小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

新国立競技場建設問題における「失敗の本質」を考える

2015年07月23日 | エッセイ・コラム

 

「失敗の本質」という言葉は、太平洋戦争における旧日本軍の数々の軍事的失敗を社会科学的に分析した著作のタイトル※。
ミッドウェー、ガナルカナル、インパールなどの諸作戦における事例をもとに、日本軍を組織運営体として捉え、その失敗の原因・因果関係を多角的に研究したものだ。
このように書くと軍事オタクのためのマニアック本だと思われるが、組織論、経営論にも応用でき、また日本人としての行動・精神性などの性向を分析した、優れた日本人論ともいえる。

つまり日本人の駄目なところが徹底的に露わにされ、反省と自己革新を迫られるかもしれない。戦争がいかに蛮行の最たるもので、想像を絶する生命の犠牲をともなうものかが骨身にしみて理解できる。
さて、日本軍の「失敗の本質」を自分なりに大雑把にまとめると以下のようになる。

いわゆる[Plan Do See]、計画・実行・検証の3段階でチェックする。

「計画」 統括的な戦略が当初から欠如 敵の戦力分析もない 兵站(武器・兵、弾薬、食糧の補充)という基本思想がない(特にアジア戦線では食糧・物資は戦地調達という驚愕の考え方を採用。現地における民間人への殺戮・略奪につながる)エネルギー資源、ヒト・技術を含めた戦力リソースを見据えない無計画という戦略  
「実行」 命令・服従だけの上意下達型の一方的な組織運営 (まず大本営ありきの現場無視、机上理論による作戦立案)負けを認める「降伏」「投降」という合理的判断ができない。これが 玉砕・特攻戦法に結び付く。

「検証」 勝因・敗因の客観的な分析というルーチンが制度化されていない。すなわち個々の戦果、全ての情報がフィードバックされることもなく、因果関係が相対化されてない。驚くことに検証そのものが行われず、計画や作戦立案に生かされなかった。

以上にくわえて、国策として戦争に向かう際、国際情勢、戦力分析等の比較・考証が徹底されず、大方の識者が「負けると分かっている」にも関わらず戦争に突入した。戦争遂行の中枢である日本軍大本営が宙に浮いていた。参謀の多くが大命令の指示待ち。実力者はひとりよがり。また、戦線情報の分析・判断、評価の合理的プロセスが全くなかったに等しい。組織内情報も共有化されず、なによりも組織として誰もが責任を問われない「無責任体制」が致命的だ。戦後の敗戦処理においてもそれは継続され、軍および官僚エリート層に引き継がれ、これらの悪しき慣習は今日にも及んでいる。(マスコミの果たした役割・実績はここではふれない)

最後に、軍人を筆頭に日本人の誰もが「神国日本」「神風」という概念(宗教心?)を信じていた。「絶対負けることはない」という無根拠な信仰は、戦後生まれのわれわれにはとうてい理解できないものだ。これは、戦前の教育が大きく影響しているとおもわれ、ある意味「洗脳」もしくは「感染」教育そのものだろう。もうこの辺にしておこう。

 

さあ、新国立競技場建設問題だ。

いま、安倍総理の土壇場ともいえる「ゼロベース、白紙撤回」によって辛うじて「大きな失敗」を免れたかにみえる。わたしに言わせれば、この問題の根源的な「失敗の本質」は解消されていないに等しい。


同じように、[Plan Do See]、計画・実行・検証の3段階で考えてみたい。


「計画」 オリンピック全体のプログラムが策定されず、競技場建設だけが先行した。西に明治神宮、北に新宿御苑、東に東宮御所、南に青山墓地というロケーションのなかの「外苑」(Outer Garden)という地勢・環境条件を考えない基本設計だ。これらの地理的・景観的条件が、ザハはもちろんコンペ参加者にオリエンテーションされていない。
計画の主体が曖昧で、リーダーシップが発揮されない各界寄集めの委員会体制。連帯責任もなければ、だれもが責任を免れるという旧日本軍の「大本営参謀」を彷彿とさせる。
放送権・入場料収入を含む収支の全体予算計画もなければ、運営、施設、建設、管理におよぶ概算的なバジェットが提示されていない。これは部外秘であっても、これぐらいの大つかみの予算計画がなければ新規の競技場建設はおぼつかないだろう。少なくとも国際的なコンペとしては準備不足であった。

「実行」 いわゆる実行主体は(独)日本スポーツ振興センターであり所管の文部省だろうが、ザハ・ハディドによるデザインの基本設計だと13年8月には工費が3000億円に膨らむことは把握されていたとある。オリンピックの東京招致が決まる直前とはいえ、東京新聞によると「招致への悪影響を懸念し、デザインの変更の検討もしなかった(文部省幹部)」とあった。この3000億円の試算も13年の10月に明確化されたにもかかわらず、方針転換なりなんらかの対策も行われなかった。一度決定された作戦は、状況変化などに応じて柔軟に変えることができない旧日本軍の同じ轍を踏んでいる。

「検証」 以上のような体たらくだから、検証計画や実行段階における監査は望むべくもない。競技場が建設されてもその後のメンテナンス費用、運営における「収支計画」もなきにひとしいだろう。存在するだけで毎年「赤字」を生み続ける悪しき「箱もの」になることは周知の事実。それを受けて、自分たちの失策を反故にし、ツケを次世代に回すということも旧日本軍の体質にそっくりだ。
書き出せば、いろいろ細かいことが出てきそうで怖くなる。

 

今回、あまりも不埒なコスト肥大により白紙にもどったようにみえるが、以上のような「失敗の本質」を抱えているがために改革新規案がどうなるか見所。

ところでオリンピック運営の主体は、都市自治体が企画運営するのではなかったか? ロス・オリンピックはその嚆矢で、運営的にも収支としても大成功であった。なんで、日本政府が前面にしゃしゃり出てくるのだ。なんで「ITの、イッツとはなんだ」といった森喜郎や、わけのわからんオリンピック大臣がいるんだ。巨大利権がからむと国は黙っていられんからか。いいかげんにせいよ!

 

※「失敗の本質 日本軍の組織的研究」中公文庫 その他「組織は合理的に失敗する」菊澤研宗、畑村洋太郎の「失敗学」シリーズの著作等を参照されたし。

 

 


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