錯乱坊の彷徨える日々

フィールドでの出会いに癒しを求めて…

御朱印

2024年05月19日 | 歴史探訪

昨日は朝から天気に恵まれてお出かけ日和。
そんなこともあって何かしら美味しいものでも食べようかと山(阿蘇・久住)へと向けて車で出かけたものの途中で予定を変更し熊本市内へと向かった。
で!
その目的の場所はというと…
はい、熊本の象徴とも言える熊本城。
しかーし!
皆さんも既に周知の通りで2016年4月に発生した熊本地震による復旧工事で入場制限があり、天守閣の勇姿が間近で見られるのは二の丸広場や加藤神社から…


そこで昨日は復旧のために櫓で囲まれた宇土櫓の横にある加藤神社を訪ねた。
ちなみに混んでなければ参拝者は車で入れる。
で、その鳥居前で会釈をし社殿へと向かうと…


加藤清正に扮したくまモンがお出迎え。
そして、これまでの細かい作法は割愛させて頂いて…
社殿の前で二拝二拍手一拝で拝礼し、最後に一歩引いて会釈。


その後は社務所へと向かい御朱印をお願いした。
息子に言わせると御朱印は爺さんのスタンプラリーとか悪態をついていたのですが、百歩譲ってタンプラリーとしても最後に頂くのは大きな功徳。
我が息子も人としての修行が、まだまだ足りぬようです。
そして、この後は健軍神社と琴平神社を訪ねてきたのですが、この話の続きは別枠で…

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柳川市 さげもん(吊るし飾り)

2024年02月21日 | 歴史探訪

早いもので2月も1週間ほどで終わりますね。
こんにちは錯乱坊の爺ちゃんです。
さてさて、話を元に戻しまして…
これらら1週間も過ぎると月は変わって弥生の3月です。
そして月替わり早々のイベントと言えば桃の節句… ひな祭り🎎ですよ。
で、お隣の柳川市にある山田屋さんへと食事に出かけてみると…


柳川市の吊るし飾り、『さげもん』がお出迎え…
赤白の布を巻きつけた直径約40cmの竹輪に7列7個の49個下げも飾り。
人生50年と言われた昔の時代に、女性は一歩引いて49年として下げられる飾りも49個。
けどぉ…
その真ん中に大型の柳川鞠を2つ加え計51個にし、当時の平均寿命を越えて長生きできますようにと願いが込められている。
と、言うか…
男子を差し置き、51個とは何たることかっ!
なーんて咎められても、『いえいえ、これは女子が遊ぶ手毬でございまする』と言い逃れが出来ますからね。


しっかし、また鰻かよ!
はい、これと言って行くとこが無かったので…
でもぉ、最近は少し飽きてきちやいました。

さげもん… お見事!👈話を逸らすな!

御後が宜しいようで…🙇

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四ツ山神社

2024年02月14日 | 歴史探訪

ここに写る小高い山(四ツ山)の山頂は、その昔に虚空菩薩が降臨した地と云われ四ツ山神社が祀られています。
また虚空菩薩が転訛して『こくんぞさん』と称して地元の人々に親しまれている。
そんな荒尾市大島の『こくんぞさん』ですが…
この2月13日と秋の9月13日に『こくんぞさん祭り』が斎行され社殿前に用意された福銭の『五円』を借りる。
で、その福銭の『五円』を神棚や財布に納め、ご利益をいただいた後に倍額以上を添えて返し再び新たな福銭を借りる。
まぁ、世俗にまみれた生臭な錯乱坊にとっては、このシステムの方が気になるんだけど…
中には借りた福銭を踏み倒す輩もいるわけだから、ここから先は触れないでおこう。
で、話は戻って…
そんな四ツ山神社の『こくんぞさん祭り』が斎行され昨夜は山頂までの300段の石段に明かりが灯されてました。

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山仕舞い

2023年10月02日 | 歴史探訪
早いもので暦は10月。
こんにちは錯乱坊の爺さんです。
何時もであれば冬の寒さもなんのその、オオムラサキやらゼフの越冬卵を求めて山へと出かけていたジイですが1月に受けた心臓手術の経過が思わしくなく、それに続くように新型コロナの罹患後遺症で冬場の採幼と採卵は断念することにしました。
よって、これにてジイは山仕舞い。


と、言うことで…
シースン中の感謝とお礼を含めて山に祀られた山の神の祠を訪ねてきました。
ただ、この爺は猟師や林業従事者ではありません。
しかし山からの恩恵を受ける身としては当然のことかと…


