laisser faire,laisser passer

人生は壮大なヒマつぶし。
楽しく気楽につぶして生きてます。

玉男、越路、若き清治・・・かつて、文楽はいい男の宝庫だった!

2011-03-29 | spectacles

恵比寿、写真美術館ホールでシネマ文楽(っていうのか?)『冥途の飛脚』見てきました。お江戸で観劇っぽい活動をするのはなんと今月初めて。
不安材料はなくなるどころか増えるばかりですが、とりあえず平常心を装ってみるw
すごく楽しみにしていた杉本文楽が休演になっちゃったので、その埋め合わせって感じでもあります。

冥途の飛脚というのが、封印切や新口村のもともとのオリジナルだと知ってはいたのだけれど、ここまでストーリーが(特に封印切までの部分)違うのかとまずはびっくり。
歌舞伎の封印切だと、これでもかこれでもかと八右衛門にたきつけられ、男の誇りと梅川への愛がずたずたになって、ぎりぎりのところで封印を切っちゃう・・・って感じで、まあだめ男なりに、忠兵衛にも同情すべき点はあるように描かれているのだが、冥途・・・での忠兵衛、これ、だめでしょう。

そもそも前段の淡路町の段でも、友人(八右衛門)をごまかして商売の金を梅川の身請け金に横流し、それを義理の母親にばれそうになって、八右衛門の優しさで救ってもらうというていたらく。そのあげくに、急な仕事で300両という大金を懐にいれたとたんに、行こか戻ろかした末に梅川に会いに行っちゃうってんだから救いようがない。

封印切の場面では言ったこっちゃないってか、そんな大金持ってるせいで、ほんの少し八右衛門に意見されただけで(それも至極筋の通った意見)、「金もっとるわい!」とばかりに勝手に封印きっちゃうし。切れてるのは封印じゃなくてあんたの頭だよ、といいたくなる。

これ、やっぱい文楽でも歌舞伎から逆輸入ヴァージョンの封印切のほうを多く上演するようになったの、わかるわ。

いくら文楽の男にだめだめが多いといっても、これは論外でしょ。
もう、見ていてイライライライラ。
忠兵衛さえいなければ梅川だって死なずにすんだし、意外と八右衛門に身請けされて幸せだったかもしれないのに。
忠兵衛さえいなければ、年老いた孫右衛門だって、あんな悲しい思いをしないですんだかもしれないのに。

そうそう新口村は割りと見慣れたパターンでしたが、これも原作だともっと衣装は小汚いし、雪じゃなくて雨だったりして、最後に忠兵衛は捕まっちゃうんだってね。新口村に関しては文楽でも原作どおりはほとんど上演されなくなってるとか。
これもわかるわあ。あんな酷い忠兵衛のせいで、泥まみれになって逃げ回る梅川なんて見たくないもんね。

えっと、筋はそんなわけで、珍しい面白さを除けば絶対歌舞伎版、というか現行の恋飛脚大和往来のほうがずっと出来がいいと思ったのですが、そんなものは実はどーでもいい、というくらいにすばらしい演者陣でありました。

淡路町の段を演じた現綱大夫の若さ、封印切の越路大夫の美声、新口村の現住大夫の芝居心。三人の義太夫語りが本当に絶品。なかでも初めて動いてるところを見た越路大夫は、特にくどくど語りこむjわけでもなく、本当に素直に語ってるだけなのに、こちらの心にまっすぐ入り込んでくる声質で、ああ、やっぱり名人といわれるだけはあるなあ、と感動した。そして、越路さんに抜擢されて合い三味線をやっていた若き日の清治さんの天才っぷりにも惚れ惚れ。三味線の世界で天才だと思うのは今のところ清治と梅吉だなあ。好みはあるだろうけど。
越路大夫のあとで聞くと、住大夫がよくインタビューなどで「私は悪声ですさかい」というのがああこういうことか、とうなずけた。決して声に恵まれていた人ではないのだな、と。だからこその彼一流の芝居心、なんとも言えぬ間が生まれたのだ、とも。

