laisser faire,laisser passer

人生は壮大なヒマつぶし。
楽しく気楽につぶして生きてます。

静かなる存在感

2010-02-02 | kabuki a Tokio

壺坂

 

以前見たのは吉右衛門と芝翫だったか・・・とても好きな狂言だという印象が残っていたのだが。

いや、実際いい話ではあるんだけど、結構大事なポイントで記憶違いがあった。

メシイの澤市が自殺しようと思うところまでは覚えてたんだけど、あたしの記憶のなかでは飛び込む寸前に観音様登場!でお前も女房も信心深いから目を開けてあげよう!ってことで、にょうぼのお里が戻ってきたら澤市の目は開いていて、二人小躍り、めでたしめでたし。

と本当の芝居内容(澤市自殺。おさとも後追い自殺。そのあと観音登場。で、二人は息を吹き返し、澤市の目もなぜか見えるようになってる)よりだいぶ簡略化されていたのだ。

思うに、いい話だなあと思いながらもきっとあまりのご都合主義に「息を吹き返す」ところは脳内消去されていたのでは?と。

これ、冷静になってみれば、観音信仰のプロモみたいなもんですよねぇ。
観音様だからまだけっと笑って(実際息を吹き返した場面で場内から失笑が)済ませられるけど、これが○○教祖さまだったらしゃれにならん。

地味でひっそり暮らしてる夫婦が奇跡によって最後に幸せになるっていう主題は『吃又』とも似てるんだけど、吃又は曲がりなりにも自力の絵が奇跡を起こすんだけど、壺坂の夫婦はただ善良で信心深いだけだもんなあ。現代的な感覚からすると、やはり説得力に欠けるといわざるを得ない。

役者二人(三津五郎・福助)はとてもよかったのだけれど。三津五郎は想定内だけど、福助が意外なほど貞淑でしおらしい妻が似合っていて、よかった。ちょっと後方からオペラグラスなしで見たせいかもしれないが。

 

高坏

 

勘三郎の変貌をまたもや確認。

以前見た同じ作品ではやたら派手な音を立ててこれでもか、とタップのステップを踏んでいたし、笑わせどころもこってりしつこかったのに。

滑稽さはしっかり残しつつ、程よい笑いで、しかもタップはなんとも軽やか。リズムはあくまで正確ながら音は半減。きっとあんなに軽やかに静かに踏むほうが難しいんだと思う。踊りに関しては天才としかいいようがない。今の勘三郎に対して文句をつけろといわれたら、踊りに関しては(文句大好きなあたしなのに)思いつかないなあ。

感服。と同時に

 

数年前に博多?(忘れた。調べる気はない)で見た勘太郎の次郎冠者と比べて、勘太郎らぶのlavieは打ちのめされた。
勘太郎も花形としては踊り巧者だし、それほど悪い出来ではなかったと思うのだが、なんというか、桁が違う。

勘太郎は20年後、30年後、父親を超える軽やかな踊り手になりえるだろうか。なってほしいけど。

橋之助の高足売もよかった。踊りの手が丁寧できれいだし、なによりこういう「機嫌のいい」役はぴったりだ。

弥十郎の大名と亀蔵の太郎冠者は一通り。

 

 

籠釣瓶

 

夜の部の切。そして予想通りいちばんの見もの。

ここ数ヶ月マイ勘三郎ブームは続いているわけだが(そこに愛はない。ミーハーな部分は刺激されないらしい)まあ、これもまたてぇした役者だったわ。
見初めの場面といい、愛想尽かしの場面といい、そして大詰めの八橋殺しといい、すべて大げさな表現は最小限、以前見た次郎左衛門より格段に「大人」になったというイメージ。


見初めではよだれをたらしそうな表情だった以前と違って、ただ茫然自失で目がハートマークになってる感じ。
「宿へ帰るのがいやになった」の台詞回しは、先代そっくり(テレビでしかしらないけど)で、怖いほどだった。
愛想尽かしでは八橋の悪口をじっと耐えてる風情がまことに悲しげで男の哀愁を感じさせたのだが、そのうちにうつむいた背中から陽炎のような怒りが立ち上ってくるようで。いや、本当にオーラが見えたのよ。じっとしているのに、ほとんど表情は変わってないのに、悲しみから怒りへの変貌を感じさせるのはものすごい力量としかいえない。

