー歌手として認識するだろうか、
と自問しながら聴いていたのですが、Yesと即答しにくい部分もあります。
ジャズ・シンガー、キャバレー・シンガー、呼び名は何でもいいですが、
マイクを通して歌を聴かせる歌手として、声の面だけの話をすれば、
彼女は特に傑出した音色を持っているわけではないと思います。
NYのヘッズの中には、オペラにおける彼女ですら、
決して声に特別恵まれているわけではない、という意見を言う人があって、
それと繋がる部分もあるのかもしれません。

しかし、オペラでの彼女と同様に、歌に語るべきストーリーや観客に伝えたい強烈なエモーションがあると、
突然、見違えるようなパワーと繊細な声のカラーによる表現力を発揮するのが彼女です。
それは例えば、ボイドの詞とグランドの曲による、”Guess Who I Saw Today"のようなナンバーに顕著です。
この曲はナンシー・ウィルソンらも取り上げている、ジャズのスタンダード・ナンバーと言ってもよい作品ですが、
もともとは、『ニュー・フェイセズ・オブ・1952』というブロードウェイのミュージカル・レビューに含まれていた曲です。

夫が他の女性に心を移しているのをなんとなく感じ取っている女性が
気晴らしに街に買い物に出かけた帰りに立ち寄ったお洒落なカフェで、見るからにラブラブな男女を見かける。
自分と夫の関係と比べて、如何に相違のあることか、、と思ってよく見てみれば、
その男性は他の誰でもない、自分の夫だった。
相手の女性しか目に入らず、ショックで彼のすぐ横を通ってカフェを飛び出した女性が
自分の妻であることにすら気づかない夫、、。
いつも通り帰宅が遅かった夫に、このいきさつを語りで再現しながら、
最後に”今日誰に会ったと思う?(Guess who I saw today?)"と問いかけるそのプロセス自体が歌詞になっています。

淡々と語るように歌い始めたラセットは、なんと、彼女からスペースをはさんで真正面に座っているこの私を、
”夫”と設定したようで、
”Guess who I saw today?”という歌詞の後、次のフレーズに入るまでに息づまるような間を取りながら、
主人公の女性が男性が自分の夫であると気づく瞬間を再現するために、
首をほんの少し横にかしげながら、まさに虚と形容したくなるような視線を
私にじっと向けた時は、この歌の主人公の女性の胸の痛みを、
そのまま感じて、私は金縛りに合うような思いでした。
そして、その後、そっと突き放すように歌った”I saw you."(あなたよ。)というフレーズのニュアンスの素晴らしさ!
彼女が一人で帰宅して、夫が帰って来るまで悶々としながら、
自分の知らない女性と夫がいかに愛し合っているかということの認識と、
自分と夫はすでにとっくに終わっていたのだ、という諦観に彼女が至り、
そこには最早怒りすら存在していないという、
歌詞の中ではっきりと内容が語られているわけではない部分の経過すら見えてくる歌唱で、
こういうところが、彼女のすごいところだなあ、と思うのです。

今夜のプログラムは書面はおろか、口頭でもはっきりした曲名の紹介がないものがほとんどで、
(だから、歌われた曲名の全部はわかりません。)
各曲の前に、曲の内容と関連したおしゃべりが少しあって、すぐに曲になだれこんで行くという、
まさにジャズ・クラブ的な運びになっているのですが、
ラセットは非常に話術が巧みなので、このあたりはお手のものです。

