小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

鉄の、孕むもの。その彼方 ※

2016年11月10日 | 芸術(映画・写真等含)

わたしのアートシーン ② 馬場良平と鉄

昭和20年代に生まれたものにとって、鉄は、浅からぬ因縁をもつ身近な金属ではないだろうか。
鉄そのものが小遣い銭に成った時代である。
物心ついた時、4,5歳の頃か。馬蹄型をした大きな磁石をひもで吊るし、それを腰にくくりつけて往来に落ちているくず鉄を拾い歩いた。
徒党を組んでやるから楽しい。子供ながらにも、それなりの目標を自分たちでつくって達成する歓び。
仲間の誰もが貧乏だったから、必死になって探し歩いた。ただ、ほんとうの狙いは鉄ではなく、実は「銅線」で、それも赤いやつ。しかし、それは中学生いや大人たちの専門領域だった。
とはいえ、終日くず鉄拾いはできない。遊びさかりゆえ集中はせいぜい半日。3,4人であつめた鉄は錆だらけの釘のたぐいで、業者に売りに行くと5円、10円になったかどうか。
みんなで駄菓子屋に行き、もんじゃ焼きのトッピング用の裂きイカなどになった。
鉄の思い出は、そのほかにベーゴマ。小学5,6年ころに没頭した手裏剣づくり。5寸釘を国鉄のレールの上に置いてペシャンコにしてナイフになる。先をやすりで磨き尖らせて手裏剣にする。それを板塀や古い畳などに投げて突き刺して遊んだ。さらに、十字手裏剣へと進んだ。

その後、鉄という金属が一般教養として、かけがえのない物質だと知るようになる。
たとえば地球という星の重量のうち、三分の一が鉄だということ。ほとんどが地球の中心、内核に占めている。そのおかげで火星などよりも重力が大きく、水がとどまった。
その水が生命をうみ、私たちはいま水そのものの恩恵をうけて生きている。いや、水に依存している。

はるか昔、海に鉄分が溶けていたこともあるという。今は痕跡すらないが・・。

人間の体は、自分の体のなかに海をもっている。血という体液。

なんとも不思議な液体であり、様々な物質が集合して構成されている。

なかでもヘモグロビンは超重要なたんぱく質である。そのヘモグロビンの中にある鉄分がないと、私たちの細胞に酸素が行きわたらない。せいぜい4,5グラムの釘1本の量でしかないのだが・・。まさかと思うが、そんな微量の鉄を失うだけで、私たちは死に至る。

何かを語るために、私は自分なりの儀式というか、ある種の屈折した回路を経ないと入口を見つけられない悪い癖がある。

単刀直入に書こう。
鉄に、その物質としての変化に執心する、あるいは「臨在感」(これを語ると逸脱するのでまたの機会にする)を見つめる写真家がいる。

馬場良平である。彼とのつきあいは20年以上におよぶ。彼の作品の素材はことごとく「鉄」である。

3

写真家が撮る対象は、視線の彼方にある。埋めることのできない絶対的距離感がある。(※)

写真というものはバルトのように語れば、偶発的なものであり、「あるがまま」のものである。

「しゃしん」とは「ほら」、「ね」、「これですよ」を交互に繰り返す、一種の歌にほかならない。
  みすず書房 ロランバルト「明るい部屋」より

馬場正平は「あるがまま」の対象として「鉄」をとらえない。
変わっていくもの、腐っていくものとして見る。実際かれは変化していく鉄が「たまらなく好きだ」と云っていた。鉄に惚れた弱みというか、馬場は写す対象の鉄と、戯れる、見つめあう、そして交合する。

最近の、グループ展に出展した作品を紹介しよう。

Photo

これを見て偶発的に撮った写真と思えるだろうか。

多少の仕掛けがあるに違いない。部分的に瞬間接着剤を使ったのではないか。

これは馬場が鉄と戯れて、交合して、時間を忘れてつくりあげた、偶発的な作品である。

均衡と静寂と、神経を集中して、相互のバランスで成立した美学そのもの。

偶然の賜物というか、作為のないアートである。

この作品以外に7,8点をグループ展に出展されていたが、そのどれもに私は音楽を感じた。硬質だけどリズミカルな・・。なんだろう、とりあえずコーネリアス風と書いておく。(後記:よくよく考えてみたが、テクノよりもやはりアナログだな。で、難しい選択であったが、アサナを25.8.1現在推奨しておく。ちなみに馬場さんは四人囃子のMさんとマブだちである

馬場良平は、とても端正な人で、静かな、侍のような男である。何かを語るときにはゆっくりと確実に話す。

蛇足だが彼の奥さんはアメリカ人で、以前ブログにも書いたが、3.11後に私がさがしていた写真を即行で見つけてくれた。

馬場良平はいま鉄の別のなにかを見据えているらしい。

 

 

 (※)ちょっと言い過ぎたかな。視線は彼方を向いていても、目ざすものは心のなかにある場合もある。だから、その距離感は絶対的なものであるはずがない。バルトの写真に対するイメージは割と固定的で、その語り口は彼にしては落ち着かないし、なにかバイアスがありそうだ。

※ (注)過去の記事を読み直し、間違いを訂正したり再編集してアップしたら、3年前の記事が現時点での投稿となった。この記事は2013/7/14日に投稿したもので、現時点に移動してしまった。ある事から想い出して、この記事のロラン・バルト及びヘモグロビンと鉄成分についての誤記を訂正する必要を感じた。投稿日時を現時点にしたところ、この結果を生んだ。古い記事を新しくするような意図はないし、元の時点に戻せなかったので・・・、悪しからず。

 


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