小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

幸福であるとは

2020年06月29日 | エッセイ・コラム

長田弘という詩人の「短い人生」という詩の第1連は、こう書かれている(詩集『黙されたことば』より)。

幸福とは、何一つ私有しないことである。
自分のものといえるものは何もない。
部屋一つ、机一つ、自分のものではなかった。

これは長田が音楽家シューベルトの生涯を詩として表現したもの。「現在を聡明に楽しむ。それだけでいい。無にはじまって無に終わる。それが音楽だ。」ともあるように、音楽がもたらす至上の歓び、人々との共感こそが幸福であるとしたシューベルト礼賛の詩といえる。

「素寒貧で死んだ」としても、「音楽の歓びを遺し」たシューベルトの生涯を、長田は例のさりげない普通のことばで綴っている。簡明であるが、読むほどに深い言葉の意味と気高さがじわじわと伝わってくる。

この「短い人生」は『黙されたことば』という音楽家をテーマにした詩集で、バッハからシェーンベルクまで主に作曲家について書かれ、作品よりもその生涯をテーマにしたもの。
長田の手にかかると、作曲家がいかに豊かさとは無縁で、ひたすら音楽の精神性のみを追求する求道者のイメージが立ち上がる。いや、求道者というより孤高の詩人だろうか。言葉ではなく、誰も聴いたことのない清冽な音の数々を探しているポエット、そんなイメージだ。

その長田弘は亡くなってからちょうど5年目になるが、最近、『誰も気づかなかった』という遺文集が刊行された。まだ買い求めていないが、「みすず書房」のPR誌を読むと編集の方が、長田のある短い文をとりあげていた。


幸福かと訊かれたら、
誰だって、戸惑い、ためらう。


「連なる言を誘い出す発句であるとともに、これだけで独立している。じっと受け止めて、どう考えるかは読者の自由だ。」と書かれてあった。ある年齢が来ると「幸福」か、あるいはそうでないかはさほど重要ではない気がする。もちろん、個人的な意見である。

人によって、受け止め方は百人百様であろう。何の不自由もなく暮らし、家族に寄り添ってもらい最期を迎える、それが標準的な人間のいちばんの幸福であろうか・・。ほんとうだろうか・・。

いや、自分が幸福であると自信をもって断言できる人は少ないのではないか。どんなに裕福であろうと、身体はしんどくなるだろうし、心配のタネはつねに降って湧いてくる。

自身に立ち返れば、今もなお新しい生活の場をつくるために模索している。2,3年ほど前から、都会で暮らすよりも山、森、海、川など、自然に囲まれた場所で寝起きすることに憧れるようになった。こんどのコロナで、その思いが強くなったかというと、実はそうではない。

むしろ若い人のほうが、都会を離れた自然志向の思いを強くしていると聞いている。リモートで仕事できる今、結構なことだ。

人間の気持ちほど、ことほど左様に幸福感に左右される。森で暮らす類人猿には、そうした感情はあるのだろうか。山際壽一はどう分析していただろうか。そういえば、彼の師匠にあたる松沢哲郎のビデオニュースが第4位にランクされていた。再見してみよう。

(なお非会員が完全版で視聴できるのは、1位小室直樹、2位松岡亮二、3位宇沢弘文(!)までです。2位の松岡氏は若手の学者で、「教育格差」を論じています(文化・階級の経済的桎梏でしょうか)。まさにP.ブルデューの「ハビタス」を想起。2位に入るとは驚き。)

今回は、特に乱文にて失礼。

マル激放送1000回記念 記憶に残る番組(10分ほどのダイジェスト版) http://www.videonews.com/marugeki1000/ 

未だに生活の場が乱雑きわまりない。すっきりしているのは廊下、寝室ぐらいか。記録として載せる。


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