興趣つきぬ日々

僅椒亭余白 (きんしょうてい よはく) の美酒・美味探訪 & 世相観察

ガキ大将の資質は腕力と睨力(げいりょく)

2006-12-21 | チラッと世相観察

 わたしは小学校5年生のときに、いなか町の小学校から町場の小学校に転校した。そのあたらしい学校の同じクラスに、学年ガキ大将のカツモト君がいた。
 カツモト君はいつも5、6人の取り巻き (他のクラスの者もいた) をつれ、校内をのし歩いていた。

 カツモト君がガキ大将になれたのは喧嘩が強かったからであるが、それだけでなく、「睨(にら)む力」が強かったからではないかと思う。
 肉厚の一重まぶた、横長の目は、いつもなにかに怒っているようであった。支配欲、自己顕示欲に加え、意志の強さをにじませていた。
 カツモト君は、腕力とともに‘睨力’も強かったのだ。

 わたしは転校してまもなく、このカツモト君の睨みの洗礼をうけた。
 その日、わたしは、なにかの授業で気のきいた答えをし、先生と会話がはずんだ。目立ってしまったのである。
 カツモト君はそれが気に入らなかったようだ。

 その時間が終わって休み時間になり、みんなが教室を出ていくとき、カツモト君はわたしに近づき、鋭い目でわたしを見据えた。
(おめぇ、調子にのるんでねぇど。おとなしくしてねぇと、痛え目にあうど)
 その目は強烈にわたしを脅していた。気の弱いわたしは、震え上がってしまった。
 カツモト君は、わたしを睨みつけたまま、無言で教室を出ていった。

 その後わたしがカツモト君にぶん殴られることもなく、いじめられることもなかったのは、ヨネキ君と仲良しになれたからだと思う。ヨネキ君は、カツモト君が一目おくクラスの優等生だった。

 ヨネキ君と親しくなれたのは、放課後いっしょに日本の県庁所在地の地図作りをしたからである。班活動の一環でヨネキ君とわたしは同じ班になったのだ。
 わたしたちの班は、大きな模造紙に日本地図を描き、県ごとに区切り、手分けして県庁所在地を書き入れていった。
 記憶はないが、翌日それをクラスで発表したのだろう。

 わたしはそのとき、青森、秋田、新潟など、県庁所在地と県名が同じところのほかに、松山(愛媛)、津(三重)、浦和(埼玉)など、県名と違うところもあることを憶えた。
 浦和が急行の止まらない唯一の県庁所在地であることを知ったのも、その頃であったと思う。
「県庁所在地なのに、小さな町なんだな」
と思ったが、それは町が小さいからでなく、となりの急行停車駅(上野、大宮)が近いからであったことを、後年就職して近くに住むようになってはじめて理解した。
 ついでながら、浦和は、さいたま市という普通の名前になってしまったのは、個人的には残念である。

 話をカツモト君にもどそう。
 われわれが5年生のうちだったか、6年生になってからだったか忘れたが、事件がおこった。カツモト君が、とつぜんガキ大将の座を追われたのである。
 朝、学校に行ってみると、あたらしいガキ大将が誕生していた。カツモト君の配下にあったツチダ君が、カツモト君を上まわる取り巻きをひきつれ運動場をのし歩いていたのである。
 カツモト君はどこに行ったのか、見あたらなかった。

 聞くところによると、前日カツモト君はツチダ君と取っ組み合いのケンカになり、負けたのだという。ツチダ君はクーデターに成功し、新親分としての実権を掌握したのである。

 ツチダ君は子分連中を左右にはべらせ、一生懸命恐い顔をして歩いていた。首を少し前にだし、肩ひじをはっていたのが印象的だった。
 ほおが赤らんでいたのは、前日のケンカでつくったあざというより、新ガキ大将としての緊張感によるものだったのであろう。
 わたしは、このラディカルな‘政権交代劇’の1シーンを、40年の余も経た今もありありと思い出すことができる。

 ところで、この取り巻き連中というものはどういうヤツらなのだろう。
 かんたんに親分を替えるなんて、自分の考え、主体性、節操といったものはないのか。明日カツモト君がツチダ君をぶん殴りかえし、天下をとりもどしたらどうするのか。はずかしいなァ。

