くろたり庵/Kurotari's blog~since 2009

総務系サラリーマンの世に出ない言葉

とても不安な「菅談話」

2010-07-31 19:12:00 | 政治経済のことも考えよう

日中戦争の記述についての歴史教科書問題は、
スペイン人のインカ帝国征服の記述に極めて似た背景があります。

16世紀にスペイン人は南アメリカ大陸を侵略し、
何十万人ものインディオを虐殺して、マヤやインカの文明を滅亡させました。

このことは、400年以上を経たいまもなお、
極東の一小国の歴史教科書にすら、時には当時の銅版画つきで記載され、
連綿と教えられ続けています。

しかしこの時代、植民地化政策を推し進め、
世界中で原住民を虐殺したのは何もスペイン人だけではありません。

イギリス、フランス、オランダ、ポルトガルなどこれらの国々も、
オーストラリアやインドネシア、そして太平洋の島々で、
民族が滅亡寸前に追い詰められるほどの虐殺を行ってきました。
けれども、そのことを教える教材は多くありません。

それでは、なぜスペイン人だけが、
その残虐非道な行為を教科書に記され続けているのでしょうか。

これには有名な話があります。
当時、南米大陸には布教を目的とした数多くの宣教師が殖民しました。
そしてその中に、ラス・カサスというスペイン人宣教師がいました。

彼は新大陸で、同胞たちの残虐な行為や不当な略奪を目の当たりにし、
その様子を詳細な報告書にしてスペイン国王に送り、やめさせるように訴えました。

その報告書が公表されると、
植民地争奪で対立関係にあったイギリスやフランスなどの国々は、
スペイン人をおとしめるため、自分たちのことは棚にあげ、
競うようにしてスペイン人の残虐非道ぶりを世界中に宣伝しました。

歴史の教材などに使われている銅版画などの多くは、
これらの国々によって制作され、ばらまかれたものだと言われています。
 
やがてスペインではラス・カサスに賛同し、
その意思を受け継ぐ者たちによって運動が活発になり、
スペイン王室は正式に植民地政策を見直すこととなりました。
つまり、国として正式にみずからの行為を認めたということです。

これに対してイギリスやフランスなどの他の国々は、
21世紀に至るまで国家としての残虐行為を公式に認めてはいませんし、
謝罪も賠償もしませんでした。
もちろん、先の大戦までのアジア諸国での植民地政策に対してもです。

これが「同じ穴のムジナ」であるにもかかわらず、
世界史上で扱われ方の異なる大きな理由のひとつです。
「良い」とか「悪い」とかではなく、これが国際政治であり、世界史なのです。

日本の教科書問題は1980年代初めに、
日本のマスコミが報道したことに端を発します。
決して中国や韓国から言い出したことではありません。

これは、文部省の教科書検定で
「『日本が侵略』という記述を『進出』に書き換えさせられた」
というものでした(「書き換えさせた事実はない」という説もあります)

その後、日本の左派マスコミや左派団体は、
こぞって「靖国参拝」や「強制連行」「従軍慰安婦」などを
「未解決問題」としてとりあげ、「国の戦争責任」を言い始めました。
すべて日本国内から湧き上がった議論です。

そうして左派の活動は、ついに1995年の「村山談話」を引き出すに至り、
これが一国の首相の発言であったことから、
敗戦から長い時間をかけ、先人の政治家たちが築きあげてきた、
日中平和友好条約や日韓基本条約などによる、
戦後の日中・日韓関係をぶち壊したとも言えるのです。

日本人同士が「国の戦争責任」を言い争っていれば、
当の中国や韓国がこれを利用しない手はありません。
自国民の愛国心育成には願ってもないチャンスです。
歴史的に見ても、国民が一致団結し、国威が発揚するのは、
国外に国民共通の敵が現れたときにほかなりません。

私には日本が、かつてのスペインと
同じ道をたどっているような気がしてなりません。

結局、スペインはイギリスやフランスなどのプロパガンダに敗れ、
その後、急速にその国力を失っていきます。
スペイン人の自虐史観は、いまの日本人と非常によく似ています。

日韓併合100年を前にし、菅総理大臣が、
「村山談話」を超える「新談話」を検討中だとの報道がありました。

菅首相は、世界史をきちんと学んだ政治家なのでしょうか。
世界中からの「もの笑いのタネ」をひとつ増やさないよう祈るばかりです。


日本自治区か、51番目の州か?

2010-07-29 23:37:57 | 政治経済のことも考えよう

以前、NHKでエジプトの小学校が紹介されていました。
そこでは、毎朝、国旗に敬礼する子供たちの姿が映っていました。

その映像を見て、
もし、日本がこのような国と戦争をすることになったら、
とても勝ち目はないだろうと感じたものです。

「愛国心」

どうして日本人は、この言葉を嫌うのでしょう。
先の大戦の記憶を呼び起こされるからでしょうか。
あるいはそこに戦争の臭いを感じ取るからでしょうか。

そんな日本人でも、ワールドカップやオリンピックになると、
顔に日の丸をペイントし、国旗を振り回しながら
「にわか愛国者」になって「勝った」「負けた」の大騒ぎをします。

