小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

N氏の生地へ

2016年11月08日 | 日記

 

故西野洋の実家がある常陸太田市へ、墓参に行ってきた。一周忌では私的に彼を偲んだが、やはり墓前で線香を上げて供養したい。私たちはそう決心し、次兄の孝二氏に案内をお願いしたところ、快く引き受けていただいた。当初は独力で墓参する心つもりでも、寺は駅から遠方にあるらしく途筋は複雑。初めて訪れる地ゆえ、迷惑と承知しつつ案内して頂くことになったのだ。

当日は、駅までご夫妻で迎えに来ていただき、西野家のお墓がある正宗寺(しょうじゅうじ)に向かった。(お二人には最後まで至れり尽くせりの歓待をうけた。思いだすほどに、胸があつくなる思いである)

詳しくは省くが正宗寺は由緒ある禅寺であり、秋田藩(久保田藩)の大名佐竹氏の墳墓もある。墓地に入ってすぐの所に西野家の立派なお墓があった。近くにはなんと水戸黄門でも有名な、「助さん」こと佐々宗淳(別名:佐々木介三郎)の墓と碑がある。西野家はこの寺の総代もしくは世話人ほどの貢献をしてきたことが窺われ、名家といえるだろう。看板などに文字を書くことも家業であったらしく、成程と思うことしきり。


御霊を偲び線香を上げ、墓前にて合掌することができた。一周忌は10月23日(※)でとうに過ぎていたが、この日は晴天でそれこそ喪が明ける日にふさわしい。夫婦で墓参できたことを、鬼籍に入られた西野さんは見守ってくれたと思いたい。

車で移動するまえに、西野さんが高校生時代に描いたという水彩画何点かを見せていただいた。中高時代には美術部に所属されていたとのこと。西野さんらしい芸術家的な資質、端正な美のセンスは学生時代に培われていたことを物語っていて驚く。

     

▲高校生の水彩画にしては構図がしっかりとし、印象派の光と色彩のテクニックを踏まえているではないか。女性のデッサンにしても対象の捉え方が正確で、表現も繊細で西野さんらしい。


その後、西野さんのご実家へと案内され、ご賢兄の西野昭ご夫妻にお会いした。思いがけなくご遺影、位牌を前にしてご焼香させていただき、私たちは思い残すことのない供養が叶ったといえる。自分のブログで恐縮であるが、ご丁寧なるおもてなしをしていただいたことを深く感謝し、ここに記しとどめたい。本当に有難うございました。

さらにその後、孝二ご夫妻には常陸名物の新蕎麦もご馳走になり、徳川ミュージアムの施設でもある水戸黄門が隠居した「西山荘」にもご案内いただいた。

二人だけで静かに線香を上げ花を手向けるだけであったのに・・・。西野さん御兄弟、そして奥様がたの心を尽くした歓待を受けることになってしまった。まことに恐悦至極の次第で、私たちにとっては忘れることのできない最良の一日。これも故西野洋からの特別な贈りものだと思うと、こみあげてくる無念さが尽きない。


彼の生まれた土地、常陸太田は源氏のルーツをもつ佐竹氏の城下町でもある。ここかしこに由緒ある名所あり、旧くも端正な佇まいを見せる。そうした歴史と風格を感じさせる故郷の地や、ご両親はじめご家族に対して深い愛情をそそいだ西野洋の様々な逸話を聞かせていただいた。

病魔に侵された西野氏が、思うままに身体を動かせないにも関わらず、親御さんのために年に二度、三度帰郷したという。今年4月に西野家のご母堂が96歳で逝去された。一日に何度も母親の様子を確かめるために電話してきたという故西野洋。愛する三男が先に逝かれて、お母様の元気が喪失されたのでは、と語る西野家の方々。これらの話はとりわけ、故西野洋の本当に誠実で優しい人柄だったという思いを強くした。ふたたび、合掌。




▲水戸光圀は隠居してからも「大日本史」の編纂に心血を注いだ。中国明の滅亡で日本に逃れてきた朱舜水を招き、その示唆により水戸学の礎を築いたのが端緒だ。「大日本史」は幕末の尊王思想のバックボーンをつくり、ある意味徳川幕府の終息の足掛かりともなったことは皮肉なことだ。「西山荘」の敷地は広く、里山のような自然と、大名庭園の趣が渾然となった素晴らしい空間である。観光地であるが、並みのものではない。

      
▲隠居所とはいえ風格のある元副将軍水戸光圀の書院造りの住まい。助さんはじめ60人ほどが詰めたこともあったという。 邸内はミニ博物館ともいうべき光圀の自筆の書、書画、あの有名な紋所が刻まれた品などを展覧している。時間があればもっと探索したかった。




▲次兄孝二氏の後ろ姿が故西野洋を彷彿とさせる。身体をちょっと傾けた感じの歩き方が似ていて、微笑ましくもあり思わず見続けてしまった。私だけの印象かもしれないが、遠慮がちにやや斜めの体勢の感じで現れるのだった。





▲帰りは、道の駅から高速バスで。そこで買った地元の野菜等々。妻曰く、最初から予定していたとのこと。女の生活力には頭が下がる。
 
 
 
(※)最初、命日を24日と表記していました。23日が正しく、謹んでお詫びし訂正いたします。(11月8日記)
 

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。