くろたり庵/Kurotari's blog~since 2009

総務系サラリーマンの世に出ない言葉

ご破算願いましては・・・

2010-05-31 22:39:05 | 政治経済のことも考えよう

「民主にがっかり、自民にこりごり」
誰が言ったのか、うまいことを言うものです。

民主党や自民党以外の既存政党の主張も、
耳障りの良い言葉ばかり。
政権をとる前の民主党のようで信用できません。

乱立する新党も根っこは同じ。
自民党や民主党からスライドしただけのことです。

もう一ヶ月たらずで、参議院選挙が公示されるはずですが、
いったい何を基準に、どこに投票すればいいのでしょう。

世論調査の結果を待つまでもなく、
国民もこんなに困った選挙は初めてではないでしょうか。

 


幻となった味覚

2010-05-30 16:35:00 | 書籍の紹介

40代以降の人たちにとって、
忘れられない味の記憶といえば「クジラ」です。

地域によって竜田揚げだったりスキヤキだったり、
食べ方はさまざまですが、あの野性味あふれる独特の味わいは、
牛肉や豚肉、鶏肉などには決してない味覚でした。

一昨日の新聞で、普天間基地問題に隠れるように小さく、
「オーストラリアが日本の調査捕鯨禁止を求め、
国際司法裁判所に提訴することを決めた」という記事が掲載されました。

折りしも、たまたまこんな本を読んでおり、その記事が目に留まりました。
「鯨は国を助く」小泉武夫 著 小学館 刊


縄文時代からクジラを食べてきた日本人。
江戸時代中期には、その種類から捕獲・解体方法、道具、
赤身から目玉、子袋や陰茎にいたる67部位の調理法方まで書かれた
専門書もあったそうです。

石油の代わりとなる鯨油をとって、
他の部分はすべて海に捨てていた欧米の捕鯨と異なり、
日本人は、肉は言うに及ばず、内蔵から骨まで大事に活用してきたのです。

日本各地の捕鯨地には鯨墓や鯨塚が築かれ、
日本人はクジラに感謝し、畏敬の念をもって接してきました。
クジラを供養する文化を持つ民族は、
世界中の鯨食文化を持つ国々を見渡しても、
日本人だけだと著者はいいます。

しかし、本書はそのような伝統や文化の観点だけから、
商業捕鯨の再開を説いているのではありません。
著者は、調査捕鯨の意義やその成果、
反捕鯨の主張とそれに対する反論をわかりやすく説明しています。

反捕鯨派の主張は、概ね次のようなものです。
「鯨は絶滅の危機に瀕している」
「知能の高い鯨を獲るのは残酷である」
「捕殺しなくても調査はできる」
「牛肉や豚肉があるのに、鯨を獲る必要はない」

これに対して、著者は以下のように反論しています。
「絶滅の恐れがあるのは、シロナガスクジラとナガスクジラ、
ホッキョククジラの三種類だけである」
これを「クジラ」という言葉でひとくくりにして、
「絶滅する」と不勉強な人々を煽るのは反捕鯨派の戦略です。

「商業捕鯨が一時中止されてから30年を経て、
ミンククジラやマッコウクジラなどは大きく数を増やし、
国際捕鯨委員会も年間2000頭の捕獲なら問題ないと発表している」

「増えすぎたクジラは、イワシやサンマ、イカなどを大量に捕食し、
いまや国連食糧農業機関も鯨の過剰保護に警告を発するほど、
水産資源の著しい減少の危機をもたらしている」

「クジラに知性があるかどうかは証明されていない。
そもそも『知能が高いから食べてはいけない』と言う主張は、
『知能が低い牛や豚なら食べても良い』という理屈であり科学的ではない」

人間は「生きものの命」を食べる以外に生きていくことはできません。
生きものを殺す以上は、その生きものに感謝し、
無駄にすることなく「いただく」ことが大切なのだと著者は言います。
(食べられる命に手を合わせる「いただきます」という言葉は、日本にしかありません。
 キリスト教などの食前の祈りは、食べ物をもたらしてくれた神に感謝するものです)

そうやって長い歴史の中で培われた捕鯨の伝統と文化を、
「日本人のセンチメンタリズム」だと言って一蹴し、
科学的データからは目をそむけて、
「牛や豚は食べてもいいが、クジラは食べるな」という考え方こそ、
人間の傲慢さであると喝破しています。