彼女のウィットに富んだ個性がとても良く出たのは、『マッド・ショウ』というオフ・ブロードウェイのレビューからの、
ロジャースとソンドハイムのペアによる曲、
”The Boy From Tacarembo La Tumbe Del Fuego Santa Malipas Zatatecas La Junta del Sol y Cruz”。
この曲は、Tacarembo La Tumbe Del Fuego Santa Malipas Zatatecas La Junta del Sol y Cruzという、
ものすごく長い名前の(架空の)村からやってきたラテン・ボーイに入れあげているギャルの歌で、
たどたどしいスペイン語で、長々と村の名前を読み上げる箇所が何度も出てきて笑いを誘います。
しかも、歌詞から、ラテン・ボーイがゲイであることをほのめかす様子がたくさん描写されているのに、
このギャルが全く気づいていなくて、彼に相変わらずぞっこん!という、そのずれぶりがまたおかしいのです。
また、ラセット自身がホモセクシャルである(彼女自身がオペラ・ニュースなどで公言しているのは、
以前どこかの記事で書いた通りです。)ことを知っていると、さらににやっとさせられる粋な選曲です。
彼女はメトでは本当に色々な役を歌って来ましたが、その中に『道化師』のネッダ役もあって、
公演を観たときには、劇中劇における笑いのタイミングの良さにも感心させられましたが、
(劇中劇のみでなく、カニオとの対決シーンのすさまじかったことは言わずもがな。)
今日のこの歌で、あらゆる声色・演技を駆使して、客を爆笑させる彼女を観ていると、
コメディックな役柄もお手の物だということがよくわかります。

他に取り上げられたナンバーで面白かったのは、彼女の当たり役の一つが蝶々さんであることにひっかけて歌われた、
”かわいそうなバタフライ”というハッベル作曲による作品で、まさに『蝶々夫人』のダイジェストのような曲なんですが、
(ただし、プッチーニの旋律を感じさせるものは全くありません。)
こんな曲が存在しているとは知りませんでした。
ただ、当然とも言えますが、作品としては、全幕の蝶々さんでの彼女の素晴らしさに対等するようなものを
彼女から引き出すものではありません。

意外なことに、私が最も今夜感銘を受けたのは、スタンダードもスタンダードの、
エディット・ピアフの代表曲として誰もが知っている”ラ・ヴィ・アン・ローズ”です。
私は実はこの曲が大の苦手でして、あのこてこてのさび、
それを高らかに歌い上げる歌手(それがピアフであっても、、)の歌声を聴いていると、
ぞわぞわぞわ、、と一気に鳥肌が立ってくるのですが、
今日のラセットの解釈によるこの曲は素晴らしくて、歌う人によってはすごくいい曲なんだな、と初めて思いました。
彼女はこの曲のさびでは、がんがんとオペラで訓練された喉でもって押しまくることも出来たでしょうが、
それをせずに、繊細に歌い上げていました。
また、さびの、高音に連続して駆け上っていく丁度その場所に、
彼女の声区が変わる部分があたるようなキーで歌っていて、
声区の切れ目の扱いが下手な歌手に当たると目も当てられないのですが、
彼女はこれを非常に巧みに利用していて、すごく色気のあるカラーを生んでいました。

はっきりと曲名がわかったものは下にあるものだけなんですが、
彼女のノイエ・ギャラリーとのインタビューによると、他に、
ハロルド・アーレン、アーヴィング・ベルリン(What'll I Doではなかったかな、と思うのですが、確信が持てません。)、
ロジャース&ハートのコンビによる曲などが取り上げられていたそうです。


The Boy From Tacarembo La Tumbe Del Fuego Santa Malipas Zatatecas La Junta del Sol y Cruz (Mary Rodgers / Stephen Sondheim)
Mon Dieu (Michel Vaucaire / Charles Dumont)
La Vie en Rose (Edith Piaf / Louis Gugliemi)
Guess Who I Saw Today (Elisse Boyd / Murray Grand)
Poor Butterfly (John Golden / Raymond Hubbell)