人形遣いではなんといっても玉男。もう超おじいさんになってからの彼しか知らなかったのだけれど、壮年?初老?の玉男の色っぽいこと!いやはや人形だけじゃなくて、人形遣いもやっぱり顔が命、かもね、なんて思ってしまった。
そして品がある。ダメダメ忠兵衛を演じていても芯が通っている。
梅川の蓑助はいい意味で今と同じ。あの色気は天性のものなのね。
八右衛門と孫右衛門をともに使った勘十郎、やっぱり息子と同じ悪人面だけど、息子が悪徳政治家っぽいのに比べて、やくざの親分的雰囲気。ふとしたときの表情がそっくりなのはなんだか懐かしかった。息子を知っていて親父をみて懐かしいって言うのもへんな話だがw
個人的にごひいきさんの玉也さんもちらっと映ってうれしかったけれど、玉也さんは今のほうがずっと素敵!!!

…と、いろんな意味で勉強心もミーハー心も刺激され、とりあえず東京暮らしのリハビリスタートとして楽しめました。

しかし1979年ですか!
なんかそんな昔に感じないけれど、30年以上経っているのですね。主遣いの2/3、三味線の2/3、義太夫の1/3はもういないのだから。

ところでこちら、正確にはカナダ人製作の外国映画なのだがタイトルが「THE LOVERS’ EXILE」
うーむ。そう訳すか。やっぱり冥途の飛脚って、いいタイトルだなあ。
興味のあるかたはこちらをどうぞ。4/1には監督のアフタートークもあるみたいです。

画像は忠兵衛を遣う玉男。ね、いい男でしょ?
タイトルは勉強心ゼロ、ミーハー心100になっちゃいましたw


ありがとう

2011-03-25 | kabuki en dehors de Tokio

博多座に来ています。

画像は博多座の外に設けられた、花びらに感想を書き込むボード。「博多桜」と名づけられています。もちろん書いてませんがw

ようやく昼の部を全部みたので、全体の感想をほんの一言ずつ。

磯異人館

これ、やっぱり勘七のあたり狂言になるかもしれない。内容のよしあしはともかく、勘太郎七之助のそれぞれにとても合った役だから。五代の猿弥、周三郎の松也も含めて、この座組だからこそ狂言も引き立っている。

吉野山

橋之助初役なんだって?すごく意外。
そしてかなり好きな忠信でした。若さと円熟のバランスがとてもいい感じの時期になってきたという感じですね、橋之助。扇雀も品があってよろしい。亀蔵の藤太にはもう少し愛嬌があっても。

俊寛

正直、途中まで爆睡してしまったのだが、橋之助の泣き虫俊寛、彼ならではの味わいがあって、個人的には吉右衛門俊寛の次くらいに好きかも。
ほかには松也の少将と七之助の千鳥が大人の役者になってきたなあという頼もしさを感じさせ、勘太郎の基康はすでに風格さえ感じさせる。弥十郎の瀬尾は手馴れているが、いささか憎憎しさを強調しすぎか。

 

棒しばり

じつは昼夜のなかでいちばんつまらなかった。面白くないわけがない仕立ての狂言なのに、猿弥も七之助もお疲れ?次郎太郎が生き生きしてないとここまで面白くないのか。

 

夏祭浪花鑑

 

今回のタイトルはやはり団七を演じた勘太郎にささげたい。

とにかく後半にかけて畳み掛けるように盛り上がっていくさまは半端ではない。

大詰めの演出も一部勘太郎に向けて変更されており、(あるいは震災後に向けて?とも考えた)、追い詰められて一度あきらめてから、再び立ち上がっていくさまが実にこの役者に似合っている。