しかし、もっとも問題なのは、
「クジラ」が政治や経済政策の道具として利用されていることです。

本書によれば、本来、国際捕鯨委員会は、
クジラ資源の保存と利用を目的に、捕鯨国だけで組織されました。
それが1970年代、アメリカ合衆国が非捕鯨国の加盟をさかんに促し、
それらの国々を抱き込んで全面的な反捕鯨の主張に転じました。

ちょうどこれはアメリカが捕鯨活動をやめた時期と重なり、
激しくなっていた「ベトナム戦争反対」の国内世論を、
環境保護という、別の問題に向けさせるために利用したと言われています。

そして何より、現在も日本に対して声高に反捕鯨を叫んでいるのは、
牛肉や豚肉の一大輸出国だけだということです。
つまり自国の畜産業者の保護と、選挙票の獲得が目的です。

確かに捕鯨を認めれば、大量の肉を自国で調達することができるようになり、
彼らの牛肉や豚肉の輸出にも少なからず影響があるでしょう。
日本で消費される牛肉の50%強がオーストラリア産であることを考えれば、
彼らがあれほど日本に対して、強行に捕鯨の全面禁止を訴える理由も
容易に理解することができます。

その証拠に彼らは、日本と同じ鯨食文化を持つロシア人やノルウェー人には、
「クジラを獲るな、牛を食え」とは言っていません。
アラスカのイヌイットなどは、
いまだに絶滅寸前のホッキョククジラを捕獲しているというのに!

捕鯨技術の継承は、伝統や文化の問題だけではなく、
今後の予測される食糧不足や
食糧自給率低下の問題を無視して考えることはできません。

「牛肉や豚肉があるのに、別にクジラなんか獲らなくてもいいのでは?」
という考えは、天下泰平・永久平和的な考え方に過ぎません。
食肉輸出大国の思惑通りになるということは、
私たちの生命線である食糧確保の道を彼らに掌握されるということなのです。

ところでタイトルからずいぶん外れてしまいました。
私にとってクジラ料理と言えば、
それは一も二もなく、「クジラのオーロラソース和え」です。
小学校のころは、必ず毎月一回は給食に出ていました。

日本の捕鯨活動が調査捕鯨だけになり、
それからは一度しか食べていない幻の料理です。


恐る恐る眼科へ

2010-05-29 18:38:29 | 健康のためなら死んでもいい!?

三時間ほど前に眼科医院から帰宅して、ようやく視力が元に戻ってきました。

会社の健康診断で網膜神経線維層欠損があると言われ、
診断書には「緑内障の初期にも見られる」と書いてあったので、
不安だったものの、痛くも痒くもないので一年以上放置していました。
しかし、半年前くらいから異物感が感じられるようになり、
ようやく重い腰をあげ、まとめて診てもらうことにした次第です。

網膜神経線維層欠損の診断は眼圧と眼底の精密検査です。
眼圧は機械で簡単に測定できますが、
眼底の精密検査には瞳孔拡大点眼薬を使用し、
瞳孔が完全に開いてから、拡大鏡によって検査します。

瞳孔を拡大させるとまぶしく感じるのかと思いきや、
近眼の度が進んだように、眼鏡をかけても視界がぼやけて見えます。
確かにこれでは、車での来院を禁じられるはずです。

眼圧の正常値は10~21㎜Hg。
検査結果は左15㎜Hg、右19㎜Hgで異常なし。
眼底検査でも「網膜神経線維層欠損というほどではない」と言うことで、
とりあえず一安心。

異物感の検査は、やはり検査薬を点眼し、
拡大鏡で眼球表面のキズや涙液分泌機能を調べます。

その結果、涙液分泌機能が著しく低下し、強度のドライアイだということでした。
分泌機能の低下は加齢やストレス、目の使いすぎなどいろいろ考えられます。
目にごみが入ったようなゴロゴロ感があり、
絶対にまぶたの裏に何かできていると思っていたので、なんだか拍子抜けです。

市販の目薬を使っていることを伝えると、
市販の点眼薬は防腐剤が入っているものがあり、
それが目を保護しているムチン(粘性物質)を破壊してしまうので、
かえって逆効果になる場合があるということでした。

このままだと角膜にキズがつく恐れがあるので、
市販の点眼薬は禁止され、ヒアルロン酸点眼薬が処方されました。
これを一日10回点眼し、改善されないようであれば、
再来院するようにということでした。