で、その祠は大きなウラジロガシに囲まれるようにして祀られている。
このウラジロガシが長い年月をかけ成長してきたように、この祠も山に関わる人の手により守り継がれてきたのでしょう。
山を敬い 山に感謝。
来期も良き出会いがありますように…

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夏の行事が一つ終わった…

2023年07月24日 | 歴史探訪

まだ梅雨が明けきれぬ九州北部の昨日、福岡県の南部では早くも夏の行事が一つ終わりました。
それが筑後南部と熊本県の一部で行われる夏の風物詩、大蛇山まつり。
その始まりは寛永時代の頃とされ日本神話に登場する建速須佐之男命の神事と当地に伝わる三池大蛇の伝説が上手く融合したものだろうと思う。


そして…
この爺が子供の頃は今のように花火・煙幕だけでなく派手に爆竹が慣らされていて地域ごとに引かれる山車ではお決まりの喧嘩が勃発。
おまけに祭りが終わると大蛇のパーツは縁起物として力づくの奪い合いなることから廃止され、今では人気の各部位は後に支援者へと贈呈されている。


そんな山車の上では踊りながら花火を散らし、下は下でドンチャン騒ぎ。
そこへ殴り合いの喧嘩とくればヤクザ祭りと称されても仕方がない。
まぁ、その頃から比べると今では御行儀良くなりました…ww


よいさぁ!よいやさぁ!
この時ばかりは男も女も囃子に合わせて踊れ踊れ!


しっかし、最近の大蛇は口も光るが目も光る…
そんな怖い大蛇の前では子供の無病息災を祈願する通称『かませ』という行事が執り行われる。


抱きかかえられた子供が大蛇の口へと押し込まれ、その時に子どもが泣けばご利益が大きいとされている。
しかーし!
それは子供にとっては怖いもので、この爺も小さい頃は大嫌いだった。
そんでもって親は横で笑ってたもんね。
だから…
心の中は『なに笑ってんだよ!』って感じですよ。


そんなこんなで今年も爺の孫は… 餌食になった。
だから事を終えると、大人なんて…
大人なんて…
じぇったいに信用なんかするものか!みたいな👀で睨んでた。


そんな厳戒態勢の中で執り行われた大蛇山まつりも昨日で終わり、まつりの各関係者だけでなく警察官やガードマンによる道路封鎖や誘導など本当にお疲れさまでした。
でもぉ…
これで終わりじゃないからな!


えっ!
まだやるの?
ん、来年ね…ww

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雛飾りの“さげもん”

2022年02月27日 | 歴史探訪

ここ福岡県南部の柳川市周辺では、雛祭りの飾り付けに2つの“柳川まり”を合わせた『さげもん』なる吊るし飾りが江戸の時代から伝わっています。
※似たようなものに静岡県の『雛のつるし飾り』や山形県の『傘福』がある。
そして、この由来については諸説あるのですが基本的には天枠から7本の吊るし糸が下がり、その一つの糸に7個ずつを下げた49個で構成されるのですが、その昔に50年とされた平均寿命からすると49では一つ足らない。
そこで“柳川まり”の2つを合わせ、その数を51個にすることで嫁いだ娘が四十苦労(四十九)せぬよう、また当時の平均寿命以上の人生を全うできるようにと願いを込めてあるそうな。
そして・・・
この“さげもん”の飾りは母親や祖母、また親戚や友人が着物の端布や布団の残り布を使って縁起物を象って手作りされたものと云われています。
例えば・・・
這人形は健やかに育つという願い。
ひよこ🐤(鳥)は可愛らしさ。
また、桜は花のように育つ・・・ などね。
で、毎年のことですが雛祭りを前にした今の時期になると、福岡県南の柳川市周辺では『さげもん』と呼ばれる吊るし飾りを見ることができます。

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小雪が舞う中でお宝探し、その続き

2022年02月21日 | 歴史探訪
先週の16日にトレジャーハンティングを気取って西南戦争の弾丸探しをやってみたのですが、出かけたのがお昼を過ぎた時間帯だったものだから木々が押し茂る中は薄暗くて怪しげな感じ。
と、言うか・・・
ここは150年ほど前と言えども数千人が亡くなった場所だけに、いろんな妖的な逸話か語り継がれているのも事実。
だから日暮れが迫る中、目的としたものも得たことだし早々に撤収しよう!
そう思いながら金属探知機のセンサーを造成された畑の法面やら地面にかざしながら車へと戻っていると突然 ピュ~ と反応が・・・
でも、時として誤って反応することもあるのでセンサーを何度が左右に振ってみると、やはり同じ場所で反応する。
そこで、ここ掘れワンワンとばかりに10cmほど掘ったところで硬い感触が指先に伝わった。
が!
小銃の弾にしては大き過ぎる。
もかしかして、これってスチール缶かぁ?
と疑いながらも周りの更に掘ると・・・


