小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

記憶を耕すには

2014年07月19日 | エッセイ・コラム

記憶というのは「覚えている」ということではなく、「自ら見つけだす」ということです。         長田弘 「なつかしい時間」(岩波新書)より

 人間は経験したこと、知ったことなどすべてを記憶することができない。

 記憶はまことに断片的であり、不完全であり、そして信用できるものではない。ただ、自分の心のなかに大切なものを記することは、自分を、人格をつくるということと等しいような気がする。

驚きや感動、美しいもの、知るべきこと、それらを自分で心のなかに書き込むことが記憶だ。もちろん、日常の些事から災厄などの大事まで、忘れられない経験やトラウマみたいなネガティブな過去の記憶も集積されることだろう。
学者のような頭脳の持ち主ならば、それらを記憶のフォルダのようなものに振り分け、整理し、必要に応じて引き出すのだろう。
 私の場合は、恥ずかしいかなすべてが断片的で、無秩序だ。さらに加齢による忘却がすこぶる激しさを加え、人との会話にも支障が生じる始末。
家内からも、ときに礼を失するほどの忘却ぶりを指摘されることがある。彼女は自前の記憶力の良さに加え、10年日記なぞというものを記している。それなりに努力というか、記憶を耕しているのであろう。(わたしも色々と試してはいるのだが・・)

 つい先ごろ、昔の懐かしい仕事仲間と会合する機会があり、前回のそれは何年前だったか思い出せなかった。
妻はそれが13年前だと正確に記憶し、それは9・11が起きた年のこととして記憶していた。後で、メンバーの一人が、手帳やメールなどのデータを紐解き、前の集まりが「8月25日の日曜日」だったという知らせがきた。
彼は私より一回り以上年下であるが、記憶のデータを使うことの大切さを銘じているに違いない。このわたしも、忘却を老いのせいにするのは怠慢のそしりを免れまい。自戒して、備忘録を小まめに記すべし。

 冒頭に紹介した、勝手に私淑している長田弘の詩集「記憶のつくり方」からも引用したい。

じぶんの現在の土壌となってきたものは、記憶だ。記憶という土のなかに種子を播いて、季節のなかで手をかけてそだてることができなければ、ことばはなかなか実らない。自分の記憶をよく耕すこと。その記憶の庭にそだってゆくものが、人生と呼ばれるものなのだと思う。

 

 

 

 嗚呼、17歳ころの心を。スポンジのようにすべてを、心とあたまに沁みこませていったあの頃に、誰かわたしを引き戻してはくれまいか。

「十七歳に還って」 

 Samba del angel/Nahuel Pennisi/ primer ensayo/ 13-10-2009  

 

 

 


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