くろたり庵/Kurotari's blog~since 2009

総務系サラリーマンの世に出ない言葉

「LINE」と「包丁」

2013-08-26 23:02:16 | つれづれなるまま
ネットを使った「いじめ」は以前からもありましたが、
ここ最近は、「LINE」というスマートフォンなどで使える
無料通信アプリを使った「いじめ」による自殺や、
殺人・傷害事件が問題になってきています。

「いじめは昔からあった。ネットが悪いのではない。
 正しく使うことを教えることが大人としての責務だ」
などと、もっともらしいことを言う人もいますが、
果たしてそうでしょうか。それでは何の解決にもなっていません。

たしかに「いじめ」は昔からありました。
いわゆる「ガキ大将」のような開放性の「いじめ」だけでなく、
「服を脱がされたり」「無視されたり」「ものを隠されたり」といった、
閉鎖性の陰湿ないじめもたくさんありました。

しかし、今の「いじめ」が昔と異なっているのは、
昔はインターネットやスマートフォン、デジタルカメラといった、
今の「いじめ」に使われるような「道具」はなかったということです。
昔は、加害者の目の前に相手がいなければ、いじめようがありませんでした。
加害者の仲間がいても、その場にいなければ徒党を組むこともできませんでした。
被害者は逃げ隠れしていれば、取敢えずいじめをやり過ごすことができたのです。

それがこうした「道具」の登場によって、
「いつでも」「どこでも」「誰に対しても」いじめることを可能にし、
更にその間接性が「加害意識」を低いものにしてしまいました。
そして被害者のわずかな逃げ道をなくしてしまったのです。

昔の「いじめ」が素手で殴る「暴力」だとすれば、
ネットなどを使った今の「いじめ」は、包丁で切り付ける「暴力」と言えます。
ネットやスマホ、デジカメは「行為」ではなく、いわば「凶器」なのです。
つまりそれは包丁などと同じように、生活欠かせない大切な道具でありながら、
使い道によっては凶器になり、凶悪犯罪にもつながるということです。

包丁を使用禁止にすることができないように、
これらを禁止したり、電気通信事業法の「通信の秘密」に守られ、
運営会社でも内容を閲覧したり、削除したりできないのであれば、
別の方法での対策を講じなければなりません。

素手による傷害と凶器を使った傷害とでは量刑が異なります。
ネットなどを用いた「いじめ」も悪質性が高い犯罪行為であると定め、
これらを用いない「いじめ」より量刑を重くすることによって、
それが刃物と同じように凶器にもなりうるものだということを、
無自覚な人たちに認識させる必要があります。


「ある奴隷少女に起こった出来事」

2013-08-24 23:34:00 | 書籍の紹介
小説はめったに読まないのですが、
「歴史」+「ノンフィクション」のふたつのキーワードで手に取りました。

「ある奴隷少女に起こった出来事」
ハリエット・アン・ジェイコブズ 著 / 堀越ゆき 訳 / 大和書房 刊

この本は、150年前のアメリカの黒人女性によって書かれた自伝小説です。
発刊当時は、その優れた文章力とあまりにもショッキングな内容から、
白人著者によるフィクション・ノベルだと考えられていたそうで、
話題になることもなく、出版から一世紀以上の間、人々から忘れられていました。

そして120年後、ある歴史学者によって偶然発見され、
その後の研究によって、本書に登場する人物はすべて実在した人物であり、
事実に忠実な自伝であることが証明されたそうです。

物語は1820年代のアメリカ、ノースカロライナ州。
主人公のリンダ・ブレント(著者の筆名)は、自分が奴隷とは知らず、
優しい女主人のもとで幼年時代を過ごしますが、やがて彼女の死去により、
医師であるフリント家の奴隷となります(相続されます)。

15歳になったリンダは、
35歳年上のフリント医師の性的興味の対象となり、
性的暴行を受け続けるようになります。
誰にも相談できずに苦悩するリンダは、フリント医師の虐待から逃れるため、
別の白人紳士で弁護士のサンズの愛人になることを決心します。

やがてリンダはサンズとの間に二人の子供を産みますが、
フリント医師は、リンダを自分の思い通りにあやつれない嫉妬から、
彼女に対して筆舌に尽くしがたい陰険な嫌がらせを続けます。
そこでリンダは、奴隷制のない北部への逃亡を決断します。

逃亡したリンダは、
自由黒人となっていた祖母マーサの家の屋根裏に潜伏します。
発見されればマーサだけでなく、子供たちの命にも危害が及ぶなか、
リンダは七年間そこに潜伏し続け、北部への逃亡の機会を待ちます。

そしてリンダはとうとう北部への脱出を果たし、
その先でブルース家の保母として雇われることになりますが、
逃亡奴隷法を根拠に、フリント医師の執拗な追手が迫り・・・

「事実は小説より奇なり」という言葉が陳腐に思えるほど、
リンダの壮絶な人生が展開されます。

奴隷制のもとでは、奴隷は白人の「所有財産=モノ」でした。
奴隷は売買が可能な商品であり、夫婦であろうが親子であろうが、
所有者の都合によって引き離され、売られていきました。
もちろんどこに売られたかわからない永遠の別れです。