このことからもわかるように、
「愛国心」というものは、「競い合うこと」や「争いごと」といったものと、
決して無縁ではありません。

「自分の国を愛する」「大切にする」ということは、
その権利や存在を他国に脅かされたときには、
戦争も辞さないということでもあります。

いまだに「愛国心を育てる教育」というものを
軍国主義教育につながるものとして反対する人がいます。

自国の領土が侵害されても、
「エヘラ、エヘラ」として抗議ひとつできない政治家がいます。

まして、日本人ではない者(日本国籍を持たない者)にまで、
この国の参政権を与えようと主張する団体があります。

私たち親の世代の社会的な役割は、
子供や孫たちに、より良い日本を残し、つないでいくことです。
それは決してきれいごとではありません。

世界の国々の経済情勢が大きく変化し、
パワーバランスが崩れ始めている現代。

「愛国心」という言葉の良し悪しや、
好き嫌いにこだわっている時代ではありません。
自分の住む国のことを、
大切に考える子供たちを育てることが重要です。

世界史を振り返ってみても、隣人はいつでも良い人で、
日本という国がいつまでも独立国家として世界中から尊重され、
存続するという保障はどこにもありません。

中華人民共和国の日本自治区となるか、
アメリカ合衆国の51番目の州となるかを選ぶ日が、
絶対に来ないとは誰も言い切れないのです。

少なくとも私は、子供たちにそんな選択をさせたくはありません。

 


自転車が爆発した!

2010-07-28 22:25:20 | 今日の出来事

数日前から自転車の後輪の空気が減っていたので、
市営駐輪場で空気入れを借りて空気を入れて帰路につきました。

乗り始めるとすぐに、サドルから違和感が伝わりました。
コトン、コトンとなにやら段差があるような感じがして、
「あれ?」と思った瞬間、「パァーン」と大音響が響き渡りました。

大通りで、衆人の目が一斉に私に注がれます。

「え、おれ?」と思う間もなく、
サドルから伝わるパンクの感覚。
バーストです。

何年も乗って、タイヤの溝が消えるほどツルツルテンで、
ゴムもひび割れるほどだったからなあ。

明日からは、駅まで片道2Kmの道のりをトホトホ、徒歩通勤。
この猛暑のさなか、トホホです。

 


地デジデビュー

2010-07-27 23:38:00 | つれづれなるまま

マンションにケーブルテレビが導入されてから、
アナログ電波のNHK総合とNHK教育の映りが悪くなりました。

もちろんケーブルテレビには加入していません。
(ケーブルテレビが導入された日のブログはこちら)

画面がザラついたようになり、どうも美しくありません。
会社では自社ビルの電波障害補償をしていますが、
その施設の管理経験からすると、電波が減衰していると思われます。

そこで地デジチューナーを買ってきました。
実は、地デジチューナーなるものをいじるのは初めてなのです。

会社に出入りする電気工事会社のオヤジからは、
「地デジはデジタルなので『1』か『0』しかない。
  つまり『映るか、映らないか』のどちらかで、
  アナログのように『映りが悪い』という中途半端な状況はない」
と教えてもらっていたので、
基本的にチューナーの性能は映りの良し悪しには無関係と判断し、
5800円のチューナー機能だけのシンプルで安いやつを購入しました。
                    (BUFFALO社製のDTV-H300)

確かに電気工事会社のオヤジの言うとおりでした。
ブラウン管テレビでも、パソコンの液晶モニターでも、
明らかにアナログ電波よりきれいです。

しかし、地デジチューナーを経由すると録画ができません。
パソコンのテレビチューナーの録画機能を使ってみると、
「このコンテンツは、コピーガードにより保護されています」
のメッセージが・・・

やはり、地デジチューナーつきの録画機に買い換えなければ、
アナログ放送完全終了後は、留守禄もできなくなってしまうようです。

あいかわらず最先端技術って、便利なようで不便。


いまさらながら脱・ゆとり教育

2010-07-26 22:49:07 | 子育て

知識重視型の詰め込み教育を否定し、経験から学ぶことに比重を置き、
「自分で考える力」を養い、「情操豊かな人間性」を育てることが「ゆとり教育」でした。

しかし、知識が豊かでなくては、
いくら考えても適切な判断や優れたアイデアは生れません。
それはどんなにスペックの高いコンピュータであっても、
データを入力しなければ、ただの箱に過ぎないのと同じです。

また、知識のないところに豊かな情操は育ちません。
「美しいもの、優れたものに接して感動する、情感豊かな心」というものは、
道徳や芸術、宗教などの社会的価値観が身についていなければ育ちません。
豊かな知識を持たない感情は、本能で生きる動物と同じです。

経験から何かを学ぶのも、考える力を養うのも、豊かな情操を育てるのも、
その子供に基礎力がなければ何も生み出すことはできません。

個々では「社会に出て何の役に立つのか」と思われるような知識でも、
それが頭の中で増えれば増えるほど、それぞれがつながりを持ち始めます。
そうなって初めて自分で考え、自分で答えを出せることができるようになります。

子供時代は情報(知識)をインプットする時代です。
そして成長するに従って、アウトプットする割合が多くなってきます。
そのとき、いかにより良い判断や発想がアウトプットできるかは、
それまでに、いかに質のすぐれた知識を、
いかにたくさん身につけていたかに左右されます。

誤解を恐れずに言うなら、
子供の教育は、知識詰め込み型で良いのです。
子供の脳は、それを受け入れるだけの素地があります。

「1」しかインプットできなかった子供は、「1」しかアウトプットできません。
「10」をインプットした子供は、「8」でも、「9」でもアウトプットできます。

「知識重視がオチコボレを生む」といって、
すべての子供たちに「1」しか教えないのは、
子供たちのことを思いやっているようで、
子供たちの生きる知恵の源を断ち、逆に不幸にしています。