Cabaret at Café Sabarsky
Patricia Racette, Soprano
Craig Terry, Piano

Neue Galerie

*** Cabaret at Café Sabarsky with Patricia Racette キャバレー・アット・カフェ・サバルスキー パトリシア・ラセット ***

MetTalks: BORIS GODUNOV

2010-10-01 | メト レクチャー・シリーズ
新シーズンの開始直前に催された”レヴァインとの対話”に向かおうとアパートのドアを開けると、
ちょうど、階段をかけ上がってきた例の店子友達と鉢合わせになりました。
彼はアパートの住人を捕獲するとノン・ストップで話し続け、かつ、さらに声が大きいので、
最近も、廊下から聞こえてくる彼と他の住人の会話が、私の部屋から丸聞こえ、というケースが多々あったのですが、
お互いに生活サイクルが違うと、実際に顔を合わせる機会というのは、同じアパートに住んでいてもそうはないもので、
”おお!久しぶり!!元気だった?”と尋ねると、
”忙しいよ!今は毎日ボリスのリハーサル!”と言います。
なんと、今度は『ボリス・ゴドゥノフ』に登場するのね!
『ボリス』については、演出家の交代劇もあったし、彼に尋ねたいことは山ほどあります。
なので、”ボリス、大変だね。演出家も変わっちゃったし、、。ワズワースはどう?”と聞くと、
”いまいちだね。”
それは大変だ!と思い、”どうして?演出の引継ぎが上手く行ってないの?それともパペとのそりが合わないの?”と言うと、
”ううん、彼は僕の才能の生かし方を全くわかってなくってさ、、。”

、、、、、、。

そもそも、歌のない黙役で、彼が”自分の才能が生かされていない”と感じるほど目立った役がボリスにあるのかどうかも疑問ですが、
それにしても、黙役であろうと、主役のパペとあくまで同じ地平で自らを語ろうとする我が店子友達のその心意気や良し!!
しかし、あんな間際にシュタインからバトンを受けて、エキストラの個性まで見てる時間はさすがにないわな、、と、
ちょっぴりワズワースにも同情してしまう私でした。
”それは嘆かわしいことだわね、、。”と言いながら、ふと時計を見ると、あと15分でレヴァインのイベントが始まってしまう!
”今日はこれからレヴァインと会話してこなきゃいけないから!”と伝え、その日は”じゃ、またね!”ということになりました。

今シーズン二回目にあたるMetTalksシリーズは、その『ボリス・ゴドゥノフ』がテーマで、
前回の『ラインの黄金』の回ではブリン・ターフェルが登場してくれたので、
今回はもしかして、パペも?と期待満々のオーディエンスです。

オーディエンスの中にはすでに新演出の『ラインの黄金』を鑑賞した人も多く、
座談会開始までの待ち時間、周りはその話で持ちきりで、
私のすぐ横で立ち話をしていた初老の男性4人のグループの間では、
しまいに初日の公演の翌日に出たニューヨーク・タイムズの評にまで話が及び、
トマシーニ氏の公演評は、”あんなくそみたいな文章は批評と呼ばない!”とか、
”第一行目から論理性に全く欠けとる。”とか、ぼろくそ言われてました。
トマシーニ氏の評が、こんな感じで、すでにNYのヘッドの間では権威失墜しまくっているのは事実なんですが、
それにしてもヘッズとは何と凶暴な生き物、、こわ!と思っているうちに、
メトのアーティスティック部門のトップをつとめるビリングハースト女史が、
演出のスティーヴン・ワズワース、セットのデザインを担当したフェルディナンド・ヴォーゲルバウアー、
そして、指揮のゲルギエフを連れて壇上に登場しました。残念ながらパペは参加しないようです。

また、ゲルギエフは30分後にキャストとオケとの音合わせがあって、途中で抜けなければなりません、との説明がありました。
相変わらず、ぎちぎちのスケジュールで動き回るゲルギエフ!