しかも奴隷少女は白人男性から性的対象とされることが多かったらしく、
わざわざ法律で「子供の身分は母親の身分を継承する」とまで定めていたそうです。
奴隷を所有する白人にしてみれば、奴隷に子供が生まれるということは、
父親が誰であっても、自分の財産が増えるということになるわけです。

そんな社会が、アメリカでは150年ほど前まで、実際に続いていたのです。

奴隷制は法律によって支えられていました。
当時、人びとの良心の拠り所であったはずのキリスト教精神も、
人権や道徳、あるいは良識と言った人道的な観念も、
すべて奴隷制という法律に打ち負かされていたのです。

法律が常に「善」であり「正義」であるとは限りません。
「人間の欲望を満たし」、「支配者の権力を護る」ために作られた法律が、
いかに恐ろしいもので、善良な人間を狂気に走らせるものであるかということを、
この本は、奴隷制という史実を通じてまざまざと感じさせます。
それは決して奴隷制だけでの出来事ではなく、
現代にも通じる問題だとも言えます。



出世する人の共通点

2013-08-22 23:33:58 | これが会社で生きる道
同期社員に昇進の先を越された後輩が不服そうに言いました。

「結局、会社では文章を書くのが得意で、
 しゃべるのがうまい奴が出世するんですよね」

長い間、会社で人事評価の浮沈を見ていると、
出世する人には、ひとつの共通点があることに気がつきます。
それは、彼らが例外なく国語が得意だということです。
ガチガチの理系人間であろうと、バリバリの技術者であろうと、
会社の中で出世する社員は、例外なく国語が得意です。
「学生の頃は国語が苦痛だった」 という人はまずいません。

なぜならどんな仕事であってもその基本は、
相手の話や文章を正確に理解すること、
そして自分の考えや意見を相手に伝え、説明あるいは説得し、
了承してもらうことから始まるものだからです。

どんなに卓抜したアイデアを持っていても、
どんなに豊富な専門知識や資格を身につけていても、
この基本ができなければ、それは何もないのと同じなのです。

もちろん、それはあざとい文章や巧妙な話術を弄し、
思惑どおりに相手をあやつるという手練手管のことではありません。
自分の真意を的確にわかりやすく伝え、相手の心を動かすために、
どのように話題を構成し、どのような語彙や表現が適切かを考え、
状況に合った選択することができるということです。

「コミュニケーションがうまい」、ということとはちょっと違います。
あえて言うなら、「日本語がうまい」、とでもいうことでしょうか。

日本の会社で求められる国語力は、
同じ語学力でも、英語力とはまったく異なるものです。
日本の多くの会社では、
英語が苦手でも出世することは普通に可能ですが、
国語が苦手な社員は、まず出世することができません。

前述の後輩社員は海外勤務経験もあり英語もペラペラです。
そんな彼に思わずこう言ってしまいました。

「そこに気がついたのなら、クサってないで努力しようよ!」


行き着く先が同じなら・・・

2013-08-21 20:33:50 | 政治経済のことも考えよう
ある報道機関の調査によると、
来年4月からの税率8%への引き上げについては、
調査対象者の57.4%が反対しているとのこと。
しかし、5%から8%へ時間をかけてゆっくりと上げること、
すなわち一年に1%ずつ段階的に上げることについては、
63.8%が賛成だといいます。

ようするに、
「一気に3%上げるのは反対だが、
 三年間かけて毎年1%ずつ上げるのなら、
 景気の動向も見極められるし良いのではないか」
ということなのでしょう。

「状況を見ながら・・・」と言えば賢明で、
とても思慮深い判断だと思われそうですが、
アンケートで「どちらでもない」の比率が多くなる、
いかにも日本人らしい優柔不断な考え方です。

ここにきて「毎年1%の引き上げ案」が復活し、
私の周囲でもいろいろな人が悲観したり、
あるいは期待に胸を膨らませたりしています。

悲鳴を上げているのが会社の経営部門。
どのような企業でも、会計システムというものは、
単純に「5%」を「6」や「7」に打ち変えれば済むような、
簡単なものではないのだそうです。
プログラムそのものを変更しなければ税率変更に対応できず、
費用も期間もかかるため大きなコスト負担が生じます。

そして逆に期待に胸を膨らませているのが、
その会計システムを管理するIT企業や、
商品カタログなどを制作する印刷会社などです。
毎年1%ずつ税率が変われば、毎年新たな需要が生まれます。
「大きな声では言えませんが、実は期待してます」
彼らはニンマリ笑ってそう打ち明けてくれました。

はてさて、毎年1%ずつ税率が引き上げられた場合、
それに対応するために毎年生じるコストは誰が負担するのでしょう。
アベノミクスによる新たな需要の創出と割り切りますか?

「賢明さ」も行き過ぎれば「愚かさ」になるものです。