小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

シオランのように

2016年05月27日 | 日記

 

日本人ほどのオプティミストはいない。真理という峻厳なるものに到達し、知り・悟りえたものを授け、私たち日本人を覚醒に導いたものは只一人もいない。また、真理が一つだけではなく、相対するものであり、かといって二元的ではなく宇宙に拡散していく方向性をもつこと。つまり、無数の真理が実在することさえ気づかない。かつて自力で文明を築きあげた民族の末裔、或いは砂漠の民でもいいが、この日本人の阿呆ぶり、底なしのオプティミズムには、ほとほと呆れる限りである。怠惰は許され、無関心、無感動でも喰うには困らないという豊かさは確かにある。天変地異の災厄が生活基盤を破壊したとしても、時の記憶が薄れれば何事もなく再帰する恵まれた自然があるからだ。安穏であることを至上のものとして身過ぎ世過ぎの後、ひたすら死に対峙する選択しかないではないか。芸術家気取りの俗物が自意識と美意識の混淆とした作品を、誰それの富豪コレクターが買ったの、補助金まみれの地方美術館が買ったのだと一喜一憂している。北川何某という男は美大生のときに作品提出を際に半ば放棄されていたとはいえ、それら20点余りの他人の作品を自らの創作と称して提出し卒業を成しえたという厚顔無恥の輩。この例をもってしても一般意思といわれる倫理性の一端も極めて日本人の程度を証明できはしまいか。70年ほど前に根底的に民族的な敗北を経験したにも拘らず寄らば大樹というような無責任、無関与を決め込む。そうなのだ自己有理の法則を貪り食わんとする根性の賤しさを思い知ることはなかろう。自らをランボウ気取りでアフリカに出立する輩もいるが、北川何某を担ぐ詩人にしても、ランボウは詩を棄てたのでも諦めたのでもない。詩の方からアルチュールを投擲したまでで、確かに詩魂までは彼奴を見捨ててはいないが、アデンに繋がれた奴隷たちの視線をさすがに正視できなかったのではないか。はじめに戻ろう。オバマを広島で詫びさせることを願う日本人のオプティミズムは、猿でもなれるナショナリストを露呈していて、原爆を落とされる前の東京の絨毯爆撃で決着している事実を脱色した。宮武外骨は隷従する日本人を断罪し、自らを「半米人」としたが卑屈ではなく当時のマスコミ人の有頂天さを揶揄したものだ。「アメリカ様」という彼の著書はもちろん褒め殺しであることは言を待たない。さてさて、これよりトランプ占いに現をぬかすうちに、外界の不穏に怯え失態を露わにすること必定である。あらゆる遊戯、いや作為には限界がある。身の程、分の際を弁えよ。これが先人の知としてこの胸におさめ、今宵は床につくことにする。


 


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