日本の裏側、ブラジルの若き絵本作家の、膨大な作品を目の当たりにして、わたしは軽い眩暈を覚えた。それは多様な色彩の配色だけでなく、デザインの筆致と細密画のような細かい描写、そして物語における構図のカメラ視点への驚きに対してである。要するに、眩暈の原因は「今までに見たことのない」絵に対する強烈な衝撃だ。
「ホジェル・メロ」。
ブラジルのリオ・デ・ジャネイロを拠点に、まるで吟遊詩人のごとく世界を巡るアーティスト。その作品の展示が、8月5日(水)より、ちひろ美術館・東京で開催されている。
言葉は悪いが、正直、わたしは海のものとも山のものとも分からない作家にそれほど期待を寄せていなかった。
むしろ、きな臭くなる日本の空気に凛とした非戦の誓いとなるであろう、もうひとつの展示「ちひろ・平和への願い」に思いを寄せていたのである。だが、このメロの絵を前にした途端、予想とは違う感情に支配されてしまったのだ。
例えば、「ブンバ・メウ・ボイ・ブンバー」では、ブラジルの古典物語を彼の感性で見事にリライトしてみせる。その物語を知らない日本人にまで、その深淵なテーマを提示してみせる。圧倒的な表現だと思った。
Bumba meu boi binba(ブンバ・メウ・ボイ・ブンバー)より 1996年 (個人蔵)
例えば、「炭売り少年たち」では、児童労働の問題をテーマに、メロ流の色彩を排除し、一転した暗い配色の絵を展開する。その緩急自在にまたまたひきつけられる。それは古典から社会問題にまで及ぶ、彼の作品作りに対する姿勢と問題意識にもいえることだ。
そう思えば、「Jardins(庭園)」では、まるでタペストリーのようなデザインの作品が登場し、見るものを飽きさせない。思わず、家の壁に「欲しい」と思ってしまう作品群を見ていくうちに、わたしはまたまた眩暈を感じてしまった。
感性が自由なのである。その絶対的な社会的メッセージに、わたしはひきつけられ、ある部分では嫉妬のようなうらやましさを感じるのである。
メロのもうひとつの特徴は、絵の素材やテクスチャーにもあるだろう。色鉛筆やアクリルだけでなく、紙のコラージュなどを多用する。それが、作品の雰囲気を醸成し、メッセージを増幅させていることはいうまでもない。館内には原画とは別に、書籍化された絵本も置かれていて、自由に手に取ることができるが、実際に印刷された絵本を見ると、絵が訴えかけてくるものは半減されているように感じる。それはやはり、実際の筆致やテクスチャーも含めて作品を見なければ理解が進まないことに改めて気づされる。
だから絶対、メロの作品は原画で見ないと意味がない。会期は10月25日(日)まで。
わたしはまたもう一度、ゆっくりとメロの作品に会いにいこうと思っている。
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