くろたり庵/Kurotari's blog~since 2009

総務系サラリーマンの世に出ない言葉

昔とは違う「健康」の意味

2012-12-30 23:59:59 | これが会社で生きる道
「ビジネスマンにとって、一番大切なものはなんですか?」
そう聞かれた時は、私は「健康」と答えるようにしています。

肉体的な健康だけではありません。
「心」も含めた、すべての健康です。

「この20年間で 仕事は一層厳しく、より困難になったのか」
と問われれば、決してそんなことはありません。
今も昔も、仕事に求められる厳しさはさほど変わっていません。
それにもかかわらず、病人だけがどんどん増えています。
これは何を意味するのでしょう。

昔は「ストレス性○○」や「新型うつ」といった病はありませんでした。
そういう症状がなかったのではなく、そういう診断(分類)がなかったのです。
医学の研究が進み、症状が細分化され、病名がつけられると、
患者の訴えには、何らかの病名がつけられるようになります。

すなわち、立場が人を作るように、病名が病人をつくるのです。

病名がつけば、会社もそれを理由に異動させやすくなります。
最悪の場合、解雇(退職勧奨)されることもないわけではありません。
「精神や身体の状態が業務に耐えられないと認められるとき」
というのは、法的にも問題のない解雇理由となりうるのです。

幹部候補と言われていた社員が、復職後は出向だったり、
療養の長引いていた社員が、いつの間にか退職していたり。
そんな人たちを見てきたのは、きっと私だけではないはずです。

医学の進歩が、逆にビジネスマンを不幸にしている。
そういう皮肉な一面もあるのです。

だからこそ、「大切なものは何か?」と問われれば、
その答えはたった一つしかないのです。




社内研修の講師の心構え

2012-12-29 18:26:09 | これが会社で生きる道
入社して中堅社員にさしかかるころになると、
社内研修などで講師を任される機会もでてきます。
新入社員や若手社員に対して講義するだけでなく、
時には先輩社員や役員に講義しなけれなならないこともあります。

そんな時、一番大切なのは講義の内容ではありません。
いかに堂々と、自信を持って講義を進められるかということです。

大勢の先輩社員や役員の前で委縮してまう人は、
「皆さんなら既にご存じかと思いますが・・・」とか、
「私のような若輩者が言うのもなんですが・・・」とか、
「説明がへたくそで申し訳ございませんが・・・」などと、
講義の内容とはまったく無関係のセリフを挟む傾向があります。

本人はへりくだっているつもりなのでしょうが、
聞いているほうは、「謙遜している」なんて思ってはくれません。
講義の内容と無関係なセリフは、ただ耳障りなだけです。
相手に「自信のなさ」を感じ取られるだけでなく、
中には「要点だけをさっさと説明しろ」と怒り出す人もいるでしょう。

緊張することと、委縮することは違います。
たとえ相手が社長であっても、講義をするときは講師が先生なのです。
その講師(先生)が委縮していたら研修(講義)は成り立ちません。
たとえ聴講する先輩や役員が既に知っていそうなことであっても、
堂々と、初めての人に聞かせるように話せばよいのです。

「そんなこと知っている!」などと怒りだす人はまずいません。
むしろ、どんな先輩や役員でも、会社に長くいるからといって、
講師をする自分よりも、何でも知っていると思ったら大間違いです。
自分が経験したことのない業務については、
案外と何も知らなかったりするものなのですから。

そして、もし自分の講義に対し、
知識をひけらかすようにツッコミを入れるいじわるな人がいたら、
その時は、「勉強不足ですみません。もっと勉強します」と返せば、
何の問題もありません。



逆もまた真なり

2012-12-28 23:59:59 | 政治経済のことも考えよう
下村文科相が記者会見で、朝鮮学校に対して
高校授業料の無償化を適用しない方針であると発表しました。

一方で、朝鮮学校側は国家賠償請求訴訟を検討するといいます。
そして二言目には、「子供たちを傷つけた」「子供たちが可哀そう」とも。

しかし、もし現代の日本の学校で、天皇陛下の肖像画を掲げ、
教科書に「先の大戦は日本を護るためにやむを得なかった」と書いたら、
彼らや、彼らの母国はどんな反応を示すでしょうか。
おそらく、授業料無償化反対どころの騒ぎでは済まないでしょう。

また彼らは、「教育を政治の道具にしている」と非難しますが、
授業料無償化のために投入される費用は公金です。
公金であるということは「政治の問題」であるということです。

彼らが、「子供たちが可哀そう」などと情に訴えるのはナンセンスです。
なぜなら、「政治の道具にしている」と非難されている政治家も大人なら、
子供たちに、教室や職員室に「将軍様」の肖像画を掲げて崇拝させ、
彼らの母国にとって都合の良い歴史を教えているのもまた大人たちだからです。