以下は、いつもと同様、各人の発言の意訳を再構築したものです。
SBはビリングハースト女史、SWはワズワース、VGはゲルギエフ。
ヴォーゲルバウアーはとてもシャイな人で、ほとんど一言も発しなかったので、略記号はなし。
(でも、終始にこにこと、暖かい雰囲気をふりまく、癒し系の方でした。)

SB: 
今シーズン新演出を迎える『ボリス・ゴドゥノフ』は、皆さんご存知の通り、
演出がペーター・シュタイン氏からスティーブン・ワズワース氏に直前で変更になるというアクシデントがありました。
ワズワース氏が演出代役のオファーを受けたのは、キャストとのリハーサルが始まるたった6週間前のことでした。
『ボリス』は、メトではあまり上演回数が多くない演目ですが、
マリインスキーでは最もよく上演される演目の一つであり、短かったムソルグスキーの人生の中でも、
彼の若かった頃の作品で、書きあがってから2年後に日の目を見るようになりました。
(注:この作品は作曲プロセスの経緯が複雑なので、2年後という数字は、一つの見方でしかありません。)、
『ホヴァンシチナ』と並び、ムソルグスキーがいかに優れた作曲家であったかということがわかる作品でもあります。

VG:
この作品には色々な版がありますが、今回の公演ではポーリッシュ・アクト(ポーランドの幕)を含めることにより、
より幅の広い背景を提示し、同時に、マリーナとドミトリー(グリゴリー)の役に奥行きを与えています。
(注:今回のメトの公演は1875年版をベースに、一部1869年版を採用した折衷版です。
この1875年という数字は、実際の公演のプレイビルにそのように書かれており、1872年のタイポではありません。)
また、政治的側面が大きいこの物語に、ロマンス的要素を加える働きもあります。
私の考えでは1869年の原典版は、ある意味では現代向きとも言えるのかもしれませんが、
まるで最近の映画のように、要点だけを手早く述べるような感じがするのが少し物足りない点でもあります。

SW:
演出的には、プロローグの合唱をはじめとするコロス的要素と、
ある人間(ボリス)が、ツァーリに選ばれ、戴冠され、そこから死に至るまでの道のり、
この二つを両方きちんと描きたいと思っています。

SB:
今回の公演はボリス役のパペを除いた主だったキャストは全てロシア人キャスト、
それも素晴らしい歌手ばかりで、上演時間は4時間に及ぶ大作ですが、聴き応えのあるものになっていますね。
ところで、ワズワースさんにもう少し、今回の交代劇のいきさつをお伺いしたいのですが。

SW:
7月の中旬に、ゲルブ支配人から電話で依頼がありました。5週間後
(注:さっきは6週間後とビリングハースト女史が言ってましたが、、。)に始まるリハーサルに間に合わせてくれ、と。
そこで私がお返事に24時間頂いていいでしょうか?と尋ねると、
ゲルブ支配人は、率直に言って、24時間も差し上げられない、
1時間したらかけなおしますので、そこで返事を頂きたい、と言われました。
普通、オペラの演出というのは、構想とそれを形にするのに、最低2年は必要とします。
それを二ヶ月と少しで遂行してくれ、というのですから、それは躊躇もします。
しかし、今回の場合、私が『ボリス』の物語に個人的に魅かれていたこともあって、
35~40年にわたって良く作品を知り、すでに物語の内容がきちんと消化されて自分の中にある、というそれなりの自信はありました。
結局オファーを受けることにし、その週があけた月曜にはヨーロッパに飛び、
火曜日にはフランクフルトでルネ(・パペ)やヴァレリー(ゲルギエフ)と夕食を取り、
翌日には別の場所に発たなければいけないヴァレリーの、飛行場に向かう車に同乗し、
打ち合わせを続けるという、
なかなかに楽しい時間をすごしました。(横でにやにやするゲルギエフ)
もちろん、ペーター(・シュタイン)によるセットや演出案はほとんど出来上がっていましたので、
それも短期間で、居残ってくれたフェルディナンド(・ヴォーゲルバウアー)をはじめとするスタッフにサマライズしてもらいました。

SW:
ところで、先ほどの話とも少し関連しますが、この作品には多数の違った版がありますね。
原典版を含むムソルグスキーの手による版、それから、リムスキー=コルサコフ版、
シンフォニックな感じがより強いショスタコーヴィチ版もあります。

