鳥の巣頭の世迷い言

読書音楽観劇、ハゲタカ廃人、そしてアラシックライフをエンジョイしている三十路のお気楽会社員・ガバ鳥のblog

終戦記念日ではないけれど。

2009年08月23日 20時57分04秒 | 日常

たまたま思い立ってしまったのでツラツラと。

先週、体調の不調があまりにも長く続いたので病院で検査を受けたら腫瘍様のものが出来ていることが告げられた。
ただ、悪性じゃないし、手術で取り除くまでもない、と言われた。

私事であるが、私自身、医療系の学部を卒業して(ph.Dもある)るし、今でもバイトであるが勤務もしている。
よって、今更「腫瘍!」と聞いてオロオロするほどでもないし、かと言って完全に安心するほど知識がないワケでもない。
自分の年齢を考えると、そろそろ出来始めても妥当な線だとも思う(20代後半だから)。
だけど、腫瘍という言葉を聞いて、少し人生の終わりについてツラツラと考えてしまった。



そしてフと思ったのが。
同じ20代で生死のギリギリの線で戦っていた祖父たちのことだった。
つまりは、戦場体験を持つ祖父たちのことだ。
(戦争体験というと、空襲経験のある祖母たちも入るが今回は割愛。)


戦争というと、我々の世代では「空襲、原爆、飢え」だったりする。
しかして戦場での体験記を話す人たちは少ない。話したくないのかもしれない。話をしにくい環境なのかもしれない。
理由は彼らにしか解らない。祖父たちも例に漏れず、ほとんど話さなかったようだ。


数少ないそのエピソードから察するに。
太平洋戦争当時、私の母方の祖父の戦場は、ラバウルだった。海軍に所属して、最初は整備兵として空母に勤務していたらしい。ちなみに祖父の兄などは「俺たちは税金を使って太平洋を旅行していた」と言っていた。
その後、船が撃沈されてから様々な経緯を辿って、彼はラバウル配属となった。バナナの葉っぱで御箸や服を作ったりと、イロイロしていたらしい。

伝え聞く部隊の生還率は恐ろしく低く(約6%)、よくぞ生きて帰ってくれたと思う。
<つまりは消耗率が94%。ほとんど戦死。

奇跡のように祖父は帰って来てくれた。
祖父は戦場からヤシの葉で作った御箸や服を持って帰って来たという。彼自身は、それを持ち続けたいと思っていたようだ。
ようだ、というのは。
それを見た妻(祖母)が廃棄してしまったからだ。
女であり妻である祖母が、祖父の持ち帰った箸の類いに何を見出したかは解らない。が、祖父の為を思って捨てたに違いないと私は信じている。見ていた母も反対しなかったようだ。

今でも白骨街道、などを聞くと、祖父がどんな思いをしたのかと考えて少し苦しくなる。

「仰向けの死体の口の中から芽が青く出ている。よく見ると、生の籾を食べようとして口の中に入れたが、そのまま息を引き取った姿だ。死体の兵隊は米が無くなり、やっと籾(もみ)を現地人の家から取ることができたが、これを白米にする力も無く、火に掛けて焼いて食べることもできないまま体力が衰え、籾のままを食べようとして口に入れたが、そのまま息絶えているのだ。そこへ雨期の雨が適当に口の中に降り注ぎ、籾から芽が出て青く育っているのである。屍の口の中で籾が発芽して青い芽が育つ、そんなことがこの世にあってよいのだろうか・・・。」
<一兵士の戦争体験:http://www.bea.hi-ho.ne.jp/odak/index.htm

一兵士の戦争体験記を読む。
インパール、ラバウル、フィリピン、グアム、沖縄・・・。
そこにはありとあらゆる出身の人たちの思惑/人生/感情がごちゃ混ぜにされた、激しい日々があった。

見知らぬ誰かの恋人を撃ち殺し、誰かの父親ののど笛を切り裂いて、誰かの兄弟たちを砲弾で吹き飛ばす。
見知らぬ恨みようがない、誰かと誰かが殺し合う。勝つために、効率的に殺し合う。
それらすべてが混ざり合い、地獄の釜のように煮えたぎっている。
それこそが戦争であろう、と思う。




生き残ってくれて感謝、しかない。
そしてそれを支えてくれた祖母や母、叔父たち、様々な人たちにも。

病気は私に苦痛をもたらしたが、それと同時に、今の私よりもずっと若かった祖父たちへの思いも持って来てくれたようにも思う。
少しでも速く全快するように頑張りたい。





ちなみに、父方の祖父は広島原爆の生き残りであった。
当時は海軍将校として呉に勤務していたようだ。
これを知ったのは、私が高校生になってからのことだ。
被曝手帳は持っていたようだが、詳しいことは解らない。
生き残ってくれて感謝、そして祖父と結婚してくれた祖母にも感謝である。