Opera! Opera! Opera!

音楽知識ゼロ、しかし、メトロポリタン・オペラを心から愛する人間の、
独断と偏見によるNYオペラ感想日記。

BORIS GODUNOV (Mon, Oct 11, 2010) 前編

2010-10-11 | メトロポリタン・オペラ
シーズン開始の一ヶ月半ほど前でしょうか?
オーダーしておいた一年分のチケットを取りに行き、開いた封筒の中身を見て、手が震えました。
私は今シーズンのシーズンのプレ・オーダーが始まる前に、
メトのスタッフの方からの電話での、”プレ・オーダー分の座席も、
寄付金のレベルの順に良い座席をアサインしますから、、。”という口車にすっかり乗って、
メトへの年間の寄付金を50%増やし(といっても、元の金額が小さいので、絶対金額では全く大したことのない金額ですが)、
これで、最前列も夢じゃない!と、うきうきでチケットを取りに来たのに、
開けて見れば、寄付金をアップグレードする前の年よりも、ことごとく座席が後ろになっているではないですか!
あまりの怒りに、連れに”メトに騙された!きーっ!!!”と言って電話をかけると、
彼まで、”君のような忠実なファンにそんな仕打ちをするとはメトも地に堕ちた!”と言い、
さらに、なぜ、そんな座席になったのか、パトロン・デスクに電話をしてみなさい、と
発破までかけてくれたのですが、私は中途半端な怒りだと、あちこちにそれを炸裂させるのですが、
マジぎれすると自分の殻に閉じこもる癖があるので、
”いいよ、もう。来年からびた一文寄付しなけりゃいいだけだから。”と言って、
今年は、この、愛するメトに騙されて押し付けられた後ろの方の座席に座って
公演を観てやろうじゃないの!と思いで新シーズンに挑みました。

ところが、シーズンが始まって今回の『ボリス・ゴドゥノフ』ですでに5公演ほど
(この記事を書いている時点ではさらに公演数が加わって8本くらいになってますが)の今、思っているのは、
怒りに任せて電話しなくて良かった、、、ということ。
というのも、どの座席もすごく観やすくて、舞台の全体像を観るには最適だし、音響も良い。
一、二列下がっても、それ自体、まったく問題がないどころか、
むしろ、以前より、視覚的・聴覚的に、舞台をかけている側の意図がこれ以上良くわかる座席はないのでは?と思う位です。
それは、今回あてがわれた座席は、出来るだけ、オペラハウスの左右の中心になるように工夫してくれているからで、
前後ばかりに気をとられていた私は、昨年までは、列は前でも、
若干左右に寄った座席になっていたことに気づいてなかったようです。
良い座席というのは、観る側が何を重視するかによっても変わってくるので、
一概に定義できるものではないですが、舞台全体を楽しむ、という意味では、まぎれもなく、非常に良い席です。
ほんと、これで”なんでこんな座席を回してくるんですか?!今から座席交換してください!!”と絶叫しながら電話していたら、
”頭のおかしい女がわけのわからない電話をしてきたぞ、、。あれより良い座席はもうないのに。”と思われるところでした。
(それこそ、最前列のど真ん中は、もっと多額な金額を寄付している方たちによって、がっちり押さえられているはずです。)
時には自分の考えを放出するばかりでなく、一歩下がって、人の言う通りにしてみるという事も大事、という教訓になりました。
というわけで、来シーズンも私の銀行口座の財政状況が許せば、寄付を続けるつもりでいます。

で、なぜ、こんな話を長々と書いたかというと、
先に書いた”舞台全体を楽しむ、という意味では良席”の言葉を裏付ける事実があるからです。
今日のこの『ボリス・ゴドゥノフ』初日の公演で隣に座っていた、私と同年齢と思しき女性は、
一回目の休憩の前の、プロローグからニ幕にいたるそこここで、
そっとペンを取り出しては紙に何かを書き付けているので、
どこか別のオペラハウスの方か、オペラに関することを学校か何かで勉強されている方かと思い、
三幕が始まる前に尋ねてみると、
”ええ、実はクラシック専門の音楽サイトで、メトの公演評を書いているんです。”
しかも、彼女の隣に座っている男性も、彼女とは別のところで批評を書いている人でした。
ということで、辺りは批評家の巣窟です。
”私は次の日に原稿をあげなければいけないのですが、オペラの評を書くのは大変でつい時間がかかってしまって、、。”とおっしゃるので、
”実は私もブログでメトの公演の感想を書いていて、もちろん、批評とは重さが違いますし、気楽なものですが、
それでも公演について書くことの、その大変さは良くわかります。”とカミングアウトすると、
”まあ!じゃ、あなたもメトに招待されてこの座席に?”

