今回はブログの趣旨に反して比較的新しい作品について書きます。
機会があって(浮世の義理で)本作を見ました。
「ちょっとはマシなんだろうが、どうせ西洋人が描くサムライものだろう」
と侮っていました。
素直に「ごめんなさい」と言わせて頂きます。
感想は一言、「素晴らしかった」
更に加えれば、「何で日本人がこれを作れないんだ」ですね。
昔と違って、日本だってそれなりの金は集められるようになってます、
「角川」みたいに集めた金をドブにすてるのは馬鹿でも出来るけれど、集
めた莫大な金を有効に使うには才能が要ります、その才能が日本には
無いという事なのでしょうか、淋しい限りです。
確かに日本人から見れば「あれ?」っと思う所は幾つかあります、が、
話の本筋から見れば瑣末な事でしかないと思います。
よく、これだけ日本の歴史をヒントにしながら上手にカルチャライズして
話を創ったものだと驚嘆します。
まあ、ヒネクレタ見方をすれば、インディアンを悪者にした単純な西部
劇が作れなくなったアメリカが(※)、「良心の呵責」を余り感じないです
む東洋にその場を求めた、という見方も出来なくはないのかもしれませ
んが(「レッド・クリフ」にしても)、映画は映画です、作品の出来が良けれ
ば、そんな事を考える必要は微塵もないと思います。
もし、日本人がアメリカの歴史をカルチャライズして、違和感なく新しい
架空の話をこれほど上手く作れるでしょうか。
日本人は歴史的立場から来てるのか、他所の国を観察するのに非常
に長けている(あくまで上位に位置してる国)と思いますが、それでもやっ
ぱり100%のアメリカ人もフランス人もイギリス人も描くことは出来ないと
思います、それと同じく西洋人に100%の日本人を描くことを期待するの
は無理なのです。
そういう目で見ても、去年公開された「必死剣 鳥刺し」の百姓衆と本作
の百姓衆を較べれば、どちらにリアリティが有るか、「日本の監督は何を
やってんだ」と言いたくなります、大したもんです。
「ラストサムライ」の主題は「滅びの美学」だと思います。
この美学は各国共通ですが、我が国ではとりわけ、その意識が強い。
日本人のDNAに色濃く刻まれてる「もののあはれ」や「無常」にも通じ
る感覚。
この日本人の持つ感覚を、ここまで上手く異国の人間に描かれるとは
思いもしませんでした。
西洋の「ノーブレス・オブリージュ」と「武士の心得」(どちらも、かなりの
建前ですが)がある程度共通してた、という見方も出来るかもしれません
が、ちゃんと日本の味付けで表現しながら観る者を納得させるだけのチ
カラが有ると思います。
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「黒澤映画」に対するオマージュとしての「ラストサムライ」
黒澤監督の「影武者」という映画は余り好きではないのですが、この映
画、結構向こうの映画に影響を与えてたんですね。
「影武者」の前半部にある「夕陽を背にした行軍」とか「戦陣の埃が逆
光で浮かび上がる」とか。
「夕陽を背にした連隊」や「騎馬隊の突撃」は「サハラに舞う羽根」(20
02年米・英合作映画)に、そっくりな部分があったし、本作「ラストサムラ
イ」でも「逆光に浮かぶ埃」や「騎馬隊の突撃」は「影武者」や「乱」を参考
にしてると感じました。
また刀槍が近代兵器の前には遺物でしかないというのは「七人の侍」
への、ある種のオマージュだと思います、と、いうより、この作品自体が
「七人の侍」に対するオマージュだと強く感じます(※2)。
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渡辺謙(トップ・クレジットだから彼が主役なんだ)、トム・クルーズ、真田
広之他、役者達もいい演技をしています、こういう映画に出演出来るのは、
たとえ、どんなに大変でも役者冥利につきるんじゃないでしょうか。
20年、30年経って振り返った時、この映画に出演した役者達は今より
もずっと高い名声に包まれていると思います、「七人の侍」に出演した人達
が、後々、永遠に日本映画史に刻まれる事になったように。
※ インディアンを単純な悪者として描く西部劇は大戦後、割と早く終焉
を迎えてると思います、「西部劇」の神様J・フォードでさえ中期以降そ
ういう作品は殆ど無いと言います。
敵を南軍にしたりガンファイター同士の争いにして生き延びた「西部
劇」も、ベトナム戦争のソンミ村大虐殺を想起させる「ソルジャー・ブル
ー」(‘70)と機関銃で無法者を皆殺しにする「ワイルド・バンチ」(‘69)
で終わりを告げました。
西部劇を、或いはアメリカを代表する大スター J・ウェインは「我々が
創ってきた西部劇とはイリュージョンなのだ、「ワイルド・バンチ」には、
それが無い。あるのは「殺し」だけだ」と嘆いたそうです。
※2 ただ「ワイルド・バンチ」には早撃ちの腕一本で生きていく世界が機関
銃によって消え去ってしまった、というレクイエム的側面があります、こ
れは黒澤に影響を受けたペキンパーらしい黒澤に対するオマージュな
のかもしれません。
だとしたら、J・フォードを神様のように慕った黒澤が、そのフォードの
愛した「西部劇」に引導を渡すきっかけを作ったとも言えます、皮肉な
ものです。
「七人の侍」は、鉄砲の前には刀が無力であり古き侍達の終焉を暗示
しています、「ワイルド・バンチ」も本作「ラストサムライ」も、一つの時代