そして何よりも殺し場。やたらオーバーアクションだった前回(襲名興行?)とは違ってむしろ淡々と、それこそ魔剣に操られるかのように八橋と、下女を斬ってのける。あまりにあっさりとしていて、一瞬物足りないような気すらしてしまう。

その後の剣を覗き込み、「籠釣瓶はよく斬れるなあ~」のせりふはたっぷりと。そして最後に自分が殺した八橋を見やって幕。

勘三郎があそこは抑えて、あそこは派手に、ともちろん計算ずくでやっていることなんだろうが、この役者のすごいところは、それが計算ではなく、ごく自然に、次郎左衛門になりきっているようにみせられるところだろう。

うまい役者はほかにもいるが、なんだかそれを超えてすごい役者になりつつある気がしている。

なんか毎回勘三郎絶賛してる自分に飽き飽きしてきた

そろそろけなさせてくれ~~~
媚媚こてこて芝居やってくれ~~~(うそだけど)

 

脇もそれぞれよかった。

脇といっては申し訳ない、片方の主役である八橋。
八橋という役、男ゆえに愛想尽かしをいってしまう、御職ではあるがちょっとおばかな女だと捉えているので、実は福助のほうが似合いだと思う。
玉三郎の愛想尽かしは本当に「あんたみたいな不細工嫌いなのよ」って感じがしちゃうんだよねぇ。情が薄いというか。
道中は圧巻の美しさ。ではあるがやはり口元からあごのあたりのたるみにお年が・・・だからばあさんはあんなにしわ描かなくていいって(前項ぢいさんばあさん参照)いったじゃん。

勘太郎の治六、安心してみていられる、と思ったのはつかの間。愛想尽かしの間、かなり長時間後ろ向きで正座してはいつくばってるのね。(今までの治六を凝視したことがなかったので、あんな格好してるのは初めて気づいた)。あんな、ひざに全体重がかかりそうな格好を長時間して、あんた大丈夫なのか。とどきどきしてしまった。こんなこと考えながら芝居を見てちゃ勘太郎に失礼なのは承知だが、そこは、愛があるからしょうがない。
そこの心配どころは抜きにすると、実直で主人思いという得意な役柄だから悪かろうはずはないんだけれど、せっかくの若さをもっと出してもいいんじゃないかと思った。八橋にくってかかるところとかもう少し迫力あってもいいんじゃ。玉さん怖いか、やっぱり

仁左衛門の繁之丞、もっといいかと思ったら意外と淡々と、色っぽくなかった。ニザさん本人はもうこういう役は飽きちゃってるんだろうな、と昼のぢいさんのノリノリ演技と比べて思ってしまったのだった。

よかったのは九重の魁春。情があって、そこそこきれいで、本当に次郎左衛門はどうしてこっちを選ばなかったのかしら、と思ってしまった。

釣鐘権助、芦燕でしか見たことがなかったような気がするんだけど、なんと弥十郎。悪さも啖呵のかっこよさも物足りない。ただ芦燕とは衣装が違ってた?茶系の着物に裏が濃い浅葱のような色で(濃い浅葱って形容矛盾ですね。色名がよくわからん。スカイブルーみたいな色)すごくきれいだった。座敷の装置も茶と青だったので、もっとめくって!と思いながら見てたのはあたしだけ?(弥十郎さんは脚線美だし)。

一人ひとり書き出すと切がないが、松嶋屋兄弟の立花屋主人夫妻から太鼓もちの橘太郎山左衛門、芸者の京蔵芝のぶ、やり手の歌女之丞などに至るまでひとりひとりがさすがの面子で、手抜きのない芝居。下女の国久、若いものの国矢はこの芝居で名題披露?国久はいい役だったけど、国矢はもう少し大きい役をやらせてやりたかった。そういえば博多での勘太郎タカツキでは太郎冠者に抜擢されていていい芝居をしていたなあ。

まあ全員好演だったということで、勘三郎の名演もこれでこそ引き立つというもの。

この日、ハエは見なかったけど、当代のこの充実振りを見て、先代はもう安心しきって出てこないかもしれないね。

次出てくるのは勘太郎の勘九郎襲名だったりして。

 

 


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