大ラスの祭囃子での踊りは、すでに神がかっているというか、正直きち○い入ってる?くらいの迫力だし、放射能や余震でヨレヨレになっているよわっちいlavieに「人は何度でも立ち上がれる」というストレートな励まし、というか感動を送ってくれた。

まさか夏祭りで泣くとは思わなかったわ。

 

この芝居を見られただけで、ヨレヨレになりながらも博多まで飛んできてよかった。本当にありがとう。

 

さて、これから楽です。

中村屋名物の楽の大騒ぎも、今回ばかりは素直に楽しもうと思っています。


非日常が日常

2011-03-20 | kabuki en dehors de Tokio

数日前から奈良(前項の写真、ルシャナブツに祈ってました)京都に来ています。

地震と原発から逃げて・・・というわけではなく(いや、正直に言えば半分そういうのもあるが)、もはやあたしにとって日常に欠かせない存在になっている芝居を見に来たのである。

南座おもだか公演、今月は段治郎が休演なので、見に来る予定はなかったののだが、演舞場(あたしが予定していた公演)、国立、すぎもと文楽と立て続けに休演が決まってしまい、芝居以外にたいした仕事も用もない暇人は、鬱々と家に閉じこもるはめになってしまい、「これじゃ鬱々じゃなくて本物の欝になる!」とばかりに芝居を求めて西下したのだ。

南座の天井桟敷に腰を下ろして定式幕を眺めていると不思議と落ち着く。つくづく芝居を見ているときが自分にとっていちばん平和になれる瞬間なのだなあと再確認。

肝心の芝居『獨道中五十三駅』は名古屋・東京で見た段治郎とのダブル主役ではなく、右近が段治郎が演じていた役もやっているため、まさに八面六臂の大活躍。後半の12役早替りも含めるともう、どこを切ってもウコンウコン。ウコンの力状態である。たぶん初演の猿之助ヴァージョンもこうだったのかな。見ていないのでなんともいえないが、猿之助なら説得力があったかもしれないが、ウコンの力ワンマンショーは正直ちょっと退屈だった。

まあいいんです。久々にツケや太棹三味線の音を聞けただけでちょっと落ち着いた。

24日からは予定通り博多に行くつもり。その前に22日は演舞場に行く予定なので、いったんお江戸に戻ります。やってるよね?

さて、お江戸は少しは落ち着いただろうか?というよりむしろ、lavieさん、少しは落ち着いたでしょうか?


東風吹かば・・・

2011-03-08 | voyage

ポルトガル帰国翌々日から一泊二日の福岡弾丸ツアーに出かけてまいりました。

感動の団七初役レポは近日中に別にアップする予定ですが、とりあえず春っぽい写真を何枚かアップ。

大宰府の梅、五分咲きっていうところかな?寒かった・・・東京に戻ってきたらもっと寒かったけど。

 

 

京都から道真を慕って一夜にして飛んできたといわれる飛梅、そんな力があるならカリヤ姫も一緒に連れてきてやればよかったのに、と歌舞伎ファン的には思っちゃいますが。そんなことできたら『道明寺』成立しなくなっちゃいいますもんね。

 

境内ではなんとかさんという現代美術作家(イギリス人?)の作品展もひっそりと。広い境内にいくつかの作品が点在しているほか、宝物殿で展示(こちらは撮影禁止)。境内の印す多レーションも本当にひっそりして、神社さんになじんでいるというか、埋もれているというか。そのうち二つほどご紹介。意味は・・・パンフレットをろくに読んでないのでよくわかりまへんw

 

 

こちらは現代アートではないけど面白かったので。
石段に梅の彫り物。いつごろからされてるんでしょうね?