 まあ、それはともかく、ツチダ君のガキ大将ぶりは、見る方も慣れなかったせいか、今一つ迫力に欠けていた。無理してがんばっているという感じがあった。
「どこまで保(も)つか」とも思わせられた。
 それは、今考えると、ツチダ君は、どうも睨力においてカツモト君にかなわなかったからではないか。
 ツチダ君は背は高かったが、二重まぶたの、どちらかというと坊っちゃんタイプの顔であった。
 比較的裕福な家でかわいがられて育てられた、という感じを与えた。睨みをきかすには、肩ひじをはるしかなかったのかもしれない。

 そのツチダ政権が長くつづいたのか、三日天下で終わったのか、わたしには記憶がない。カツモト君がその後どうなったかも憶えていない。まもなくわれわれは中学に進み、進路が分かれていった。

 このカツモト君、ヨネキ君、ツチダ君たちと、わたしは今交流がない。カツモト君は今も睨力を発揮しているのだろうか。
 この文章を読めば、
「おめぇ、また調子にのりやがってぇ……………………(沈黙)………………………」
と睨まれそうである。

2002.2.16
(2006.12.21 写真追加)

酒は黄昏どき

2006-12-13 | チラッと世相観察
 酒を飲むのにいちばんいい時間は、なんといっても黄昏どきでしょう。
 夕方、夕暮れ、暮れどき、暮れなずむころ、夕景、かわたれどき、トゥワイライト・タイム……、この時間帯を表す言葉は多い。
「夕暮れの時は、よい時」
と、堀口大学も言っている。

 一方、車を運転する人にとっては、一瞬前方の歩行者が見えなくなることのある魔の時間帯でもあるという。逢魔が時という、この時間を表す言葉もある。
 子供たちが遊んでいて、神かくしに遭うのも、この時間である(にちがいない)。

 子供が遊ぶといえば、小さいころ、外で遊んでいて、ご飯だよと呼ばれても帰りたくなかったという記憶がある。
 日の短い季節だったのだろう、数メートル先が見えなくなるくらい暗くなって、ようやくあきらめて帰ったものだ。

 このように黄昏どきはわたしにとって、懐かしさと不思議さがないまぜになった魅力的な時間だ。
 朝酒も昼酒もうまいが、後、身体がだるい。夜遅くなってからでは、ゆっくり飲めない。夕方までに仕事を終え、その解放感のなかで酒を始める、これがいいのである。

 わたしには、黄昏どきこんな形で飲みたいという一つのイメージがある。
 薄暗い店のカウンターにすわり(たぶん寿司屋と思う)、入り口に目をやると、外は日が陰り、道に水が打ってあるのが見える。夏の夕方であろう。
 道は鋪装などされていない。カウンターからは見えないが、四、五メートル先には、両岸に柳の木が植えられた小さな堀が通っている。その店は堀端にあるのだ。
 おちついた町の古くからある飲み屋街。その片隅にある馴染みの店。そのなかでわたしは、ゆっくり手酌で酒を楽しんでいる。
 わたしのイメージは、そんな情景である。

 いまどき、夏場に戸を開け放している店はないだろう。冷房を入れ、店内も明るくしている。このイメージは、夢か現つか、ノスタルジーのこもったファンタジーである。
 そのファンタジーに思いをはせつつ、いつも夜中まで仕事に追われている。

2001.4.12
(2006.12.13 写真追加)

ヌルカンでいいのにィ

2006-12-07 | チラッと世相観察

 飲み屋に入って、「酒、燗して」とたのむと、かならずといってよいほど、「熱燗ですか」と聞かれる。とくに若い女性の店員がそうである。
「あまり熱くなくてもいいのにな」と思いながら、いつも「うん」と答えてしまう。

 以前、家の近くの蕎麦屋に入って、こんなことがあった。
 やはり若い女性に、「燗をして」とたのんで、「熱燗ですか」と聞かれたので、「あまり熱くなくていい」と答えたら、常温の酒が出てきた。
 この人の頭には、熱燗はあたためた酒、熱燗でないのは常温の酒という図式がインプットされていたのだ。
 燗には、熱燗のほかに、ぬる燗や人肌燗などもあるだろうが、な、もう……。
 八代亜紀の大ヒット曲「舟歌」の出だしは、「♪お酒はぬるめの/燗がいい」というのであることを知らないのかな。
 ぬるめの「缶」ではないのだぞ。