ん!?
これって、もしかしてもしかすると・・・・
西南戦争時に使用されていた四斤榴弾(曳火弾)の破断片かぁ?
いや、ここではミニエー弾も出てきいる事から間違いない。


そして掘り上げて手に持つと、おっ・・・ 重い。 
しかーし!
それは土に塗れて確信が持てない。
でも、取敢えずチャック付の袋に入れてポーチの中へ入れる。
ところが、この一つでは終わらなかった。


その場所から3~4mほど離れた場所で再び反応が・・・・
で、早々に掘ってみると同じ形をした鉄の塊が現れた。
おっ!?
これって同じ四斤榴弾(曳火弾)の破断片かぁ?と、思って先の破断片をポーチから取り出して断面を合わせてみると見事に一致した。
その後、周辺を探すも反応はなく刻々と日没時間が近くなっていく事もあって、ここは『君子危うきに近寄らず』とはがりに暗くなる前に急いで撤収ぅ!
ただ、この二つの破断片は車のトランクに乗せたまま放置してたのですが・・・・


土くれと化していた破断片を今朝になって水で洗い流してみると・・・
信管部分のネジ切痕が現れました。
これで四斤榴弾(曳火弾)の弾頭部分であることが確定です。
ただ、全体が分からないと思うので・・・


収蔵庫から四斤榴弾(曳火弾)を引っぱり出してきて並べてみたものが👆これ。
こうやって見ると破断片の部分がイメージとして伝わるのではないかなぁ?
そして最後に・・・
これらの地域の一部は古戦場跡として史跡に指定されているだけでなく、許可も得ず他人の土地や畑の中に立ち入る行為はトラブルの元となますのてご注意くださいね。

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小雪が舞う中でお宝探し

2022年02月16日 | 歴史探訪
はーい 皆さん、こんばんは。
今日、2月16日は強い寒気の流れ込みで、ここ福岡県だけでなく列島全体が冷蔵庫の中みたいに冷え込んでますね。
おまけに、この冷え込みは暫く続くと予想されている。
ならば、お家の中に大人しく引籠る?
いやぁ、そりゃないな。
と、言う事で・・・・


タラララッタラ~
今日はチラチラと小雪が舞う中でトレジャーハンティングへ出かけてきましたぁ
が!
その空には少しばかりの青空はあるものの、大半が雲に覆われてピュ~〰っと風が冷たい風が吹きつける。


そんでもって・・・
出かけたのがお昼を過ぎた時間からということもあって、周囲も薄暗くて何となく怪しげな感じ。
まるでインディ・ジョーンズの大冒険ってかぁ…ww


で、ちょうど1週間ほど前だったけかなぁ?
熊本市西区(熊本県)にある九州森林管理局へ出向いた帰りに立ち寄った山林脇でのこと・・・
何気に交わした挨拶からトレジャーハンティングの許可をいただけたんですよ。
そう、その挨拶を交わした方は山林の持ち主だったんだなぁ。
そこで早々に秘密兵器の『たむしチンキ』・・・
いや『金属探知機』を組み上げて捜索を開始。
すると、落ち葉の下や地中の浅いところからピユーと反応が・・・
キタかぁ?と思いきや、それはポイ捨てされた錆びたスチール缶だったりガラスビンの王冠などときたもんだ。
まぁ、これが現実なんだろうけどクシャクシャに潰されたアルミ箔とかにも反応するものだから、その内にイラっとしてくる。
そこで、あることを思い出す。


そう、👆このミカン畑の地主さんにも許可を貰っていたのです。
地主さん曰く・・・
昔は普通に転がってたけど、その後はミカン畑に造成したから今は無いと思うよ。
なーんて事を言ってた。
けど、その造成で出た土は搬出しいないのだから目的のモノは畑の地中に残っているはず・・・
そこで、この画像に写る法面であったり平坦な地面に反応板をかざしていると、突然ピューと地中の金属に反応する。
またスチール缶ですかぁ?
それともピニールハウスのアングルバントとかフックバンドかなぁ?
なーんて疑いながらも地面を掘ると・・・・


タラララッタラ~
あったぁ!
ただ、ご覧のように硬いものにでも当たったのか?、その鉛の弾は残念なことに側面から完全に潰れてましたけどね。
しかーし!
これにて145年前の内戦において実際に使用された銃弾をゲットすることができました。
ただ、そうなると次も来る!