そこで眉がぴくっ!とするMadokakip。
言っておきますが、私は1回たりとも、正規の金額以外でメトの公演を鑑賞したことはないざんす!!
これは、メトほどのオペラハウスがかけてくれる公演には、観る側もきちんと金を払うべきである!という、私のポリシーであり、
また、特にこのブログではメトの公演に特化して、パフォーマンスの内容を云々していることもあり、
演奏してくれる歌手、オケ、合唱に出来るだけフェアであるために、
舞台を観る条件を出来る限り同じに近づけたく、
座席の種類も、事情が許す限り、限定しているつもりです。
(だから好きな歌手が出ていても、平土間には滅多に座らないし、最上階のファミリー・サークルにも座らないのです。)



このお隣の女性とは色々興味深いお話をさせて頂きました。
彼女は生まれはドイツなのですが、イギリスの大学で学ばれるまで、ベルギーのブリュッセルで育たれたそうで、
彼女は子供の頃から両親に連れられてよくモネ劇場に通ったそうなのですが、
ちょうど、当時のモネ劇場は、あのムッシュー・Mこと、モルティエが大活躍(?)していた頃で、
”彼は当時からあんなクレージーな演出ばかりかけていたのですか?”と思わず尋ねてしまった私です。
”いいえ、そうでもないのよ。
彼のおかげで、私にとっては、オペラというのは常に演出と密接に結びついているものであり、
何か新しい観点を提示してくれるものである、という考え方が身に着いてしまったので、
例えば、何日か前にここで見た『リゴレット』のような公演を見ると、退屈で退屈で仕方がないの。”
私は逆に、オペラというものは歌を中心にした音楽がまずありき、音楽は演出を越える、という考え方で、
彼女が話しているのと同じシェンクの演出の『リゴレット』でも、
退屈とはほど遠い、優れた公演を観たことがあるし、
また、この『ボリス・ゴドゥノフ』の後に感想を書く予定の『ラ・ボエーム』でもそれを裏付けるような例を目撃しましたので、
彼女の意見に異論がないわけではなく、”それは歌手の力の不足でしょう。”と言いたいところもあるのですが、
しかし、批評家を含めたそれぞれの観客の鑑賞の仕方には、それぞれのバックグラウンドというものがあって、
それは尊重されるべきであるし、また、誰の感想も、そのバックグラウンドからは逃れられないものなのだ、ということは、
他の方が書いた感想・批評を読む際に、覚えておかなければいけない点だな、と思います。

彼女はメトでは主に新演出ものを中心に批評を書いているということでしたので、
話はおのずと『ラインの黄金』におよびました。
彼女によると『ラインの黄金』でのターフェルのドイツ語の扱いは素晴らしかったそうで、
一部、音域によって発声の仕方のせいで少し聴き取りにくい部分があった
(しかし、それはネイティブの歌手でも見られる程度のものだそうです。)以外は、
何を歌っているか、一語一語はっきりと聴き取れたそうです。

先に書いた通り、彼女は演出を非常に重視する方なので、
基本的には、ゲルブ支配人になってからの時代の方が、面白いと感じる公演が多いそうで、
『ラインの黄金』のルパージュの演出についても、特別感動的!というものではなかったかもしれないけれども、
セットはアイディアに富んでいるし、非常に野心的な演出家の選択である、と、
かなりポジティブなご覧のなり方をしてらっしゃいました。
ただし、彼女も初日の公演を鑑賞されたということなので、
あの日のワルハラ入城シーンは舞台機構上のミスがあって、本来あるべき姿で上演されておらず、
私はその後に、あるべき姿でも鑑賞しましたが、初日の方がイマジネーションに富んでいて良かったです、と申し上げると、笑ってらっしゃいました。

今回の『ボリス・ゴドゥノフ』は、どういうところに注目してご覧になってらっしゃいますか?と尋ねると、
”『ボリス』を上演する場合、たいてい、演出家は、これをボリスの物語として演出するか、
民衆の物語として演出するか、どこかでその選択をはっきりさせるものなのだけれども、
今のところ(この話題は、三幕が終了した後、二度目のインターミッション中にワインをご一緒させて頂いている時に出ました。)
ワズワースがどちらを選んだのか、まだはっきりとわかりかねる部分があるので、
最後の幕で、どういう締め方になるのか、すごく楽しみだわ。”

