錯乱坊の彷徨える日々

フィールドでの出会いに癒しを求めて…

冬将軍の足音とともに・・・

2015年12月10日 | 昆虫・植物
福岡南部における今朝の天気は雨・・・
雨ですよ、雨!
だから・・・
そうなると、やる事が限られてくるわけでして・・・
今日は何から手を付けようかなぁ?なんて思いながらビニールハウスの中を見ていたところ、ハウスの角にアカタテハの姿を発見。
それも気持ち良さそうに寝てやんの。
あのさぁ・・・ 何処から入ってきたの?
あっ!もしかしてハウスへ収容した鉢植えのオオイワガネで蛹化してたのかもしれない。
本来であれば何処かの隅で越冬するんだろうけど、ハウスの中じゃ・・・・ ねぇ。
ん・・・
こんなところで眠られても困るしなぁ。
どうしよう。

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赤穂浪士とハゼ並木

2015年12月10日 | 雑記(ひまつぶし)
元禄15年、肥後藩当主である細川綱利が例日のために江戸城へと登城していた際に老中の稲葉正通より吉良家への討ち入りを終えた46人(47人中、一人離脱し46人)浪士のうち17人を肥後藩江戸屋敷にて預かるよう命じられた。
また、残りの浪士29人は岡崎藩(現在の愛知)、松山藩(現在の愛媛)、長府藩(現在の山口)と、それぞれに分けて預けられる事となりました。
そして、その間において細川家(肥後藩)と水野家(岡崎藩)の義士たちに受けた厚遇に感謝するも、長府藩と松山藩に預かりの身となった浪士たちの粗遇から「細川の 水の流れは清けれど ただ大海の 沖ぞ濁れる」という詩を残している。
※大/海≒甲斐(毛利甲斐守) 沖≒隠岐(松平隠岐守)を指す。
まぁ、そんな恨み話は置いといて・・・
赤穂浪士たちは肥後藩に受けた厚遇に少しでも報いようと、藩内の河川堤のハゼの木を植え和蝋精製の進言をしたとか・・・
ただ、ここに並ぶハゼの木が当時の物かどうかは定かではないのだが、この時のハゼの木が世代を変えて受け継がれ、今でも熊本の河川堤脇に並んでいるのは確かなようです。
ちなみに、明治10(1877)年2月27日に西郷隆盛の末弟である西郷小兵衛が西南戦争で戦死したのが、この対岸の河川堤なんだけど、その話は、また別の機会にでも・・・

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