子供たちは本当にそんな思想教育を望んでいるのでしょうか。
私には、どちらも「子供不在」の論争であるように思えてなりません。


鍋の中の蛙(かわず)

2012-12-25 23:12:50 | 政治経済のことも考えよう
デフレを喜ぶのは公務員だけです。
なぜなら物価が下がっても、あるいは税収が下がっても、
給料はほとんど下がりません。
むしろ相対的には上がっているのと同じですから。

民間企業では、物価が下がると給料はそれ以上に下がります。
なぜなら民間企業は、商品の値段を下げて利益を出すためには、
値下げ分を上回るコストの削減をしなければならないから。

「牛丼やハンバーガーの値段が下がった」
などと喜んでいられるのは束の間、
デフレはめぐりめぐって、それ以上に賃金が下がり、
下手をすれば収入源(職)さえ失いかねません。

その悪循環に陥ったのが、日本のこの20年間でした。

先の衆院選挙で野田首相は、
「民主党はこの三年間で、公共事業の三割を削減した」
「昔の時代にまた逆戻りするのか、前に進むのか」
と自慢げに演説しました。

しかし、自民党は三年前の政権交代までに、
すでに建設投資をピーク時の半分近くまで削減していました。
そこから三割の削減ですから自慢するほどのことでもありません。
前政権を踏襲し、絞った雑巾をさらに絞っただけにすぎません。

この20年間、公共工事を目の敵にして削減し、
景気は回復したでしょうか?国民は幸福になったでしょうか?

また、天下り根絶や公務員制度改革、
議員定数削減などによる歳出削減も財政再建には不可欠なものです。
しかし、結局、この20年間で完遂されたものは何もありませんでした。

どんな政策であれ、施策であれ、
20年も続けて成果が表れなかったということは、
とりもなおさず、それは失敗だったということです。

そして20年かけてできなかったことは、
これから20年かけても実現の見込みはないということです。

これまでのやり方で成果が出なかったのだから、
新しいことにチャレンジするのはあたりまえでしょう。
民主党の三年間は、そのチャレンジが失敗したということです。

「このまま茹でガエルとなるのか、鍋から飛び出すのか」

今回の衆院選挙の結果は、
多くの有権者がそのことに気付いた結果ではないでしょうか。





「ジョン万次郎~幕末日本を通訳した男」

2012-12-22 23:14:59 | 書籍の紹介
ジョン・マン(ジョン万次郎)こと、中濱万次郎は、
歴史上の人物の中で、私が好きな人物のひとりです。

海で遭難してアメリカの捕鯨船に助けられた彼は、
10年間の海外生活と捕鯨船での航海をへて帰国。
彼の西洋に関する知識や体験談は、
幕末の人々に多大な影響を与えました。

以前のブログでも書きましたが、
多くの日本人が彼のことを知っているにもかかわらず、
彼を主人公にしたドラマや映画は一度も作られていません。
大黒屋光太夫(江戸後期の漂流者)の漂流記譚が映画化されているのに、
彼よりもっと有名なジョン万次郎が映像化されないのはどうしてだろうかと、
以前から不思議に思っていました。

その理由が、この本を読んで少しだけわかったような気がします。

 永国淳哉 著 / 新人物往来社 刊

ジョン万次郎と言えば、
アメリカでの生活や帰国後の活躍がクローズアップされますが、
海外生活のうちの約7年間は、捕鯨船に乗って世界中を航海しています。
その距離たるや、地球を七周するほどだといいます。

その間、彼はアフリカやソロモン諸島、キリバスなど、
当時の日本人がおよそ訪れたことのない地域を巡り歩いています。
アフリカでは船員仲間から、「黒人を連れて帰ると高く売れる」と言われ、
南太平洋の島々では捕鯨船員は女性と交換するため、
島の有力者にタバコやアヘンを提供したと彼は記録しています。
そこで彼は、欧米列強の植民地支配を目の当たりにしているのです。

また、万次郎は帰国資金を稼ぐために北アメリカ大陸を横断し、
ゴールドラッシュに沸くアメリカ西海岸へも渡っています。
そこで人を変えてしまう「ゴールド」の恐ろしさを目の当たりにし、
常時、ピストルを携えていたといいます。

とかく「遭難・米国留学・帰国」と
「明治維新への功績」でまとめられてしまう万次郎の生涯ですが、
実際の万次郎の生涯は、単なる偉人伝では終わりません。
彼が海外で過ごした10年間は、スケールの大きな冒険譚でもあるのです。

そんな万次郎の冒険譚を映像化するのは、
費用の面でも技術の面でもかなり難しいことは容易に想像できます。
しかしながら、彼の残したオセアニアの人々に関する記述を読むと、
地球を七周もしたという冒険への想像がかきたてられてわくわくします。

やっぱり映画にしてみたい。
あらためてそう思ったのでした。