ミカン畑の法面に反応があり、そこへ目を向けると・・・・
おーーー
そこにあるのは銃弾のケツではござんせんか。
それも、今度は潰れてない。
願わくば頭が潰れてましたぁ!なーんてことが無いようにと願いながら掘り出すと・・・・

タラララッタラ~
キタ――(゚∀゚)――!!
いやぁ、これ、これ、これを探してたんですよ!
これにて今日の任務は完了!

ちよっと待ったぁ!

ここで話は終えてたいところなのですが、この話には続きがあるのです・・・・

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今なお残る戦の惨禍

2022年02月09日 | 歴史探訪
戦争と言えば先の世界大戦を上げられることでしょう。
しかし、この爺さんは明治10年(1877年)の1月29日に始まった西南戦争の方が身近に感じられるのです。
その理由は・・・・
ここ福岡県南部の三池と熊本を結ぶ三池往還と吉次峠ルートする吉次往還で政府軍と薩摩軍が激しい戦を繰り返し、先の記事でも少し述べていましたが母方の実家が西南戦争の激戦地である田原坂に近かったことと物心がつく頃まで過ごした場所が熊本県玉東町で官軍の病院跡である正念寺で良く遊んだものでした。
そして、そんな正念寺の山門には今もなお36か所の銃弾跡を見ることができるだけでなく、中には当時の鉛弾が今も残されいる。
が!
話はこれだけでは終わらない。
その官軍病院跡がある玉東町から戻った爺さんは征討総督本営が置かれた熊本県北の繁根木八幡宮の近くで過ごすことになるのです・・・
余談ですが、この石垣にも弾痕が残っている。


そして、その繁根木八幡宮の横を流れる繁根木川では薩軍第一大隊第一小隊と政府軍が撃ち合い、その対岸で旗を持って指揮をとっていた西郷隆盛の末弟である小兵衛が銃弾を左胸部に受け戦死した。
※撮影している川塘から放たれたとものと推測される。
そして黄色の指で示した川土手の裏に『西郷小兵衛戦死の地』の碑が設けられているのだが・・・・
この爺さんが子供の頃には白い矢印で示した場所に1尺ほどの石があり、その石には小兵衛戦死と刻まれ永徳寺に住まわれている方だろうか何時も花が手向けられていた。
しかし、この小さな石碑は後の法面工事によって無くなった。


ちなみに、こちらが今も残る小兵衛戦死と刻まれた石碑。
で、この戦いで亡くなった西郷小兵衛の遺体は永徳寺にあった橋本鶴松家から雨戸1枚を貰い受け兄の隆盛が菊池川を自ら渡り連れ帰ったとも云われている。
しかし、これが薩軍の兵によるものなのか、或いは隆盛らによるものなのかは今となってしは定かではない。


ただ、ここで一つ言える事は・・・・
この場所は加藤清正によって始められた治水及び新田開発事業によって“石はね”なるものが川塘に幾つも設けられていて、その後方は水流により3~4mほどの深さと流れの速さから簡単には渡れない。
また、公には菊池川を渡って百田へと運び出したと云われいるが、そのルートは加藤清正の新田開発事業によって旧菊池川は大きく曲げられて当時は深さもさることながら水量も多く百田へと遺体を雨戸に乗せて泳いで渡るなんて無理!無理!
何故知ってるかって?
それは私自身が経験者だからです。
だから・・・


もし、小兵衛の遺体を乗せて渡ったとすれば、この画像に写る小島(小島河原)から永徳寺側(津留の河原)へと渡り、そこから同じルートで戻って百田方面へと運んだのではないでしょうか。
何故かと言うと・・・
その前後は深くて渡れないし、間違って画像に写る白い建物側へと渡ると政府軍が陣を敷くど真ん中に飛び込むとことになりますからね。
ちなみに・・・・
この爺さんが子供のころには、この塘には渡し舟を生業とした人たちが住んでいた。
おーい!と呼ぶと酔っぱらったオヤジが船で迎えにきてくれる。
確か大人が50円で子供は10円だったかなぁ?
で、自転車を乗せると更に50円。
ここで話を本題へと戻そう・・・・
そんなこんなで、これらの地域では至るところで銃弾の痕が残されているのです。


その一つが、この荻迫神社(荻迫天満宮)。
政府軍により制圧されて薩軍が荻迫台場にへ移動したころのことです。


この荻迫神社も戦渦に巻き込まれ数多くの弾丸が撃ち込まれました。
一つ・・・
二つ・・・
三つ・・・
数えれば限がない。
この神もを恐れぬ不届き者がぁ! なんちっやって
※オレンジ色の指印は銃弾が貫通せずに残っているところです。