VG:
それぞれどの版も長所短所がありますが、ムソルグスキーの書いたオリジナル(注:原典版という意味ではなく、
作曲家本人が意図したもの、という意味)に回帰すべき時ではないかな、と私は思っています。
ムソルグスキーは素晴らしい作曲家であり、彼が作曲した管弦楽曲などからもわかる通り、
オーケストレーションにも優れた腕をもっています。
ただし、オーケストレーションに関しては、『ボリス』でその手腕が十全に発揮できているかというと、
そうでもない部分もあって、それが、他の作曲家による版を生ませた原因の一つでもあります。
しかし、彼の音楽・オーケストレーションが持つ、
ロシアらしさ、ロシア的大きさ(注:hugeと言う言葉が使われていました。)は彼独自のものであり、
色づけという面では、リムスキー=コルサコフやショスタコーヴィチに一歩譲るかもしれませんが、
心理的な深さをそこに感じます。
言ってみれば、彼ら2人が24色の色を使って表現する代わりに、
ムソルグスキーは一つの色の濃淡で物語を描ききっているような、そういう印象を持ちます。
ロシア的、と一言で言うのは簡単ですが、プロコフィエフもチャイコフスキーもいずれロシア的でありながら、
彼らの音楽が全く違うものであることは、我々も良く知るとおりです。
私に言わせれば、”ロシア的サウンド”には10くらいの違った種類があります。

SB:
マリインスキーではどの版を使っていますか?

VG:
ムソルグスキーが書いた版を使用しています。
面白いのは、若い頃、ムソルグスキーがあまり上手く書かなかったな、と感じたところに限って、
今では演奏するのが楽しい箇所になっている点です。

SB:
オーケストラについてはどのようにお感じになられましたか?

VG:
メトのオケとマリインスキーのそれは、あの生き物は何と言うんでしたっけ、、えっと、、
そう、カメレオン! ”カメレオン的”なキャラクターを持っているという点で共通しています。
それは、両方のオペラハウスとも、上演の組み方のせいで、
今日はイタリアもの、明日はドイツ、次はロシア、、というように、
レパートリーの切り替えが頻繁に求められるせいです。
カメレオン的でない、つまり切り替えが即座に出来ないようでは、問題です。
例えば、先シーズン指揮した『鼻』は非常に演奏するのが難しいスコアですが、オーケストラは巧みにこなしました。
『ボリス』に限って言うと、今は歌手をサポートすることに、より焦点を置いています。

SB:
今回はルネ以外は主だった役はオール・ロシアン・キャストで、
脇の小さな役にも、ロシア語を自由に操れるロシア系アメリカ人歌手が入っていますね。

VG:
アントネンコはラトヴィアの出身ですね。
ルネはドレスデン育ちですが、当時のドレスデンは東ドイツの一部であったこともあり、
学校でロシア語を習った時期もあったそうで、彼はロシア語を非常に上手く歌っています。
ルネとは6年前、メトの『パルジファル』でも共演しました。
また、多くがロシア人キャストとはいえ、マリインスキーのメンバーの中にも、
今回歌う役が初役だ、という人もいます。
例えば、マリーナ役を歌うエカテリーナ・セメンチャクは素晴らしい歌手ですが、マリーナは初役です。
また、ランゴーニ役を歌う(エフゲニ・)ニキーチンは、ボリス役と『ラインの黄金』のヴォータン役のカバーも兼任しています。
彼も素晴らしい歌手ですから、メトは『ラインの黄金』で緊急事態が起こっても(注:ブリンが歌えなくなっても、の意)、
安泰ですので、ご安心を!!(笑)
(と、そこで、いきなりつーっと後ろのスクリーンが上がるのを見て)
あ、これ、僕のためだね。
(と言って、皆に手を振りつつそのスクリーンの隙間からリハーサルに向かって別のフロアに走って行くゲルギエフに、オーディエンスから拍手。)


(『ボリス』リハーサル中のワズワースとキャスト)

