小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

流れゆくさきの茫漠あるいは闇

2019年01月20日 | エッセイ・コラム

前回の記事で書き忘れたことの追記として・・。

厚労省の「勤労統計」の不正問題がだんだん明るみになり、その問題の深刻さに懊悩せざるをえない気分だ。昨年の財務省マターのモリカケ問題でもそうだったが、いわゆる政府系機関の公文書、統計資料等の改ざん・隠ぺい・廃棄の問題は、国家としての信用基盤(内外問わず)に関わるものだ。

この種の不正は、国民への軽視であることはもちろん、「人権」や「尊厳」にも及ぶものとして神妙に憂慮すべきものであろう。

すなわち行政・立法に携わる施政者側の根源的な責任を問われるべき案件。というよりも、市民レベルの人間の行為として照らし合わせても、倫理・規範を逸脱する重大な不正行為だと規定していい。

文書・データ等の公的情報は、その軽重にかかわらず国民の財産であり、国民の知るべき権利を保証するものとして在る。

さらに、将来の経済・社会生活を資するものとして、その価値が認証され、相当の管理・保存が求められることはいうにまたない。実際の法体系を筆者は詳らかに関知しないが、公務員法における犯罪行為として処罰されてもおかしくない。

(保管・管理・処理について規定等、諸規則が定められているだろうが、これらは見直し・改正など検討されねばならないと考える。)

こうした事例が、安倍政権になってから頻繁に起き、そのつどメディア等の俎上にのぼるけれども実質的な解決策が一向に図られない。あたりまえというべきか、お門違いというべきか、己の不正行為を己で検証・是正するなんてことはできない。そのために、司法及び第三者機関が存立する根拠がある。いわばセーフティネットともいうべき公的な機関なのだが・・。

(ただし、これらの機関の存立基盤もまた、その脆弱さを露呈している。直近では、ニッサンCEOのゴーン逮捕における、国際法のレギュレーションを逸脱した、地検特捜部の法権力の行使だ。これは極めてドメスティックな椿事だったと、忘却の彼方に消失されることを日本の一国民として切に願うのみである。)

 

そもそも、この国では問題が起きた場合の検証、調査・分析、課題解決の設定、そしてしかるべきフィードバックという合理的方法とシステムへの取り組みがたいへん緩く、かつ甘い。

巷間賑わした旧日本軍の「失敗の法則」について、当ブログでは、原発事故や国立競技場建設の問題と比較して鋭意考えてきたつもりである。にも拘らず、どーも日本の官僚は、「情報」に関する全てのフューズの取扱いを軽視する傾向にある。また、改善するための努力および反省が認められないのは何故か・・。

将来にあって、国民の生活に寄与する調査・分析・評価等のデータそのものが、施政者自らの失策等の責任を追及されるエビデンスとして忌避されていると危惧する。そんな忌まわしい性向が、彼らにあるやなしや・・。

ならば、彼らの行動を律する倫理規定、罰則を定めるべくしかるべく機関・組織を設置しなければならないだろう。

 

以上、施政者側のすべての方たちへの理解促進に供するため、日頃慣れ親しんでいるだろう「霞が関文学」を想定した文体で綴ってみた。お役にたてれば幸いである。

 

さて、前回は、浮遊する日本がなすすべくもなく川に流されゆくイメージを想定して記事を書いた。

官僚、お役所の人も、私たちと同じ日本人です。いい人、やさしい人 国を愛する人 お役人を尊敬する人だって、人知れずにたくさんいらっしゃる。いいじゃないですか、泥舟に乗っていても、その先が滝つぼだろうが、汚穢にまみれた闇だろうが、一蓮托生で流されゆく、揺蕩うことの悲哀、ときに歓びを共にしましょう。

もはや小生には、この国を憂える感性というものが磨滅してしまいました。どう立ち向かい、闘っていくか、その知力・気力の衰えを日々感じるのみ。こうして、流されてゆく先には何があるのか、何が待っているのかさっぱり分かりません。闇のような、茫漠としたものだろう、それしか見えません。

 

朝から快晴、陽気もいいので駒込の古河庭園に足を伸ばした。1月16日から「バラなんとか祭り」が始まったという噂をききつけたからだ。入園してがっかり、一輪のバラも咲いていなかった。庭内の梅もまだ小さくて数少ない。それでも気分はやや晴れわたってきた。

▲一輪のバラもなく。ただ、ぽかぽかして陽当たりのいいバラ園。子供時代からの馴染んだ場所だ。

▲日本庭園。大きな雪見灯篭と、松をまもる雪吊が良い風情をみせていた。

 

 ▲園内でみた唯一の大輪、牡丹の花。


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