強風のあおりか、他社便、ANA便ともに欠航相次ぐなか、奇跡的に予約していた便が10数分の遅れで飛びました。けっこうゆれたけどね。
同じ便に役者やスタッフ多数。はっきり視認できたのはしどー(スーパーシートね)、さくじゅーろー、かんのじょー(我らがエコノミーね)くらいだけど。
カンタはもちろん、さとぴーと隣席になるなんていうのも夢のまた夢だったわ。
…てなことはどうでもいい、のか。
じゃ、昼の部のカンタの挨拶の話。
「勘太郎のご挨拶、まもなくです」
低いトーンのあの声は・・・知る人ぞ知る、知らない人はだれも知らない(博多座は知らない人率高かったみたい)、『世界遺産、まもなくです』のアレです。
せっかくセクシートーンで始まったのに、出てきたら博多山笠スタイル、というより、「荒れる成人式スタイル」だって紋付羽織袴に赤はちまき、サングラスだよ!
荒れる成人式に見えるところ、まだまだお若いとだけ言っておきましょう。
三階席の立ち見客(朝5時から並んだらしい)に「愛しとーよ!」とこの一ヶ月中州や大名で何回言ったかわからないお言葉を投げられておりました。
あたしは、「勘太郎のご挨拶、まもなくです」と高坏の満面の笑みと蜘蛛の糸の後ずさりが見られただけで、ほかの不満は帳消しにすればいいんだと思います。
はい、明らかに芝居の感想を後回しにしてますね。
書きたくないようですね。
本当に簡単に、自分用のメモとして書きます(すなわちいつもにもまして、他人がどう思うかは無視してます)ので、気に入らない部分は読み飛ばしてください。
月初めに観た時のわりとまともな?感想はこことか、こことか、こことかからどうぞ。
千本桜
七之助、お柳はかなり手の内。典侍の局は、力みすぎ。いつからこの人力みすぎる癖がついちゃったんだろう。
獅童は、すっかりダメ。なんなんだろうこのだめっぷりは。前半のしおしおっぷり、後半の大劇画調の、七もびっくりの力みっぷり。
それに引換え、亀鶴・愛之助の気の抜けっぷり。
メリハリじゃなくて穴ぼこだらけの芝居だった。
男女蔵の引っ込みだけが力感あふれていてよかった。おめちゃん、今月見せ場あそこだけだもんねぇ・・・
これが酷い!と思ったらもっと酷いのがあったんだけどさ。
高坏
なぜかこの演目は、みんな粒が揃っていて、きちんと自分の場をこなしている。
亀鶴の大名にもう少しおおらかさが欲しいけど、七之助の、今までにはないあっけらかんとした滑稽味など、収穫も多かった。
特筆すべきは、抜擢に応えた國矢。踊りが巧いひとだとは思っていた(団子売を見たことがある)けど、色気のある踊り手さんです。
勘太郎は最後まで父親なみの馥郁とした色気には到達しなかった。でも、26歳の高坏としては十分合格点かと。
ただ、あたしは勘太郎の踊りならほかのものをもっともっと見たいので、これはあと10年は封印してくれていいです。
団子売
千本桜でも思ったけど、愛之助に覇気がない。
踊りの巧拙じゃなくて、なんとなくお疲れ?
亀治郎は、本当に巧くて臭い。
踊りの名手新旧という意味で、三津五郎勘三郎とついつい比べてしまうのだが、
踊りのタチは、亀が勘三郎でカンタが三津五郎なのよね。カンタは勘三郎の息子なのに。不思議だ。
車引
結局この一幕が博多座で唯一歌舞伎座レベルに達していた演目だと思う。
今月歌舞伎座でも見たが、桜と梅王に関しては、歌舞伎座以上の好演、力演。
勘太郎の数年前の梅王に比べて、格段に声のコントロールが進歩している。喉が弱い人だけに、声のコントロールができるようになったのは力強い。
ほとんどの人(特に獅童)が喉をやられていた中、勘太郎と亀治郎が一応のどの調子を保っていたのはさすが。
脇(いてうや男女蔵)がもうひとがんばりしてくれればねぇ。
松王は、まあ、あんなもんでしょう。
鳴神
これが、もうびっくりするほど酷かった。
ナニをどうやったらここまで凄くなっちまうのか、とあきれかえるほど。
あまりに酷くて、ときどき退場しようかと思っいました。
通路際じゃなかったので我慢しましたけど。
我慢しながらいろいろ考えました。
たぶん今月中に別エントリーで語ります。ので、細かい酷さについては
語るとすれば(語らないかもしれない)そこで。
蜘蛛なんちゃら(最後まで正確に書く気がないらしい)
これはもう、亀ちゃんショーですから。
そう思えばよく出来ている。
芝居としてはまったく成立してないけど。
亀ちゃんのフンガフンガぶりと脇役の熱の入らなっぷりの対比がおかしい。
鳴神とこの芝居を続けてみて、「歌舞伎と大衆演劇の境目」ということを
つらつら考えました。
「歌舞伎と大衆演劇の境目」についてのlavieの繰言、まもなくです。
(わかりますね、どのタッチで読めばいいのか?)