 

トイレに入るのに一瞬逡巡した自分が悲しい・・・

 

実は大宰府に行ったのは梅目当てというよりこちら目当てでありまして。
梅は梅でも梅の実ひじき。これ、熱々ごはんにはもちろん、単体で酒のつまみに、サラダのトッピングにもよし、パスタにあえてもうまい、と実に使い勝手のいいヘルシーウマウマ食品なんです。大量に買って冷凍しておけばさして風味劣化もしない。
でも、よーく考えたら福岡⇔大宰府って往復780円。ひょっとして送料のほうが安かったりして?

まあいいでしょ、ついでに?梅も見られたし。

…って結局春の大宰府も食い物と下ネタと、lavie風味の展開になっておりますが。

最後にお口直しってことで


one rainy night in Hakata

2011-03-06 | kabuki en dehors de Tokio

<携帯から1>博多は雨だった。
今棒しばり終わりです。
いよいよだあ!



<携帯から2>終わりました。
いろいろ感じたことはありますがとにかく大詰でやられました。
くわしくは帰京後に。
明日も見ます。

<数日後>

とりあえず感想書きました。

今回、夜の部だけの観劇予定だったのですが、幕見があったので、昼の部「磯異人館」のみ幕見しました。

磯異人館

 

数年前にほぼ同じ顔ぶれで見たときは、勘太郎七之助の熱演がくだらない脚本でもったいない!と思わされたのだが、今回、これ、わりといいんじゃないの?と思ってしまった。

ご都合主義の展開の物語はそのままなので、たぶん役者(主役の兄弟二人に加えて、猿弥や松也ら)が成長して、物語の展開の強引さより、魅力的な芝居を見せてくれるようになったのだと思う。

意外とこの芝居、勘太郎七之助の当たり狂言になったりするのかも、と周りで鼻をぐずぐず言わせてる人たちを観察しながら思ったりもした。なによりわかりやすいしねぇ。

 

夜の部・棒しばり

 

本来なら勘太郎・猿弥・亀蔵の座組みだったのが、勘三郎休演のあおりで猿弥・七之助・亀蔵に。
猿弥の次郎冠者は、いい意味でも悪い意味でも軽い。体重は十分あるはずなのに、軽い。これを軽妙と見るか、物足らないと見るかは主観によるのかな。
個人的には嫌いじゃなかったが、七之助の太郎冠者(これは体重も芸質も軽い)にはもう少しがっつり次郎が踊りこんでくれたほうがバランスがいいような気もした。
亀蔵、こんなに踊り下手だっけ?とびっくりするほど下手だった。役者の踊りでびっくりしたのは笑也以来だ。下手だと怒るまえに、ただただびっくり。

 

夏祭浪花鑑(容赦なく長文ですw)

 

博多遠征はしない予定だったのに、ただただ勘太郎代役団七見たさに急遽の遠征、しかも前後二回。期待するなというほうが無理でしょう。

今回の遠征では二回見ましたが、とりあえず感想はまとめて。

どうしたって、眼に焼きついているのは(好みか好みじゃないかにはかかわらず)勘三郎の団七なわけで。

どうしたってそこと比べつつ見てしまうわけで。

正直、最初の出から住吉まであたりは、少し物足りなかった(特に一回目)。
出てきただけで周りがぱっと明るくなるような勘三郎の華(この言葉あまり好きじゃないんだけど、ほかになんと書けばいいのかわからん。オーラとも違うしなあ)は勘太郎には感じられないし、むしろ、群衆に埋もれている中から知らず知らずにひきつけられていくのがこの役者の魅力だと思ってるんで、こういうわかりやすいヒーローっぽい役はどっちかというとニンじゃないんだろうなあ、などとちょっと辛い思いで見てしまっていた。

いわゆる「つかみはOK」じゃなくて「つかみNG」じゃないの?とか。
あちこちで聞いていたほどに空席があったわけじゃないけれど、なんとなく客席もあたたまっていないというか。

これがですねぇ・・・三婦内で、義平次が琴浦をかどわかしていったことを知って♪長町裏へ~~~となるあたりから、もう尋常じゃない変身っぷりというか。
すそをからげて長町へと駆け出していく際の見得の美しさ、腰の割り方の完璧さ・・・そして全身にみなぎる男の色気。これは只者じゃないなあ、と改めて確認。

