錯乱坊の彷徨える日々

フィールドでの出会いに癒しを求めて…

桜島爆発記念碑

2021年12月25日 | 歴史探訪
皆さん、こんにちは。
予告していた通り、昨日は15時30分に鹿児島北ICから九州自動車道を利用したルートで無事に帰宅しました。
そして、昨日の話に戻るのですが・・・・
ホテルをチェックアウトして車に乗り込んだものの鹿児島(大隅半島)は朝から雨。
それもお昼を過ぎた頃から本降りの雨に変わるという予報。
ならば、その前にと桜島の中にある桜島市立東桜島小学校へと出かけてきました。


で、その学校を訪れた目的はと言うと・・・
この桜島市立東桜島小学校のグランドの隅には大正噴火を教訓とした桜島爆発記念碑なるものが建てられているのです。
そう、別名を〖科学不信の碑〗と呼ばれている石碑です。
表には大きく『桜島爆発記念碑』と掘り込まれていますが、その裏には・・・・


大正噴火による島民避難の経緯と、それを教訓とした戒めが掘られています。
その全文が👇これです。

大正三年一月十二日櫻島ノ爆發ハ安永八年以来ノ大惨禍ニシテ全島猛火ニ包マレ火石落下シ降灰天地ヲ覆ヒ光景惨憺ヲ極メテ八部落ヲ全滅セシメ百四十人ノ死傷者ヲ出セリ
其爆發數日前ヨリ地震頻發シ岳上ハ多少崩壊ヲ認メラレ海岸ニハ熱湯湧湯シ旧噴火口ヨリハ白煙ヲ揚ル等刻刻容易ナラサル現象ナリシヲ以テ村長ハ數回測候所ニ判定ヲ求メシモ櫻島ニハ噴火ナシト答フ故ニ村長ハ残留ノ住民ニ狼狽シテ避難スルニ及ハスト諭達セシカ間モナク大爆發シテ測候所ヲ信頼セシ知識階級ノ人却テ災禍ニ罹リ村長一行ハ難ヲ避クル地ナク各身ヲ以テ海ニ投シ漂流中山下収入役大山書記ノ如キハ終ニ悲惨ナル殉職ノ最期ヲ遂ゲルニ至レリ
本島ノ爆發ハ古来歴史ニ照シ後日復亦免レサルハ必然ノコトナルヘシ住民ハ理論ニ信頼セス異變ヲ認知スル時ハ未然ニ避難ノ用意尤モ肝要トシ平素勤倹産ヲ治メ何時變災ニ値モ路途ニ迷ハサル覚悟ナカルヘカラス茲ニ碑ヲ建テ以テ記念トス

大正十三年一月
東櫻島村



それでは、この碑文を現在の文字に直したものが👇こちら・・・

大正三年一月十二日の桜島の爆発は安永八年以来の大災害で全島が猛火に包まれ、噴石が落下し、降灰が天地をおおい、その光景は凄惨を極め、八つの部落を全滅させて百四十人の死傷者を出した。
この爆発の数日前より、地震が頻発し、山頂には多少の崩壊が認められ、海岸には熱湯が吹き出し、旧噴火口から白煙があがるなど、刻刻と容易ならざる現象があったため、村長は何度も測候所(※現在の鹿児島地方気象台)に判断を求めたものの桜島は噴火なしという回答であったため村長は残っていた住民に狼狽して避難するに及ばないと伝達した。
しかし間もなく大爆発が起き、測候所を信用した知識階級の人がかえって災難にかかり、村長一行は難を避ける場所もなく、各自海に飛び込み漂流する中で山下収入役や大山書記などはついに悲惨な最期を遂げるにいたった。 
本島の爆発は、古来の歴史にてらせば、後日また免れないことは必然である。
住民は理論を信頼せず異変を認知する時は未然に避難の用意をすることをもっとも肝要とし、平素から倹約・貯金し、いつ災害にあっても路頭に迷わない覚悟をしなくてはならない。
ここに碑を建て記録とする。 

大正十三年一月
東桜島村

そして原文の中で『理論ニ信頼セス』という一文は、これを執筆した当時の鹿児島新聞(現在の南日本新聞)の記者が忖度したのか測候所(鹿児島地方気象台)ではなく理論と変えたことで、この碑が『科学不信の碑』と呼ばれるようになった。
しかし、この文面の経緯は別にして・・・
昨今に頻発する自然災害に関しても、発令される避難の勧告などはあてにせず『日頃から災害に備え、少しでも危険と感じたら直ぐに自らの命を守る行動をとらなければならない』という警告として感じるのは私だけだろうか・・・

長文でありながら最後までお付き合いをいただき、ありがとうございました。

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