くろたり庵/Kurotari's blog~since 2009

総務系サラリーマンの世に出ない言葉

低所得者への消費税還付案

2010-06-30 22:54:15 | 政治経済のことも考えよう

ニュースを見ていたら、菅首相が地方遊説で、
低所得者への消費税還付案を提案していました。

「消費税率を上げることになれば、
 年収300~400万円以下の低所得者層には、
 消費税を全額還付することも検討する」

一見してもっともらしい、いかにも「弱者の味方」のような発言です。
しかし、よく考えると、結局「お金持ち」の発想に過ぎません。
「還付する」ということは、
裏を返せば、一旦は「支払え」ということに他ならないのです。

年収300~400万円未満の低所得者は、
今日の食費や明日納める教育費にも四苦八苦しています。

つまり、「還付するから消費税を上げる」ということは、
そのような人たちから明日支払う食費や教育費を取り上げ、
「あとで返してやるからガマンしろ」
と言っているようなものです。

消費者金融に手を出さざるを得ない者も出るでしょう。
授業料や給食費を滞納する者も増えるでしょう。

どこまでいっても庶民の暮らしや気持ちがわからない、
政治家たちばかりです。
そういえば、昔読んだどこかの本に書いてありましたっけ。
「政治家にとって国民とは、金持ちの有権者だけである」と。

どうせなら「年利3%の金利をつけて還付する」とでも言ってみたら?

 


菅よ、おまえもか!

2010-06-29 22:44:08 | 政治経済のことも考えよう

「消費税率引き上げ方針」の発言で、支持率が急落した菅政権。

菅首相は、「議論に入ることを言っただけ」とか
「実際に上げるのは、次の衆議院選挙を行ってから」などと、
今回の選挙を前に火消しに躍起です。

新聞記事などによれば菅首相は、トロントで開催のG8サミットで、
日本の財政再建への姿勢を明確に打ち出して存在感をアピールし、
華々しく国際デビューする思惑があったとされています。

しかし、それだけではなく、国内に向かっては、
「理想論」に終始した前政権との違いを全面に打ち出すことによって、
「将来のことを真剣に考える正直な政権である」
ということを印象づける目論みもあったのではないでしょうか。

そして、それでも「支持率が落ちない」と踏んだ理由は、
多くの国民が「増税はやむをえない」とする世論調査だったのでしょう。

消費税率のアップが避けて通れないのは、国民の誰もが自覚しています。
しかし、国民がもっとも重視しているのは、増税に至るプロセスです。
無条件に消費税率アップを容認しているわけではありません。

まずは国民のリーダーたる政治家が率先垂範し、
ムダ遣いは省き、削減するものは削減してこそ受け入れられる増税です。

かつて小泉純一郎は、「国民同士で痛みを分かち合う」ことを求めました。
しかし、国民は自分たちがどんなに痛みに耐えても、
ちっとも生活が良くならないことを知りました。

いま国民は、政治家と国民とで、痛みを分かち合うことを求めています。
政治家が、国民に痛みに耐えることを求めるのではなく、
みずからが国民の前に立って痛みを受け止めることを求めています。
そうでなければ、国民の政治への信頼は回復できません。

人々の上に立ち続けてきた者の性でしょうか。
菅首相も前首相と同じように、
そんな普通の人々の気持ちが理解できていません。

「菅よ、おまえもか」そんな気分にさせられます。

 


異常なのはどっちだ?

2010-06-28 22:48:19 | 今日の出来事

「夏は暑いもの。そんな夏に寒いと言う人がいることは異常である」
これは、以前読んだ本に書かれてあった、
エアコンの温度設定バトルに対するひとつの考え方です。

毎夏、職場では男性社員と女性社員の間で、
エアコンの温度設定をめぐる主導権争いが勃発します。
これは、「夏なのだから、寒さを我慢するよりも、
暑さを我慢することが自然の摂理である」という考え方だといえます。

確かに「それもそうだ」と思ったものの、
世の中には信じられないような体質の人がいるものです。

私の会社でも政府が提唱する「チャレンジ25キャンペーン」を実施しています。
だから夏場のエアコンの室温設定は、「28度」になっています。
しかし、私の職場にはこれを「寒い」と言って、
エアコンのスイッチを切って歩く女性社員がいるのです。

当然、室内は蒸し風呂状態。
あちらこちらでウチワをパタパタさせていても、本人は「どこ吹く風」です。
誰かがたまらずエアコンのスイッチを入れても、
すぐに席を立ち、臆することなく堂々とスイッチを切ります。
カーディガンを羽織り、ひざ掛けまでかけて「寒そう」にしているのを見ると、
もう誰も何も言えません。

とても同じ生きものとは思えません。

 