その後、泥場はもう神がかり的な恐ろしさ。勘三郎のような様式美ではなく、本当に殺しあってるんじゃないの?と思わせるほどの迫力。相手の笹野も、勘三郎とのときの過剰な表現ではなく、ちゃんと勘太郎団七に合わせたリアルな立ち回りをしてるのはさすが。
勘三郎の泥場を「夏の夜の悪夢」と表現したNYタイムズの記者が勘太郎版の泥場を見たら、なんと評するだろうか、見せてあげたい!と思うほどの、「凄絶」としか表現できないほどの恐怖の美の極致なのであった。

打って変わっての九郎兵衛内での舅殺し以降の腑抜け状態の団七。ここがまた見事な心理描写で、勘三郎団七と一番くっきり違ったのはこの部分かなあ、と。
内省的というか、昏い(暗い、ではない)団七がこんなに魅力的だとは。勘三郎がどんなに芸を磨いてもこの昏さは出せないのだろうなあ、と、親子で、すべての芸をなぞっているはずなのに、役者の味の違いって出てくるのだなあと。だからこそ同じ演目を飽きもせずに見られるんだろうなあ、と当たり前のことをいまさらのように確認。
この場の団七、個人的には白眉でした。

そして、そして、もう大感動の大詰め。白眉のあとの大感動ってどっちが上なんだ、と突っ込まないように。どっちもすごかったんです。

基本的には串田版夏祭の立ち回りを踏襲、つまり最近見慣れてる中村座での勘三郎団七と同じパターンなんだけれど、泥場と同じで、様式化された美しい丸い動きの勘三郎立ち回りに対して、あくまでリアルで(もちろん所作は美しい)、直線的シャープな勘太郎立ち回り。年齢の違い、体質の違い、表現の違い、すべてが、同じはずなのに違っている。
親の芸をなぞれているだけで初役としては合格なんだが、そこを見事にクリアしつつ、親とは違った味を(意識的には無意識にかはわからないが)はっきりと打ち出している、これはもう、大絶賛に値する出来ではないだろうか。

と、いいつつ正直ここまでは割りと冷静に見ていたのですよ。
「いいところも多いけど、不満もあるよなあ」みたいに。

 

最後の最後に、もうやられちまいました。

(串田版のラストは毎回楽しみにしている人がいると思います。どこからか迷い込んできてここを読んでいらっしゃる方で今後観劇予定のある向きは、ここからは完全ネタバレしてますんでご用心ください)

 

今までの串田版のラストは、たいてい舞台後方があいて、外界に開け、そこを団七と徳兵衛が突破して別の世界に出て行く~みたいのが定番だった。劇場空間の制限で逆に突破できない閉塞感を表現した中ではベルリン版のベルリンの壁っぽい表現が好きだったけれど、勘三郎団七にはやっぱり軽やかな「外界への脱出」が似合っていたと思う。

今回、もちろん博多座はビルの二階以上に舞台があるわけで、外に出て行くのは不可能ってわけで「閉塞感」ヴァージョンの終わり方だったわけだが、それがさっきから述べている勘太郎団七の昏さに実にマッチしていて、それだけでも満足だったのだが・・・

これは勝手に串田からの勘太郎へのオマージュだと解釈しているんだけれど・・・

壁を打ち破れずにどうしようもなく焦燥している団七たちの耳に、どこからともなく、夏祭の囃子が聞こえてくる・・・

囃子が耳に入って、絶望の表情が、恍惚へと変わり、勝手に体が動き出し、踊りだし・・・その表情のまま祭囃子にあわせて踊り狂いながら舞台中心へ。そしてストップモーション。チョン。

