「700度の火を持って、私は人とすれちがっている。」
これは、JT(日本たばこ産業)の喫煙マナーポスターである。
タバコの火を手に持ったまま歩くと、すれちがう人に迷惑がかかりますよ、というメッセージだ。
地下鉄の中でこれを見て、わたしは数年前のある出来事を思い出した。
そのときわたしは帰宅途上であった。駅を降り、30メートルほど先のバス停に向かうところだった。 夜の9時ごろであったろうか。
向こうから、先っちょに赤い火のついたタバコを左手に持った男がやってきた。
チンピラ風の中年男である。明らかに一杯入っている。無遠慮なふてぶてしい歩き方だ。 こちらに近づいてくる。
わたしの右側は植え込みになっており、避けられない。歩みをとめ、小さくなっているわたしをジロリと見て、男は左側ギリギリに通っていった。
(迷惑なヤツだなあ)
と思い、わたしは顔をしかめ、その男を振り返った。
すると、その男も振り向いてこちらを見ていたのだ。
「なんだ、オメー。 なんか文句あっかあ」
わたしの迷惑顔を見とがめたチンピラ男はグイとこちらをにらむと、ドスの効いた声を発した。
そして、にやついた顔でわたしに近づいてきたのである。
男は最初から難癖をつけたかったようだ。 わたしをくみし易い優男(やさおとこ)ととり、こちらの迷惑顔をむしろ待っていたかのようだった。
自分の非を棚に上げ、逆に言いがかりをつけてくる。 どこかにこんな国もあったように思うが、それはともかく、この手の輩は理屈の通る相手ではない。
こういった人たちには、マナーポスターをいくら掲げても効果は望めまい。
さて、チンピラ男が近づいてきて、どうなったか。
実はわたし、一見軟弱そうに見えるかもしれないが、何をかくそう合気道の達人なのである。
「なんか文句あんのかよー」
赤ら顔の男は酒臭い息を吹きかけてきた。
わたしは無言のまま、毅然として後に引かなかった。
「このヤローッ」
ジッとして動かないわたしに業を煮やし、男はタバコをその場に投げ捨てると、つかみかかってきた。
わたしは待ってましたとばかりにサッと半身を引き、男の力を利用し、一瞬のうちに植え込みの中にぶん投げてやったのである。
一体何が起こったのだろうとでもいうように、男はあお向けに寝たまま目をパチクリさせた。おもむろに起き上がると、これは敵わないなと思ったのか、すごすごと立ち去っていった。
……というのはウソ。 実は、逃げたのである。
恐怖に駆られたわたしは男のわきをすり抜け、懸命に走った。 歩いている何人もの人たちを必死に避けながら、駅の改札口のほうへもどり、そのまま駅の反対側に抜けたのである。
振り向くと、男は追ってこないようだった。
5分ほど間をおき、わたしはそっとバス停にもどった。バス停には人々がならび、くだんの男は見当たらなかった。
三十六計逃げるに如かず。わたしの逃走作戦は成功したのである。
地下鉄の車内でそんなことを思い出しながら、喫煙マナーポスターから左に目を転じると、そこに「護身術」講座のポスターがあった。
ショー・コスギの Self defence の実技もあるという。女性向けのものらしい。
わたしにとっても、いつも逃走作戦が有効であるとはかぎらない。 おじさんもこういう講座を受けなければならない時代が来ているのかもしれない。
でも、今から合気道の達人にはなれないだろうし……。 防犯ブザーでも持って歩こうか。
2005.4.17
(2009.7.30写真追加)
これは、JT(日本たばこ産業)の喫煙マナーポスターである。
タバコの火を手に持ったまま歩くと、すれちがう人に迷惑がかかりますよ、というメッセージだ。
地下鉄の中でこれを見て、わたしは数年前のある出来事を思い出した。
そのときわたしは帰宅途上であった。駅を降り、30メートルほど先のバス停に向かうところだった。 夜の9時ごろであったろうか。
向こうから、先っちょに赤い火のついたタバコを左手に持った男がやってきた。
チンピラ風の中年男である。明らかに一杯入っている。無遠慮なふてぶてしい歩き方だ。 こちらに近づいてくる。
わたしの右側は植え込みになっており、避けられない。歩みをとめ、小さくなっているわたしをジロリと見て、男は左側ギリギリに通っていった。
(迷惑なヤツだなあ)
と思い、わたしは顔をしかめ、その男を振り返った。
すると、その男も振り向いてこちらを見ていたのだ。
「なんだ、オメー。 なんか文句あっかあ」
わたしの迷惑顔を見とがめたチンピラ男はグイとこちらをにらむと、ドスの効いた声を発した。
そして、にやついた顔でわたしに近づいてきたのである。
男は最初から難癖をつけたかったようだ。 わたしをくみし易い優男(やさおとこ)ととり、こちらの迷惑顔をむしろ待っていたかのようだった。
自分の非を棚に上げ、逆に言いがかりをつけてくる。 どこかにこんな国もあったように思うが、それはともかく、この手の輩は理屈の通る相手ではない。
こういった人たちには、マナーポスターをいくら掲げても効果は望めまい。
さて、チンピラ男が近づいてきて、どうなったか。
実はわたし、一見軟弱そうに見えるかもしれないが、何をかくそう合気道の達人なのである。
「なんか文句あんのかよー」
赤ら顔の男は酒臭い息を吹きかけてきた。
わたしは無言のまま、毅然として後に引かなかった。
「このヤローッ」
ジッとして動かないわたしに業を煮やし、男はタバコをその場に投げ捨てると、つかみかかってきた。
わたしは待ってましたとばかりにサッと半身を引き、男の力を利用し、一瞬のうちに植え込みの中にぶん投げてやったのである。
一体何が起こったのだろうとでもいうように、男はあお向けに寝たまま目をパチクリさせた。おもむろに起き上がると、これは敵わないなと思ったのか、すごすごと立ち去っていった。
……というのはウソ。 実は、逃げたのである。
恐怖に駆られたわたしは男のわきをすり抜け、懸命に走った。 歩いている何人もの人たちを必死に避けながら、駅の改札口のほうへもどり、そのまま駅の反対側に抜けたのである。
振り向くと、男は追ってこないようだった。
5分ほど間をおき、わたしはそっとバス停にもどった。バス停には人々がならび、くだんの男は見当たらなかった。
三十六計逃げるに如かず。わたしの逃走作戦は成功したのである。
地下鉄の車内でそんなことを思い出しながら、喫煙マナーポスターから左に目を転じると、そこに「護身術」講座のポスターがあった。
ショー・コスギの Self defence の実技もあるという。女性向けのものらしい。
わたしにとっても、いつも逃走作戦が有効であるとはかぎらない。 おじさんもこういう講座を受けなければならない時代が来ているのかもしれない。
でも、今から合気道の達人にはなれないだろうし……。 防犯ブザーでも持って歩こうか。
2005.4.17
(2009.7.30写真追加)