人類史上に生まれた幸福な国

2010-06-27 23:28:00 | 政治経済のことも考えよう

「最近の若者は、外国に行きたがらない」
「いまの若者は、海外に興味をもたない」
最近、そんな論評を週刊誌や新聞などで見かけます。

そして、そう語る評論家たちは、こう結論づけます。
「若いうちは、もっと国外に目を向け、視野を広めるべき」
「若いうちは、いろいろな文化や社会にふれ、多様な価値観を身につけるべき」

確かに、そのとおりでしょう。
 しかし、彼らが海外に飛び出していった学生だったころは、
日本は経済的にも、文化的にも、
まだまだ欧米の背中を追いかけていた時代でした。
多くの若者がアメリカやヨーロッパに憧れ、
海外に留学したり、異国を放浪したりした学生がいました。

いまの日本では、わざわざ海外に出かけなくても、
インターネットやテレビなどでリアルタイムに海外の情報を入手できます。
海外旅行などより楽しいことも、身近にたくさんあります。

将来への「不安」や「閉塞感」を感じたり、「格差社会」を嘆いたりしてみても、
命を失うほどの困窮ではなく、
明日の食べるものにも困るような世の中ではありません。

理不尽な凶悪犯罪が増え、治安が悪いといっても、
深夜のコンビニエンスストアに買い物だって出かけられるし、
女性の夜の一人歩きもまだまだ見かけます。

世界最先端の科学技術の上に生活があり、
正常に機能している行政の上に人々の命が守られている国。
そんな幸福な国が、ほかにあるでしょうか。

そのような幸福な国の若者に、
「海外に目を向けろ」「海外に興味をもて」
と檄を飛ばしても無理と言うものです。

若者の「海外離れ」は、いわば「満足」の裏返しです。

「外国に追いつけ、追い越せ」と親の世代ががんばった結果、
その子供の世代が、世界の「ひきこもり」になりつつあるのは、
なんとも皮肉なものです。

しかし、人類史上に生まれたもっとも幸福な国は、
親たちが苦労して手に入れた結果であり、決して永遠ではありません。
そのことは、世界の国々とその歴史が証明しています。

若者の「海外離れ」を嘆くよりも、
小さな頃からそのことを教えるべきだったのではないのでしょうか。

「人類史上に生まれた奇跡の国」はこちら。

 


ケーブルテレビと格差社会

2010-06-26 12:37:31 | つれづれなるまま

築15年を過ぎたうちのマンションに、ケーブルテレビが入りました。
個人的には、屋上の共同アンテナ受信で何の不満もなかったのですが、
「今時、ケーブルテレビも入っていないマンションなんて、資産価値が低い」
という、一部の住民の要望で導入されました。

配信会社の営業マンが戸別訪問をして、しきりに加入を勧めます。

「ケーブルテレビなら、スポーツ中継もリアルタイムで観戦できます」
「ケーブルテレビなら、レンタルビデオのようなわずらわしさがありません」
「ケーブルテレビなら、新しい映画も劇場公開後、すぐに配信されます」
「録画機能つきチューナーなので、ビデオデッキやHDレコーダーが不要」
「レンタルなので、レコーダーが故障しても無償で交換、買い替え不要です」

まあ、出るわ出るわ、これでもかのセールストーク。
しかし、そんな売り込みも、ひと言の回答で終わりです。
「うちでは家族みんな、ほとんどテレビを観ません」

確かに数十チャンネルもあれば、24時間いつでもどこかで、
何かしら観たくなるようなコンテンツを配信しているでしょう。
それは否定しません。

しかし、そのコンテンツに限られた貴重な時間を使うほどの
価値を感じていないのです。

ゲームもしかり、またケータイもしかりです。

科学技術が高度になり、学問の分野が細分化され、
社会・経済の仕組みが複雑化した結果、
逆に「作り手(供給者)」と「使い手(需給者)」の区分は
明確になり、固定化しつつあります。

昔は、ヘビーユーザーが優れた作り手になる機会もありましたが、
製品(サービス)が高度かつ複雑になるにつれ、
それは困難になりつつあります。

現代社会では、優れた「作り手(供給者)」になるには、
「喜ばれる使い手(需給者)」になっていては不可能です。
子供のころから「作り手」に歓迎される「使い手」だった者は、
大人になってからも喜ばれる「使い手」のままです。

誤解を恐れずに言うなら、
「作り手(供給者)」と「使い手(需給者)」の関係は、
「搾取する者」と「搾取される者」の関係に似てきています。

格差社会は、何も派遣労働や日雇労働など、
雇用形態の多様化によってのみ生じた問題ではありません。

電車や駅で、そして街中で、
熱心にケイータイやポータブルゲーム機を操作している子供たち。
彼らを見るにつけ、そう思うのです。