私が”今回、ご存知の通り、演出家の交代劇がありましたけれども、
シュタインのビジョンとワズワースのビジョンが違っていた可能性もありますし、
それを折衷しようとして、どちらの物語なのか、今の時点では今ひとつわかりにくくなっている部分もあるかもしれませんね。
最後の幕ではっきりするかもしれませんが。”と言うと、
”そうそう!それも一つですね。私はずっと、それぞれのシーンについて、
これはどちらの演出家のアイディアなんだろう、、?と、考えながら見ているのですけど、
演出が思った以上にシームレスで、ほとんど切れ目を感じさせないので、
その点、ワズワースはとても良い仕事をしたと思うわ。”
感想を詳しく書く前に何ですけれども、私も同感です。



私は新シーズンの演目に『ボリス』が含まれていて、その指揮がゲルギエフであると知った時点で、
彼がマリインスキーと録音した、1869年版と1872年版のダブルCD(リブレットをも含めると、死ぬほど分厚い)を、
きっと上演はこのどちらかの版に依拠したものになるだろうと思って、聴き続けて来ました。
結局、このどちらとも少し違う版であるということをMetTalksで知った時には、
”まじかよーっ!1872年版からどれくらい違うのよ??相当違ったらわたしゃ切れるよ。”という思いでした。
しかし、結論から言うと、ゲルギエフの1872年版を聴いておけば、
今回のメトの公演はそう違和感なく聴ける内容で、予習には十分です。
私は公演が終わってから、初めてリムスキー・コルサコフ版によるこの作品をCDでじっくり聴くという、
もしかすると、多くの方とは逆のルートを取ったのですが、
ムソルグスキーのオーケストレーションに馴染んでしまった後でしたので、
リムスキー・コルサコフのそれの華麗なことに、びっくりいたしました。
このCDなんですが、版の違いはともかく、演奏自体が本当に素晴らしいので、
今回の公演の内容と絡めて、記事の後の方でゆっくりご紹介したいと思いますが、
ただ、強調しておきたいことは、予習、本公演を通して、
ムソルグスキーのオーケストレーションでも、十分、この作品のすごさは伝わってきた、ということです。
なぜ、ここを強調するかというと、今回のメトの公演をご覧になって物足りなく感じた方が仮にいたとしたら、
それを、ムソルグスキーのオーケストレーションがリムスキー・コルサコフのそれに劣っているからだ、と、
そこにすべてを結論付ける人がいるのではないか、と危惧するからです。
私自身は、ムソルグスキーのオーケストレーションはやや粗野でシンプルで男っぽいですが、
力のある歌手を得れれば、他者の手(リムスキー・コルサコフなどのオーケストレーション)を借りずとも、
ものすごい劇的効果が出るようにすでに書かれている、素晴らしい作品だと思いますし、
メトが(というよりは多分ゲルギエフのアイディアなんでしょうが)ムソルグスキーの、
それも、このちょっと変わった版で上演することにしてくれたおかげで、
リムスキー・コルサコフ版が激しく頭にインプリントされる前に、
ムソルグスキーの書いた版の価値を感じることが出来たのは、ある意味、幸運でした。



ワズワースはMetTalksの場で、シュタインの演出プランはセットの変更が多く、
作品の流れを壊す恐れがあると考え、いくつかセットの転換を削り、
それに伴い、セットそのものにも、多少の変更を加えたことを明かしていました。
今回のセットそのものは、非常にシンプルですが、決して安っぽくなっていないのにはほっとさせられます。
同じワズワースが演出した『タウリスのイフィゲニア』を思い出すと、
彼の作り出す舞台には、壁とそれが作り出す圧迫感が効果的に使われているセットが多くて、
今回の『ボリス』でも、少し似た雰囲気を感じるところがあって(聖ワシリー大聖堂前の広場のシーンなどにそれを感じます)、
ワズワースも、彼独自の世界を持った人だなと思います。

先に紹介した隣の座席の女性との話しにも出た通り、どこからどこまでがワズワースのアイディアで、
どこからがシュタインのアイディアなのか、正直、全く区別がつかないのですが、
最後にはワズワースの承認を得て舞台に乗っているということで、
一応、すべてが彼の仕事、もしくは、少なくとも彼が承認した仕事であるという仮定で書きますが、
今回の演出で印象的だったのは、空間の使用の仕方の自由な発想で、
セットがシンプルなのを逆手にとって、ピーメンの語りの場面のバックに、
ボリスの統治とそれがロシアの歴史の中の一部に過ぎないことをシンボライズするため玉座を置いたかと思うと、
グリゴリーがディミトリー皇子が暗殺された経緯を知り、
生きていれば同じ年頃だったはずの皇子になりすますことを思い立って修道院を脱走する場面では、
その空間を舞台上で円を描くように走りまわっていて、
そこはすでに、グリゴリーが駆け抜けたモスクワの街と国境近くに辿りつくまでの全ての場所を表している、といった具合です。
また、その彼がたどり着く国境近い旅籠屋も、完全な家屋ではなくて、建物の一辺の壁だけを、
思い切り舞台の前方に設え、残りの広大な舞台スペースにボリスが放った追っ手をちりばめるなど、
ワズワースが作る舞台というのは、(例えばシェンクやゼッフィレッリのように)物理的に忠実であることよりも、
その時に進行している物語の、心理的なバランスを表現することに重点を置いているように感じました。

