小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

買い物の行き帰りで

2016年05月30日 | 日記

 

 

米がなくなりそうだという妻からの声掛けは、買い物に付き合ってくれという合図。近頃は米を買う時だけでなく、家にこもりがちな私を連れ出して、散歩をかねての買い物とあいなる。気分転換になるし、行き帰りに思いがけない発見もあってよい。で、夫婦仲良く(?)連れ立っての散歩は、近所の評判を気にしているわけでもなく、日々のルーチンになった。この季節には他人様の庭先を眺めながら、珍しい花が咲いているのを見かけたりすると嬉しくなる。その程度の心もちの外歩きは清々しい。

▲フランネルフラワー、エーデルワイスの仲間らしい。

こんな小市民的な安穏たる平々凡々な生き方を、若いときには唾棄すべきものと軽蔑していたが、馬齢を重ねてみれば日常のありふれた安定こそが掛替えのないものになった。なるようにしかならない、それでいいのだと赤塚不二夫のように心でつぶやく。もしそこが聖と俗との分岐点かのように、真摯に思い詰めるような選択をすれば、鬱の病とか、精神の統合を失調するようなことになったかもしれない。差別しているのではなく、むしろ彼らは聖なる領域に棲む人々であり、俗なるものに堕ちたのは私のほうだ。それでも卑屈になることなく、自分なりに試行錯誤しながら、落ち着ちつける場を見出したのか・・。いや、人生なんて何が起きるか分からない。

私はこの歳になってから、小林秀雄のいうことが呑みこめるようになった。「他愛のない精神の動き、経験するときのリアルさを感じ取ることこそ大切だ」と、なんでもない言い草だが、私には至言の言葉だ。エビデンスとかデータを偏重し過ぎるな、計量できるものしか信じない現代の科学的精神の在りようこそ袋小路に入っているのだと、小林は口を酸っぱくするように語っていた。テレパシーとか第六感のようなものを信じている私は、彼の言葉はありがたいと心から思う。

こういうことを日常のさりげない言葉で、深遠な言語世界を構築する堀江敏幸ならどんなふうに表現するのだろうか。

彼のエッセイに「優雅な袋小路 正弦曲線としての生」というものがある。サイン、コサイン、タンジェントのサインを正弦といい「上下の揃ったうつくしい山と谷がうねうねつづいていく山脈に似ている」ような波形を描く。人生は山あり谷ありと振幅に富んだもので、その波形は不揃いなものと誰もが想像するだろう。しかし正弦曲線は「甘美で、ゆるやかで、しかも単調である」。彼は最後にこう結んでいる。
 
 
日々を生きるとは、体内のどこかに埋め込まれたオシロスコープで、つねにこの波形を調べることではないだろうか。なにをやっても一定の振幅で収まってしまうのをふがいなく思わず、むしろその窮屈さに可能性を見出し夢想をゆだねてみること。正弦曲線とは、つまり、優雅な袋小路なのだ。

 
なるほど、小林秀雄が警告した現代科学の深刻な袋小路ほどではないにせよ、私たちはある種の行き止まりみたいなところで右往左往しているだけなのかもしれない。堀江はその窮屈さを愉しめ、可能性を見出し夢想せよと言っている。齢を重ねたら振幅は緩やかになってきたが、思い起こせば若いときはそれなりの浮き沈みはあって、私の場合は10年ごとにそれぞれの頂点があったろうか・・・。優雅な正弦曲線をなぞっているように願っているのだが、現実はそうならずかなり歪(いびつ)な線になっている。乱文失礼。
 

▲通りすがりに見たことのない花が咲いていた。二人で話し合っていたら、住人の方が窓をあけて「南米生れのフェイジョアという花です。手で受粉させないと実がつかないんです」と教えてくれた。美味しい実を付けるのだそうである。花も食べられるそうだが、さすがに試食させて下さいとは言えなかった。それにしても、仄かな甘い匂い、花びらの肉厚の柔らかさは忘れられない。


    
▲大きなサボテンの白い花。道端に無造作に置かれているのがいいですね。

▲家で咲いた、観音竹の花。はじめてだ。
 



 

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