瞳孔拡大点眼薬が効きはじめるまで約30分。
しかも今日は土曜日ということもあって、
受付から会計まで三時間以上もかかってしまいました。
これだから病院に行くのにも腰が重くなってしまいます。

でもとりあえず、大きな疾患でなくて安堵しました。
三年ほど前の突発性難聴で、左耳の高音域は聴こえていないし、
子供の頃に治療した歯も、ぼちぼちガタが出始めていますが、
眼、耳、口のうち、一番怖いのはやっぱり眼ですから。


消えた200万人の行方

2010-05-27 23:36:10 | 書籍の紹介

「今日から日雇い労働者になった」 増田明利 著 彩図社 刊

12年前に700万人以上いた建設業就労者は、
今年の3月時点で400万人台になりました。
これは30年以上前の水準だということです。

建設業から去っていった200万人以上の人々は、
どこに行ったのでしょうか。

その答えのひとつが本書の中にあります。

本書は、著者がネットカフェや簡易旅館に寝泊りしながら、
一ヶ月間にわたって日雇い労働生活を続け、
体と心の変化を綴ったルポルタージュです。

著者は街頭でのティッシュ配りや景品の袋詰め、
ビル清掃や事務所の移転作業などをしながら一ヶ月をすごします。

しかし、そういった仕事にすら就けない人々もいます。
彼らはネットカフェや簡易旅館にも宿泊できず、
路上や公園で過ごしています。
こういった人々は、政府が公表する失業率には含まれて居ません。

彼らは言います。
「昔は建設現場で足場を組んだりして働いていた。
日当もいまより良かったし、仕事もいっぱいあった」

行政が、失業対策として「技能を身につる」支援が必要といいますが、
それは現場の実態が見えていません。
失業者の中には、技能を身につけている人は多いのです。
足りないのは「技能」ではなく、明らかに「仕事」なのです。

それは板金や塗装、溶接といったガテン系の技能のみならず、
パソコンスキルといったデスクワーク技能であっても同様です。

また著者は、日雇い労働者や派遣労働者を続けていると、
確実にコミュニケーション能力が低下してくると言います。

もちろん組織で働いたり、他人に気を使うのが嫌だったりして、
その日暮らしをしている人もいるでしょう。

しかし、そうではなくても、このような生活を続けていると、
人と話すこともなくなり、気持ちも落ち込んで、
次第に人とコミュニケーションをとることが苦手になると言います。

そういった状態に一旦陥ると、
再び定職に就く(=組織で働く・採用される)ことは困難でしょう。

「労働者派遣法が悪い」とか、
「派遣切りをする企業が悪い」とか言われますが、
法規制・法改正したところで根本が解決するわけではありません。
一番問題なのは、経済政策・景気対策に対する無為無策です。

「コンクリートから人へ」というふざけたキャッチフレーズがありました。
「建設業は農業や林業、福祉の分野へ転換すればいい」と言った大臣もいました。

まるでフランス革命で、民衆の真の生活を知らず、
「パンがないなら、お菓子を食べればいいのに」と言った、
マリー・アントワネットのようです。


「今日から日雇い労働者になった」 増田明利 著 彩図社 刊
 今回はあまり書籍の紹介になっていませんでした。陳謝!


いまどきの演説会

2010-05-25 23:05:52 | 政治経済のことも考えよう

先日、ある政党の参院選挙立候補予定者のフォーラムに行ってきました。
もちろん、自主的に参加したわけではなく、仕事がらみです。

都内の大きなホールを借りて行われたそのフォーラムでは、
巨大なスクリーンに候補者のイメージ映像が投影され、
候補者はファンファーレとともに、
赤や黄色のスポットライトが激しく交錯し、
スモークが煙る中から登場しました。

司会者はバラエティ番組などでよく見かけるタレントです。

紙吹雪が舞ったり、風船が飛んだりこそしないものの、
アメリカの大統領選の党大会を彷彿させるような演出です。

少し前まで、堅苦しい演説会やパネルディスカッションが主流でしたが、
いまはこんなにお金をかけて、演出に凝るのかと感心するばかりです。

そんな空気の中で、候補者や党代表の演説を聴いていると、
「この党なら、この候補者なら、何か変わるんじゃないか」
そんなふうに思えてきてしまうから不思議です。

党や後援会が、必死で動員をかける理由がここにあります。

「言うこと」と「できること」は違う。
そんな当たり前のことに、有権者はようやく気がつきました。
もう騙されないぞ・・・と思っても、
真の姿を見極めるのは容易ではありませんね。