「老いてからの家事」、これを最初のタイトルにしていた。だが、なんか辛気くさいし、いい歳をこいて何を言わんやだ。無論、家事は手ごわいし、奥が深い。料理、洗濯、掃除など、いずれもプロフェッショナルに任せてもいい大切な仕事=家事である。
実のところ、洗濯を自分でするようになり、洗剤だけでなく漂白剤、柔軟剤を併用することを知った。洗濯の総量によって、それぞれの使用量も変わる。毛玉がつきやすいもの、ソックスなどは裏返して洗濯しなければならない。また、乾いた洗濯物をたたむという作業も、結構コツがいることを習った。
以前、洗濯物の干し方、衣服のたたみ方が下手だという理由で「洗濯」という家事は免除されたのだ。その代わり、風呂・トイレ掃除、食後の洗いもの、ゴミ出し、亀の世話、週に2,3回ほどの食事づくりが小生の役目となった。
女性の脳は、一度に複数のことをやり遂げるように進化してきたと言われる。一方、男のそれは、一つのことに集中できるように進化した(狩猟生活時代、獲物を見つけ、殺す力こそが男の本領だった)。おかげで、家事は男には不向きとされた。なぜなら、複数のことを同時にやる家事をしたら、集中力は切れ、男の脳はいつか爆発する。
(考えてみれば、自慢の料理というべきカレーとか、オムライス、餃子などすべて単品ものだったし、鍋ものでも具材を一緒くたにしただけだ)
すべてが連関している家事を、手際よく、効率的にできるのだろうか、男には。
だからといって、家事は女性だけにお任せとはならない。それが現代である。実際のところは、家事を男女平等に分担する家庭は少ないだろうけど・・。
以前より、イヴァン・イリイチの「shadow work」という考え方は、重要な概念として認知している(「ヴァナキラー」という概念を失念してしまった)。主婦が日常的に行う家事は、旦那が働くことを陰で支えている価値の高い労働である。当然、旦那が得る報酬もその分が含まれるものとして、法的にも算定されるし、離婚訴訟時にもその考え方が反映されていると思う。
男の特徴として、矜持とか沽券とかいかにも形而上的で深遠そうなフレーズを使いたがる。家事なぞという煩雑なものは形而下に属するもので、男がするものでないという考え方に関係するか・・。いやいやその昔、「男子厨房に入るなかれ」は、むしろ主婦からの提言であり、彼女らの矜持の表出であった。
小生に限っては、もはやそれらのティピカルな考えは一掃した。より現実的に、次から次にと派生する家事・雑事を処理していかねばならぬ。
3階、2階にあった蔵書はあらかた1階に移転した。その整理をするなかで、自炊し、ときに洗濯・掃除をしなければならない。ほかにもやるべきことはあり、さすがにブログを書く気力は萎えてゆくばかりだ。自粛のなかではいい運動だと思い、せっせと階段を往復したが、今も体のあちこちが痛む。
嗚呼、女性は偉大なり。すべての家事を手際よくこなすには、卓越した才能なぞいらぬ。少しの未来予測、何かをやりながら片付けるセンス、手抜きと効率のバランス、そして何よりも忍耐だ。
後期高齢者になるまでは自立した生活を続けて、一通りの家事をこなし、納得のゆく最期を迎えるための準備をしよう。
生来の俗物根性ゆえに「枯淡」の境地に至ることはなかろう。ともあれ、ひとの話を穏やかに聞く好々爺になりたいと考える今日この頃である。
▲書斎にする部屋。といってもパソコンがあるリビングも書棚が両サイドに3連あり、書斎と化している。
▲書斎で使う机は、薄汚れた一枚板をリニューアルして使う。執筆はこれでする予定。
のぞむところです。