 ある昼時、とある定食屋でのこと。
 カウンターにすわって注文をすますと、となりの、50代後半サラリーマンとおぼしきおじさんがちょうど食事が終わったところだった。
 食べたものがしょっぱかったのか、のどの渇きをおぼえたらしく、
「おねえさん、お冷やちょうだい」
と店の若い女性に声をかけた。
「はい」
と、近くにいたおねえさんは返事をし、一瞬とまどった表情をしたが、カウンター内の奥に行き、一升瓶をとりだした。
 この店は、夜は居酒屋となる。おねえさんは夜もここではたらいているにちがいない。
 私はそれを見て、
(おねえさんは水の「お冷や」と酒の「冷や」をまちがえているな)
と思ったが、だまって見ていた。
 おじさんは、まったく気づいていない。
「ありがとう」
と、おねえさんからコップを受け取ると、口にもっていき、ぐいっと傾けた。
 つぎの瞬間、「うっ」と声をもらし、コップを垂直にもどした。
 おじさんは、コップの中身が期待していた冷たい水ではなく、酒だったことに気がついたのだ。

 このあと、おじさんはどうしたと思いますか?
 おじさんは、しばし沈黙のあと、「まあ、いいか」とつぶやき、コップの酒を飲み干してしまったのです。
 その日は平日。午後、あの人はどうしたのでしょう。

 そのおねえさんは、「お冷や」が冷たい水のことであるのを知らなかったのだ。それにしても、平日の昼間、昼食のあとに酒をたのむ人はあまりいなかろうに、おねえさんは何を考えていたのだろう。

 たしかに、お冷やという言葉は今ほとんど聞かれない。こうして、言葉は死に絶えていくのだね。

2001.3.20
(2006.12.7 写真追加)


*以下、2006.12.26付け加え
<酒の温度帯による燗の表現>
○30℃ 日向燗  ○35℃ 人肌燗  ○40℃ ぬる燗  ○45℃ 上燗  ○50℃ あつ燗  ○55℃ 飛びきり燗
(白鹿<辰馬本家酒造>に添付の「お酒のミニ知識」による)


自分の生を引受けるとき

2006-12-02 | チラッと世相観察

 もう十年の余も前の話になるが、息子は中学進学をひかえた春休み、理髪店に行ってとつぜん丸刈り(坊主頭)にしてきた。
 だれに言われたわけでもなく、小学校を卒業したそのときに、自分の意志で、坊っちゃん刈りも卒業したのである。

 愛用の赤い野球帽をしっかりかぶって、はずかしそうに帰ってきた息子は、帽子をとらずに、まだ仕舞っていなかったコタツにもぐりこんだ。半分ふざけたい気持ちもあったのであろう。
 しかし、いつまでそうしていられるわけもない。帽子をとってコタツからでてきた、まだ声変わり前の少年は、本人の意図とはおそらく裏腹に、ツルンとかわいらしく、マルコメ味噌のテレビCMにでてくるクリクリ坊主の幼児を連想させた。

 その3年後、こんどは娘が中学にすすむ春休み、美容院に行って、長めの髪をとつぜんショートカットにした。
 その日わたしは娘と買い物の約束でもしていたのであろう。その美容院に娘を迎えに行った。外から大きな窓越しに待合室が見え、一人の少年がこちらに背を向けすわっている。
 中に入って、娘はどこかなと探すと、なんとその‘少年’がわが娘であった。

 詩人吉野弘に「父」という詩がある。

  ………
  子供が 彼の生を引受けようと
  決意するときも なお
  父は やさしく避けられているだろう。
  ………

 一年ほど前この詩を知ったわたしは、読んで、わが子らのこの中学進学前の春休みの行動を思い出した。

 4月からは新しい環境が始まる。新たな出会いもある。その時期に二人は 自分を変えようとしたのであろう。一歩成長した自分でありたい、と思ったのにちがいない。

 二人はその後も元気に自分の道を歩んでいる。その道は決して平坦ではないはずだ。でも懸命に前を見つめ歩んでいる。
 その姿を見て、今わたしは逆に教えられている。人は年齢とは関係なく、現状に安んじているだけではだめなのだと。
 覚悟を定め、また新たな一歩をふみだそう。

  人生の本舞台はつねに将来にあり (尾崎行雄)


2002.12.1
(2006.12.2 写真追加)