赤い靴を履いて生まれてきた男、足が壊れるまで踊り続ける男、勘太郎にしか表現できない団七の幕切れがそこにあった。

ここにおいて、勘太郎団七は勘三郎団七とはまったく違う、オリジナルの団七として確立されたのだと思う。

なんてのは後付の理屈でして。

祭囃子にあわせて狂ったように踊っている勘太郎を見ながらただただ呆然、ただただ感動、ただただ驚愕、という感じだったのでした。

勘太郎の舞台でよくある反応なのですが、拍手がなかなか起きない。客に拍手する隙を与えない。これって役者(特に歌舞伎役者)としてはどうなの?と思うこともあるのですが、今回ばかりは拍手なんてさせちゃうようなそんな安い(とあえて言ってしまいます)芸じゃない、そんな役者じゃなくてよかった、と思いました。

とにかく勘太郎の団七を見られただけで満足だったのですが、脇もまた全員いいです。

最近の中村座芝居では、やりすぎで大嫌いだった笹野の義平次も、勘太郎ヴァージョンのほうがずっと好きだし、橋之助の徳兵衛がさすがの大きさで、かといって勘太郎と兄弟仁義を結んだといっても不思議はない若々しさで、実は勘太郎とのコンビのほうがつりあいも取れてるんじゃ?などと思ったり(ただ、背丈も顔も似ているので、時々どっちがどっちかわからなくなる瞬間がw)。
扇雀七之助新悟歌女之丞の女形陣もそれぞれに安定。
何より感心したのは松也の磯之丞。物語の中心をなしていながら、その自覚がいっさいないブラックホール的存在の若様を、実にいい感じの「浮き方」で表現していて、歴代のどの磯様より磯様だったと思う。
勘三郎ヴァージョンで、勘太郎の持ち役のひとつだった捕り手頭にいてうが抜擢され、見事な立ち回りを見せる。しかし、同じ拵えをすると、勘太郎とあまりに酷似していてあらためてびっくり。双子だよまるで。(大きさ違うけど)。

 

時差ぼけのままのへろへろのよれよれで博多に飛び、どうなるかと思いましたが、夏祭の勘太郎登場場面では(ほかの場面は・・・wですが)一睡もすることなく、ずっと楽しい緊張感で見られました。

脚を引きずりぎみだったり、声がちょっとかれてたり、強行スケジュールで心配なこともたくさんあるけれど、もうこの人の「死ぬまで踊り狂う」役者馬鹿っぷりを見届けることに専念して、余計な心配はしないことにしましたよ。

あああああ。行ってよかった。

後半にも行くので更なる進化・深化を遂げた勘太郎団七に再会するのが楽しみでならない。

今唯一の不安があるとすれば、勘太郎団七に魅力がありすぎて、「戻ってきた勘三郎団七」がつまらなく感じちゃわないか、ってことくらいかな。

まあ勘三郎のことだから、息子ががんばれば、それに負けじとまたパワーをためて戻ってくるんだろうけれど。それはそれで楽しみ、(ということにしておこう)。

 

 

 

 


どもども。

2011-03-05 | monologue

昨日無事?帰国しております。?がついてるのはちょっとトラブルもあったからで。

まあいずれ詳しく?書きます。?がついてるのはきっとめんどくさくなりそうだからで。

本日夕刻、風呂に入っていたら急激な睡魔に襲われ、次に意識が戻ったときは金縛りになっていました。なんとか動けるようになりましたが、正直あせった。昔の焚きっぱなし風呂で泥酔して入浴中にゆでられちゃって死亡、ってのはこういう感じなんじゃ?とか思ったり。

いずれにしても時差ぼけ中の入浴は要注意ですね。

そんな時差ぼけ真っ只中、ジェットセッター並みに、明日早くも明太子の地に飛びまする。

時差ぼけの強烈睡魔に打ち勝つ新米パパ団七が見られるでしょうか?

ポルトガルレポより、たぶん博多レポが先になるでしょう。