それが最も効果的に現れているのが、第一幕第一場のチュードフ修道院の場で、
先に書いたように、後ろにはボリスの玉座と、盲目的に彼に付きしたがう民衆や臣下を表現するダンサーたちの姿があって、
舞台の前面には、極端に大きな、それこそ人の体のサイズくらいある年代記があって、
それにまたがるようにして、ピーメンが歴史を綴っています(上から3枚目の写真)。

私のいる座席からそれを見ると、玉座よりも年代記の大きさの方がインパクトがあって、
どんなツァーリの心の葛藤も、大きなロシアの歴史の中では塵のようなものに過ぎず、
一方で、ボリスのモノローグから、彼の苦しみがどれほどのものであるかが観客には伝わってくるので、
一層、ロシアの歴史の大きさ、重みが拡大される効果があって、
さらに、そんな苦しみを経てまでツァーリに成り上がったボリスが得たものは、
ロシアの大きさのまえに、蟻のように踏み潰される、、、
その空しさが、しかし、それを求めてやまない人間の愚かさという空しさと、二重になって伝わってきます。

また、この年代記はさらに大活躍で、いわゆるポーランドの幕と言われる第三幕にも、
再び一幕と同じ場所に、ででーん!と居座っていて、
音楽が始まった瞬間、あんた、また帰って来たのか!と思わずびっくりします。
この幕では、年代記はポーランドのビッチ、マリーナに自由自在に踏みつけられ、
前の幕ではあれほど大きく見えたロシアという国が、今度は、彼女のいつか自分が皇后に!という野望をはじめとする、
色んな人々の野心と陰謀に翻弄されている様子が良くわかり、
同じ大きさの年代記が、ロシアの偉大さ(一幕)と傷つきやすさ(三幕)の両面を表現していて見事です。
一見ボリスに付き従っているように見えるシュイスキーですら、とっくに寝返って、影でボリスを転覆させようとしているし、
(そして、それをわかっていながら表面的には上手く付き合っていかなければならないボリス!)
信仰の拡大という隠れ蓑を借りて、自分の個人的な政治的野心を満たそうとしているランゴーニもしかりで、
彼らの暗躍がまたこの作品を奥行き深いものにしています。

第二幕で、息子に帝王学を教える場面に使われるロシアの広大な地図は、
同じ幕の最後に登場するこの作品の最大の聴かせ所のひとつである時計の場で、
自らが暗殺したディミトリー皇子の幻影におびえ錯乱するボリスを表現するのに、
パペが効果的に使っているプロップで、摑んでも摑んでも自分の指からこぼれてしまうような、
ロシアという国における権力のつかみどころのなさとはかなさが上手く表現されています。

後編に続く>


René Pape (Boris Godunov)
Aleksandrs Antonenko (Grigory)
Ekaterina Semenchuk (Marina)
Andrey Popov (Holy Fool)
Mikhail Petrenko (Pimen)
Evgeny Nikitin (Rangoni)
Oleg Balashov (Prince Shuisky)
Vladimir Ognovenko (Varlaam)
Nikolai Gassiev (Missail)
Olga Savova (Hostess of the Inn)
Jonathan A. Makepeace (Feodor, son of Boris)
Jennifer Zetlan (Xenia, daughter of Boris)
Larisa Shevchenko (Nurse)
Alexey Markov (Shchelkalov, a boyar)
Dennis Petersen (Khrushchov, a boyar)
Valerian Ruminski (Nikitich, a police officer)
Mikhail Svetlov (Mitiukha, a peasant)
Gennady Bezzubenkov (Police officer)
Brian Frutiger (Boyar in attendance)
Mark Schowalter (Chernikovsky, a Jesuit)
Andrew Oakden (Lavitsky, a Jesuit)

Conductor: Valery Gergiev
Production: Stephen Wadsworth
Set design: Ferdinand Wögerbauer
Costume design: Moidele Bickel
Lighting design: Duane Schuler
Choreography: Apostolia Tsolaki

Gr Tier D Odd
OFF

*** ムソルグスキー ボリス・ゴドゥノフ Mussorgsky Boris Godunov ***

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