画像は博多座プログラム(表紙かわいい!)の上のアレ。文句言いながら持って帰ったのか自分!
2/25こっそり追記。わざわざ別項立てるほどのことでもないので。まじめに論ずるのもなんだかなーだし。
歌舞伎と大衆演劇の境目~博多座の舞台と客席ウォッチング~
最初に言っておくが、歌舞伎は十二分に大衆芸能であるし、またそうあるべきだと思っている。
高尚な芸術の部分ももちろんあるだろうが、基本的には誰にでも分かりやすく、ばかばかしいところが好きだ。
ただ、現在言われているところの「大衆演劇」とはやはり一線を画すべきだと思ってもいる。
どちらが上下ということではない。
「THE カブキ」として、世界遺産にも登録され、ある程度とはいえ国家の文化保護政策下にある存在として、そして何よりも一子相伝の名の下に血縁関係を重視、優遇し続ける体制があるところなど、通常の大衆芸能とは明らかに一線を画している部分が歌舞伎にあることは否めない。
そして、そういう御曹司システムや、「世界遺産」というご大層な冠を被っている以上、最低限クリアすべき品とか格とかってあると思うのだ。
先月の演舞場鳴神(後半)の海老蔵芝雀に、その品格を踏み外す一歩手前の危うさを感じた。(感想はこちら)
今月楽の博多座、まったく同じ鳴神で、はっきり歌舞伎としての枠を大きく踏み越え、悪い意味で大衆演劇に堕してしまったと感じた。
博多座の愛之助七之助による鳴神は、高貴な上人の激烈な怒りをなだめようと計る宮中から使わされた才色兼備の姫、にはまったく見えず、
うらぶれた中年のおっさんを色仕掛けでたらしこもうとする金めあてのキャバ嬢にしか見えなかったのだ。
結果として、ある意味非常にわかりやすい展開で、一部の客には非常に受けていたようだ。
「わかりやすい」「客受け」。
これは確かに大衆芸能には必要な部分である。
だが、「それだけ」を目指すのであれば、歌舞伎である必要はない。
色仕掛けの部分はエロチックにやってくれて構わない。
ただ、それはそれぞれの役者のハラがきちんと出来ていて、立っているだけで「高貴な上人」「宮中一の手弱女」に見えることが前提条件ではないだろうか。
博多座の両優は、残念ながら、受けを狙うあまり、役の性根を取り違えてしまっているようにしか見えなかった。
後半あたしの目の前に展開されたのは、松竹歌舞伎ではなくて、松竹新喜劇の舞台だったようにすら思えたのだ。愛之助がマジ、寛美に見えたもの。(七之助は直美には見えなかったけど)。
たとえば勘三郎がどんなにおちゃらけた芸を見せても、その下品っぷりの底には、きちんと完成された芸が透けて見える。
勘三郎の芸が好きとはいえないあたしだが、彼の古典歌舞伎は、一度も「歌舞伎」から堕したことはない。(新作という名のお遊びは例外あり)。
芸も出来てない花形が、客に煽られて、とんでもない方向に進んじゃってる、
残念ながら博多座楽の鳴神はあたしにはそうとしか見えなかった。
浅草と違って、幹部もめったに観に来ないだろうから、修正もしてもらえないんだろうな。
で、実はこれまでこの座組のなかでいちばん「大衆演劇」のにおいを感じていたのは亀治郎なのだが。
予想通り、亀治郎座長(座頭というより座長だわな、どうしても)の蜘蛛の糸なんちゃら、これは明らかに大衆演劇だった。
でも、これはこれでいいような気もする。
元はあるとはいうものの、かなり改ざんがくわえられて「亀治郎の、亀治郎による、亀治郎のための」ほとんど新作になっちゃってるわけだし。
鳴神のように、歌舞伎十八番を大衆演劇に改ざんしちゃったのとは意味が違う。
しかも、亀治郎は意図して「大衆演劇」をやっている(たまに勘三郎が見せるテクニックだね)と思われるのに、愛之助と七之助は、勝手に客に引っ張られて「大衆演劇」になっちゃってるとしか見えないところが根本的に大きく違うのである。
最後に、客に引っ張られる役者が悪いことは大前提の上で一言客にもいいたい。
なんでもかんでも拍手すればいいってもんじゃないよ!