へのレクイエムという点で共通してると思います。
機会があって(浮世の義理で)本作を見ました。
「ちょっとはマシなんだろうが、どうせ西洋人が描くサムライものだろう」
と侮っていました。
素直に「ごめんなさい」と言わせて頂きます。
感想は一言、「素晴らしかった」
更に加えれば、「何で日本人がこれを作れないんだ」ですね。
昔と違って、日本だってそれなりの金は集められるようになってます、
「角川」みたいに集めた金をドブにすてるのは馬鹿でも出来るけれど、集
めた莫大な金を有効に使うには才能が要ります、その才能が日本には
無いという事なのでしょうか、淋しい限りです。
確かに日本人から見れば「あれ?」っと思う所は幾つかあります、が、
話の本筋から見れば瑣末な事でしかないと思います。
よく、これだけ日本の歴史をヒントにしながら上手にカルチャライズして
話を創ったものだと驚嘆します。
まあ、ヒネクレタ見方をすれば、インディアンを悪者にした単純な西部
劇が作れなくなったアメリカが(※)、「良心の呵責」を余り感じないです
む東洋にその場を求めた、という見方も出来なくはないのかもしれませ
んが(「レッド・クリフ」にしても)、映画は映画です、作品の出来が良けれ
ば、そんな事を考える必要は微塵もないと思います。
もし、日本人がアメリカの歴史をカルチャライズして、違和感なく新しい
架空の話をこれほど上手く作れるでしょうか。
日本人は歴史的立場から来てるのか、他所の国を観察するのに非常
に長けている(あくまで上位に位置してる国)と思いますが、それでもやっ
ぱり100%のアメリカ人もフランス人もイギリス人も描くことは出来ないと
思います、それと同じく西洋人に100%の日本人を描くことを期待するの
は無理なのです。
そういう目で見ても、去年公開された「必死剣 鳥刺し」の百姓衆と本作
の百姓衆を較べれば、どちらにリアリティが有るか、「日本の監督は何を
やってんだ」と言いたくなります、大したもんです。
「ラストサムライ」の主題は「滅びの美学」だと思います。
この美学は各国共通ですが、我が国ではとりわけ、その意識が強い。
日本人のDNAに色濃く刻まれてる「もののあはれ」や「無常」にも通じ
る感覚。
この日本人の持つ感覚を、ここまで上手く異国の人間に描かれるとは
思いもしませんでした。
西洋の「ノーブレス・オブリージュ」と「武士の心得」(どちらも、かなりの
建前ですが)がある程度共通してた、という見方も出来るかもしれません
が、ちゃんと日本の味付けで表現しながら観る者を納得させるだけのチ
カラが有ると思います。
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「黒澤映画」に対するオマージュとしての「ラストサムライ」
黒澤監督の「影武者」という映画は余り好きではないのですが、この映
画、結構向こうの映画に影響を与えてたんですね。
「影武者」の前半部にある「夕陽を背にした行軍」とか「戦陣の埃が逆
光で浮かび上がる」とか。
「夕陽を背にした連隊」や「騎馬隊の突撃」は「サハラに舞う羽根」(20
02年米・英合作映画)に、そっくりな部分があったし、本作「ラストサムラ
イ」でも「逆光に浮かぶ埃」や「騎馬隊の突撃」は「影武者」や「乱」を参考
にしてると感じました。
また刀槍が近代兵器の前には遺物でしかないというのは「七人の侍」
への、ある種のオマージュだと思います、と、いうより、この作品自体が
「七人の侍」に対するオマージュだと強く感じます(※2)。
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渡辺謙(トップ・クレジットだから彼が主役なんだ)、トム・クルーズ、真田
広之他、役者達もいい演技をしています、こういう映画に出演出来るのは、
たとえ、どんなに大変でも役者冥利につきるんじゃないでしょうか。
20年、30年経って振り返った時、この映画に出演した役者達は今より
もずっと高い名声に包まれていると思います、「七人の侍」に出演した人達
が、後々、永遠に日本映画史に刻まれる事になったように。
※ インディアンを単純な悪者として描く西部劇は大戦後、割と早く終焉
を迎えてると思います、「西部劇」の神様J・フォードでさえ中期以降そ
ういう作品は殆ど無いと言います。
敵を南軍にしたりガンファイター同士の争いにして生き延びた「西部
劇」も、ベトナム戦争のソンミ村大虐殺を想起させる「ソルジャー・ブル
ー」(‘70)と機関銃で無法者を皆殺しにする「ワイルド・バンチ」(‘69)
で終わりを告げました。
西部劇を、或いはアメリカを代表する大スター J・ウェインは「我々が
創ってきた西部劇とはイリュージョンなのだ、「ワイルド・バンチ」には、
それが無い。あるのは「殺し」だけだ」と嘆いたそうです。
※2 ただ「ワイルド・バンチ」には早撃ちの腕一本で生きていく世界が機関
銃によって消え去ってしまった、というレクイエム的側面があります、こ
れは黒澤に影響を受けたペキンパーらしい黒澤に対するオマージュな
のかもしれません。
だとしたら、J・フォードを神様のように慕った黒澤が、そのフォードの
愛した「西部劇」に引導を渡すきっかけを作ったとも言えます、皮肉な
ものです。
「七人の侍」は、鉄砲の前には刀が無力であり古き侍達の終焉を暗示
しています、「ワイルド・バンチ」も本作「ラストサムライ」も、一つの時代
へのレクイエムという点で共通してると思います。