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東京の夜景動画ブログです。

ハラシマあがって有頂天

2006-11-10 23:23:57 | 業務関連

ほとんど徹夜状態でハラシマうぷ後、すっかりいぃ気分で夕方から打ち合わせ。
まぁ、内容そのものはどうということもないのだけど、ついでに近所のメーカー系ギャラリーを冷やかしたりしつつ、そのままカラオケという展開になったのはおおびっくりだったね~


もっとびくぅりちたのはカラオケになぜか有頂天が入ってて、しかも大好きな「マリオネットタウンでそっくりショー」が収録されてたってことにゃ!
もちろん即入れ即歌上等!
誰も知らない曲だったけど、そんなことはまったく気にせず、当然「BYE-BYE」も勝手に熱唱して自分だけいい気分。
まぁ、いまだに蒸しパン見るたび「オードリーヘプバーン泥棒」が脳内でチューニングされちゃうような自分ですから、その辺は老人のわがままとして大目に見てほしいところ。


さておき、打ち合わせの合間にはお決まりの雑談となるのだが、ちょっと面白かったのはストーリー性とゲーム性を対立的に捉えている人が少なくなかったことと、ゲームを知らないと公言してはばからない人々によるゲーム批評に対する強烈な苛立ちを感じている人々もまた、決して少なくはなさそうだということだった。
ストーリー性とゲーム性とを対立的に捉えること関しては、どうやら直接的には現代思想家A氏によるエロゲー批判がきっかけとなっているらしく、さらには背景にゲーム理論の流行もあるようなのだが、とりあえずざっくばらんに「両立可能なんで無いの?」とかなんとか、てきとーなことでお茶を濁してしまった。これはプレイ経験の多寡と批評眼との問題にもかかわってくるので、正直、雑談のネタとしては重すぎたというわけ。


まぁ、もうひとつのネタも決して軽くは無いのだが、こちらは社会的常識なり個人の品位なりの問題に還元しやすかったので、その意味では比較的楽だったよ。


実際、プレイ経験を鑑賞経験に読み替えれば、そのまま芸術論に置き換わるわけで、結論は既に出ているともいえる。
つまり、ゲームは非常に複雑かつ多様な娯楽であり、ゲームに関する教養や修練をつんでいるほうがより深く楽しめるが、かつての高級芸術とは異なり、プレイ経験がほとんど無いような人物にはまったく楽しめないというものではない。
逆に、直感的に楽しむことができ、かつ理解したような気持ちになることがゲームのよさであり、ゲームを楽しむためにはある程度以上のプレイ経験が必要であると捉えることは、むしろゲームの魅力をそぐことになる。確かに、ゲームをプレイしないと公言しつつゲームを語ったり、ひどい場合にはゲームを語るのにゲームをプレイする必要が無いかのように放言してはばからない人物には、感情的な反感を覚えるのが当然だと思う。
しかし、かつてヴァルター・ベンヤミンが専門用語で語られ、専門的な理論や文脈のみに基づいて制作される前衛芸術に対して、大衆の反感をあおると批判したように、ゲームをオタク的な理論や文脈のみに基づいて、オタクの言葉で語るのであれば、そのような行為は当然のように反感をあおるだろう。ゲームをプレイしないと公言しつつゲームを語ったり、ひどい場合にはゲームを語るのにゲームをプレイする必要が無いかのように放言してはばからない人物は、ゲームオタクに対する反感をナイーブな形で表現していると捉えるべきで、そのような人物にゲームをプレイすることの重要性を説くことは、反感を募らせるばかりで無意味だとさえいえるのだ。


実は写真にも同じような状況があって、同様に写真も直感的に楽しむことができ、かつ理解したような気持ちになれることから、過去の写真作家や作品を知らないと公言しつつ写真を語ったり、ひどい場合には写真を語るのに写真を鑑賞する必要が無いかのように放言してはばからない人物が少なくない。また、そういう人物に限ってむやみにほかの愛好者をカメコ呼ばわりしたり、ストリートスナップを盗撮と非難したりと、まぁ控えめに言ってもナイーブなことおびただしいのだが、下手にいじるとますます反感を募らせるので放置するほかないというのがもどかしいところ。


その意味では、自分も彼らの苛立ちが痛いほどわかるが、ともかくそういう人間は下品で無教養なんだから仕方ないとあきらめて、静かに立ち去るほかはないということで一同げんなりという、なんともしまりの無い落ちでございました。



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