そして、その社殿の柱にも二つの弾痕を見ることができます。
※オレンジと黄色の枠で囲った部分
で、そのオレンジで囲った部分を拡大すると・・・・


黄色い矢印の方から社殿の柱に弾が撃ち込まれ指で指示した部分には今もなお鉛の弾が残っているのが分かるかと思います。


また、こちらは山鹿市にある熊本県指定史跡のオブサン古墳。
ほらぁ、この爺さんが良く行く山鹿温泉の直ぐ近くですよ。
で、これもまた余談ですが山鹿の中心地近くには桐野利秋が率いた薩軍本陣の跡が残されている。


そんなこともあって、ここ山鹿市鍋田周辺では政府軍(官軍)と薩摩軍による激戦が繰り返されてオブサン古墳の入り口を閉じていた塞石にも多くの弾痕が残っています。
こんバチあたりモンがぁ! 👈熊本弁風にね
以上のことからも分かると思いますが、この爺さんが育った場所が西南戦争の激戦地ということもあり耕された畑を駆け回ると当時に使用された弾丸やら四斤砲弾の破断片などを拾うことができたんですよ。
まぁ、今も一日をかけて真剣に探せば昔ほどじゃなにしろ1個くらいは拾えるとは思うけど・・・
だから、このCherry坊の爺さんにとっては今から145年前の西南戦争戦の惨禍が身近に感じられるのですよね。

長々となりましたが、こんな記事に最後までお付き合いを頂きお礼を申し上げます。
ありがとうございました。

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田原坂

2022年02月05日 | 歴史探訪

今日っていうか、日付が変わって昨日になりましたが西南戦争の激戦地の一つである田原坂へ行ってきました。
そして、ここ田原坂は熊本城への援軍として南下する政府軍と北上する薩摩軍が明治10年(1877年)の3月4日から17日間の攻防戦を繰り返した場所で約4000人の死傷者をだした場所であることは有名。


そして、ここ田原坂は『雨は降る降る人馬は濡れる越すに越されぬ田原坂』と民謡【田原坂】の歌詞にもあるように加藤清正が熊本城を築城した際に城攻めを想定して道幅を可能な限り細くし、両脇の切り通しとしたことで土手上から城へと進軍する兵を弓やら鉄砲で狙えるようになっている。
だから、熊本城を落城されせるであろう南下する敵兵だけを想定ていたものだから熊本経由で北進する薩摩軍が一時的に優位に立てってしまった。
ただ、この後に薩軍は敗走することになるのですが、この田原坂で薩軍が政府軍を制圧し熊本県境にある南関を越えて福岡入りを果たしていれば、今の歴史は大きく変わっていたと思う。


で、そんな田原坂ですが下から一の坂。


続いて二の坂。


そして最後に三の坂と3つの坂で構成されていて、その坂と坂の間と最上部は見下ろす形で陣を設けられるように平坦な土地になっている。
そんな田原坂ですが・・・
母方の実家が、この田原坂の近くと言うこともあって子供の頃は駆け回って遊んでいた。
特にクワガタやカブトムシなどの虫捕りね…w
しかーし!
ここで忘れてはならいのが、その昔に政府軍が薩摩軍が攻防を繰り返した激戦地であるということ・・・・
だから踏みつけた足の下に硬いものを感じたら、それは石くれではなく大人の親指ほどもある鉛でできた銃弾だったり中には四斤防弾などの破片なんてものもあった。
そして、時には真っ赤に錆びてはいるものの刀であったり銃剣を見つけたりすると『カッコえー』と有頂天になって持ち帰ると・・・
こんな『人を何人殺したか分からないモノを持って帰るんじゃない!』と、こっ酷く叱られたものでした。


で!
今でこそ周辺はミカン畑と化して明るくはなったけど、この爺さんが子供のころは雑木が茂り薄暗くて帰りが遅くなるとマジで怖かったことを思い出す。
と、言うか・・・・
場所が場所だけに怪しげの話も多くありましたし、ここの官軍墓地や薩軍墓地で肝だめしをやって血の気が引く思いをした連中たちが少なからずいた事も確か。
いつかは、そんな話を『本当にあった怖い話』というカテで語ろうかと思いますが・・・ 今回は、これにてお終い。
次に行くときはタムシチンキ大作戦じゃぁ!👈ちょっと違うけど・・・

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