SB:
(ワズワースに)あなたは一番初めのキャストとのリハーサルで、5分ものスピーチを
全てロシア語で行って、キャストを驚かせたそうですね。

SW:
テキストをより深く理解するためには、ロシアの言語はもちろんですが、
ロシアらしさ、ロシアの流儀というものを理解する必要があります。
私の今のロシア語の能力では、せいぜい、”Yes"、”No"、”ありがとう”、”お疲れさま”、”あのテノールをくびにして”(笑)
くらいのことしか言えませんが、このスピーチにあたっては、ロシア語のコーチにつきっきりで教えてもらい、
自分の考えがよく伝わるようにしたつもりです。
スピーチが終わった時に、ロシア人のキャストの1人に”ご両親はロシア人ですか?”と聞かれました(笑)

SB:
シュタイン氏から演出を引継がれましたが、この点について少しお話し願えますか?

SW:
引継ぎでシュタイン氏のアイディアを見た時、まず思ったのは、あまりに多くの場面の変更があり過ぎるということでした。
私は1957年頃、幼少だった時期からメトでオペラを見ていますが、
当時の公演で印象深かったのは、シーンに切れ目がなく、物理的な動きに連続性がきちんとある点で、
それは今でも守るべきことではないかと思っています。
ですので、最初の課題は、いかにいくつかの場面転換を削るか、という点でした。
私は歌手と一緒に働くのと同じ位、デザイナーと仕事をするステップが好きで、
今回もフェルディナンドをはじめとするスタッフと腹を割って話ができたのは大きな収穫でした。
本来2年かかるところを、リハーサルの始まるまでの5週間で詰め込もうというのですから、
それはもうお互いに弾丸のようにアイディアを出し合いましたよ。
メトの大道具のスタッフには”ええ?また新しいアイディアかよ!”と思われていたかもしれませんが(笑)
フェルディナンドをはじめとするデザイナーとは、再度マテリアルを集め、再構築するプロセスも経験しました。
私達2人は演出におけるスタイル、考え方には違いがあるかもしれませんが、
それを越えて、同じビジョンを見れたのは幸いです。
(うんうん、と癒し度100%で横でうなずくフェルディナンド。)

SB:
この作品は合唱の存在が非常に大きいですね。

SW:
そう、演目名が『ボリスとコーラス』とか『コーラス・グドゥノフ』
(注:ラの音にイントネーションを置いて、ボリスと韻を踏むように発音したワズワース製おやじギャグ)
でもいいくらいですね。
戴冠のシーンの前に民衆が”クレムリンに行かなきゃならないんですか?”と歌う場面がありますが、
民衆が感じている皮肉的な気分が良く出ていると思います。
決して新しいものに心底賛成しているわけではないのに、旧体制にあまりにうんざりしているので、
それを受け入れるしかない、という、、。常に歴史は繰り返しますね。
ボリスに関していうと、彼は別に誰に暗殺されるわけでもない。
5年、6年、7年と時間が経っていくうちに、罪を感じる自分の良心によって消耗し、引き裂かれていくだけです。
この間の時間を埋めるのはグリゴリーで、彼が修道院を出て、ポーランドに赴き、
ボリスを引きずりおろすに必要なパワーをかき集め、それを実行に移す姿が描かれます。
その点から、この演目には、非常に多層的な側面があると思います。
マリーナは1869年の原典版には登場せず、1872年のいわゆる改訂版から登場するようになった人物ですが、
主要人物に全く女性がいないという問題を解消するために足されたプリマ・ドンナ的存在のキャラクターです。
プーシキンが原作の戯曲を書いた1820年代後半から1830年代前半というのは、
そもそも、オペラで王室や貴族の実在の人物をこのようなある種ネガティブな形で取り扱うものは、
まだご法度な時代でもありました。
そして、もう1人、ポーランドの幕に登場するランゴーニ。
彼はこの物語に、カトリックの要素を加えると同時に、非常に政治的な人物でもあります。
グリゴリー、マリーナ、ランゴーニ、この三人がお互いを利用し合っているわけです。

SB:
物語を現代に移そう、というアイディアはありましたか?

