翌朝、ゲストハウスの前にたむろするリキシャーの列にアジェイの姿を見つけ、わたしはすぐさま声をかけた。
「やぁ、今回はありがとう」。
「元気になってよかったな」。
アジェイはちょっとニヒルにほほ笑んだ。
「ホントに感謝するよ」。
「あぁ」。
彼は右手をあげて、肩をすくめるような仕草でそう言った。
「ところで、俺のリキシャーでアーグラーを回らないか」。
「うん。そのつもりで声をかけたんだ」。
わたしはこの際、乗車賃は彼の言い値で承諾しようと考えていた。
「どこへ行くんだ?」。
「タージマハールかな」。
「それだけか?」
「他にも何かあるのか。タージ以外、知らないんだ」。
そんなやりとりが続く。
「適当に回ってやるよ。2時間で180ルピーでどうだ」
「540円か」。
約7ドルは法外だった。それでもまぁ仕方がないだろう。
「OK」。
わたしは承諾した。
そして、わたしは彼のオートリキシャーに乗り込んだ。
アジェイは優男だった。
身長は180cm以上の大男だったが、痩せぎすで頼りなさげだった。口髭を蓄えており、老けてみえたが、わたしと同年代くらいだろう。
寡黙な男で、リキシャーに乗っている間、一言も口を開かなかった。
やがて、リキシャーは大きな門の前に止まり、アジェイは一言呟いた。
「着いたぞ」。
リキシャーを降りて少し歩くと、あの白亜の建造物が少し見えた。
もう少し歩くと、モスクのようなドームが現れ、写真でよく見るたたずまいが目の前に広がった。
朝日に照らされたタージマハールは見事なまでに神々しく、見事なまでに美しかった。
「ここで待ってるぞ」。
アジェイはそう言って、早く行けよとわたしにジェスチュアして見せた。
入場料を払い、園内に入り、わたしはまた息をのんだ。
完璧すぎるシンメトリーにわたしは立ち尽くしてしまったのだ。
それは今まで通ってきた国々にはないものだった。
「なんなんだ。これは」。
建物に入ろうとすると、怪しげな男に声をかけられた。
「靴を預かってやるよ」。
奇妙なことを言う男だ。何故、この男に靴を預けなければいけないのか。
「なんで?」
とわたしが言うと、彼はこんなことを言った。
場内は土足厳禁だ。下駄箱に靴を置いておくと、お前の履いているナイキは多分なくなるだろう。だから、俺が50ルピーで預かってやる。
なるほど。土足厳禁はあり得るな。けれど、ここは様子を見たほうがいい。
「いや、要らない」。
「OK。じゃ、40ルピーでどうだ」。
「要らない」。
「ちょっと待て。お前は後悔することになるぞ」。
「その時はその時だ」。
タージマハールの入口では、彼の言う通り、多くのインド人が履物を脱ぎ、そのまま脱ぎ散らかしていた。
わたしもそれに倣い、靴を脱いで、そのまま建物に入った。
白大理石はひんやりとして気持ちがよかった。建物の中も涼しく、それだけでもここに来た甲斐があった。
地下に埋葬されているムムターズ・マハルとその夫、シャー・ジャハーンの棺を見下ろし、その中には今も亡骸があるのだろうと想像した。
400年も前の棺が今もこうして残されており、その膨大な時間の流れをそこに見るようで、わたしは不思議な気持ちになった。
再び、入口に戻ってくると、わたしの靴は誰かに蹴られたのか、互い違いに別の場所に転がっていた。
とにもかくにも、靴は無事だったのである。
タージマハールの庭園を歩いていると、やけに人だかりがする風景に出くわした。
人波をかき分けて、その向こうを見ると、そこには何の変哲もない木製のベンチがあった。
「このベンチは何ですか」。
わたしが隣の男に尋ねると、彼は「これはプリンセス、ダイアナが座ったベンチだよ」と教えてくれた。
わたしは呆気にとられた。
今、ダイアナ妃がそこにいるのならともかく、かつて1度訪れて、そこに腰かけただけのベンチが一体なんだっていうのか。
わたしは再び人並みをかき分けて、人だかりから離れた。
タージマハールの門を出ようとしたその刹那、誰かがわたしの足を触った。
立ち止って、その手の方をみると、瘦せこけた男がわたしに懇願するように頭を下げた。
物乞いのようだ。
彼は座ったまま、右手をわたしのつま先につけ、次にその手を自分のおでこにつけた。更にその右手は何かつまむような仕草で口に入れる構えをしてみせた。
その一連の行動を何度か繰り返した。
食べ物をくれと言っているのだろうか。
辺りを見回すと、物乞いは彼だけでなく、数人の男女がいて、わたしに視線をなげかけていた。
わたしは立ちすくんだ。
わたしはどうしたらいいものかと。
懇願するような弱々しい物乞いの目から、わたしは目を逸らすことができなかった。
建物内部の記憶はもうないんだけれど、棺が2つ地下に埋葬されていたのは、強烈に覚えているよ。
インドの建造物はいろいろ見たけど、タージマハールがダントツの存在感だった。
師の文章を読んで、俺が行った時のことを思い出したよ。
白亜の殿堂なんだけど「墓廟」なんだよなあ。でも、インドだからかあまりお墓感はなかった記憶があるよ。
さて、このあと師がどんな風にするのか。物乞いへの対処もまた、インドの洗礼の代表的な一つと言えるよね。