SW:
いいえ。
ムソルグスキーはこの作品で、ロシアがヨーロッパに組み込まれていく時期の闇を描こうとしたと私は考えており、
その点で、例えば同じロシア人であるチャイコフスキーと比べても、全く違うタイプの作曲家だと思います。
ですので、作品の時代背景から演出を切り離すわけにはいかないと感じます。
そういうこともあって、衣装の方も、デザインは出来るだけ当時のロシアの雰囲気を生かし、
そこに若干、ファンシーさを加えたものになっています。
シュタインから引継いだメモに、”必ずしも動きを制限せずに、本質的な動きに達すること
(to get to essential action not to neccesarily take out the actions)を目指したい”という一文がありました。
大事なのは役を演じる人間を中心に置き、スペースの使い方を極限にまで煮詰めることにです。

SB:
これだけ大人数のキャスト、合唱、またダンサーたちと働いての印象は?

SW:
いつも大きい声で喋らなければならない、ということかな?(笑)
合唱のダイナミックさには、リハーサル中からも涙が出そうになりました。
私はオペラの公演を相当な数見ていますし、滅多に泣かない。その私が、です。
今回のプロセスでは合唱というかたまりでなく、一人一人がアーティストとして優れた自覚をもっている
メトの団員が相手ということもあり、より深く個別の人物のパーソナリティをも表現することが出来たと思います。
この作品は登場人物に強烈な個性の人物が多く、まさに狂気の沙汰と思える箇所もありますが、
その狂気の沙汰(madness)の中に、真実を貫くものがある、それがこの作品の素晴らしいところです。
聖愚者の最後の言葉とも重なりますが、”あわれなロシアよ、いつか元の姿に戻ることがあるのだろうか?”
これこそ、ムソルグスキーの問いかけたかったことではないかと思います。
ロシアの音楽作品には色々な要素が取り込まれていて、ある意味では非常に洗練されていると思いますが、
フランスの作品と違うのは、そこにどこか、粗さ、生々しさがある点ですね。

と、ついに、デザイナーのフェルディナンドが一言。
FW:チャイコフスキーとは違い、ムソルグスキーの音楽はお腹から来る感じですね。
力強さ、それから奇天烈さ、のバランスを上手く保つのが難しい。

SW: 私にとってははじめて手がけたロシア・オペラですが、
この作品はこれからも長い間、興味を持って取り組めそうです。
他の作品なんかに手を回してる時間はないくらいです!(笑)
プーシキンの戯曲の『ボリス』は、もっとストーリーがパノラミックなのに対し、
ムソルグスキーはボリスという人物にフォーカスしたかったのだと思います。 
原典版は、今回使用している版よりも、さらに余計な肉がなく、
ムソルグスキー自身、本来はストーリーとして、ボリスの葛藤を軸にした、非常にタイトなものにしたかったのだと思いますが、
ただ、出来上がったのがちょうどワーグナーの『指輪』やトルストイの『戦争と平和』と同じ時期だったこともあり、
もう少し肉付きを厚くする必要を感じたのかもしれません。

最後にオーディエンスから質問。
Q: 先ほどスペースを煮詰める、という話がありましたが?

SW:
具体的にはたとえば大きな人数を狭い空間に集めると、ドラマ度がぐっとアップする、とか、
人間の知覚の錯覚を利用した一種のテクニックなのですが、一例ですね。

(最初の写真は新演出の中で非常に印象的なプロップとしてパペがモノローグでも利用するロシアの大地図。)

MetTalks Boris Godunov Panel Discussion

Stephen Wadsworth
Ferdinand Wögerbauer
Sarah Billinghurst

Metropolitan Opera House

*** MetTalks Boris Godunov ボリス・ゴドゥノフ ***