小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

鹿島茂の『吉本隆明2019 ①』、そして極私的吐露

2019年03月17日 | 本と雑誌

一週間ほど前、地元の古本屋「古書木菟(みみずく)」さんに行った。客としてはヘビーユーザーでもないのに、馴染みのように話し相手になっていただき有り難い。吉本隆明の信奉者(らしき?)ご主人が、3月号の「ちくま」を読みましたかと訊く。読んでいない、ネットの「webちくま」をたまに読むだけだと返したら、「今号から鹿島茂が、エマニュエル・トッドを介して隆明の『共同幻想論』を読み解く新連載が載っています。よろしかったらどうぞ」と、読んだばかりの筑摩書房のPR誌「ちくま」をいただくことができた。『共同幻想論』の内容については、詳しくここでは触れない。

フランス文学者の鹿島茂は、10年ほど前だったか『吉本隆明1968』という新書を上梓し、自他ともに認めるヨシモトリアン。浩瀚な著書をもつ鹿島は、この『共同幻想論』についてこう書いている。

「なんだか、よくわからなかった全然!」。これに尽きます。そう『共同幻想論』は全共闘世代の吉本ファンの理解力を完全に超えていたのです。

もちろん、明示的に語られる内容は誰にも分かることとしながらも、当時の政治的・思想的状況の中で、共同幻想の成立の起原をたどることは、日本人にとって火急かつ本質的な問題だったのか・・。まさにそのことに鹿島は行き当たり、『共同幻想論』の根源的な理解に至らなかったこと、それが彼自身のトラウマになったとも書いていた。

ところがである、この「ちくま」の小論には、順序が逆になるが、最初の方にこう書かれていた。

ところが、ここに来てエマニュエル・トッドの家族人類学と親しむようになり、とりわけ、その最新作『家族システムの起原1ユーラシア』を精読した結果、『共同幻想論』がにわかに鮮明な画像となって現れたという感じです。換言すると、トッドを介することでようやく吉本が『共同幻想論』に込めた意図というものが、私なりに理解できたように思えたのです。(中略)「わからないが!」が「わかった!」に変わっていく過程を一々記していき、最終的には吉本が最晩年にこだわり続けた南島論を家族人類学的観点から分析することで、吉本とトッドの連結を試みたいと考えています。

とまあ、新連載にあたっての「ドーダ、ヘウレーカ(わかる!)」宣言をぶちあげたというわけだ。

考えてみれば、18歳だった小生(半世紀前!)も『共同幻想論』を即行買い求め、読んで分かった気になっていたが、今となれば禁制論、憑人論、巫女論、他界論、対幻想論、規範論などを個別に、その内容を語ることができるかとなれば、完全にお手上げ状態となる。

鹿島茂はエマニュエル・トッドという最先端の家族人類学者の知見を援用することで、『共同幻想論』のみならず吉本隆明の新たな読み直しを企図したものだろう。詳述は避けるが、日本が近代化するなかで、天皇制と日本の家族における封建制のようなものが混淆して、一般人からインテリまで誰もが日本特有の共同幻想をもっており、その呪縛から誰しもが逃れられない。そこには鹿島茂いわく「異形の意志」があって、そのパラダイムのような原理を突き詰めることを、吉本隆明はしていたんじゃないか、と。

で、その出所不明の「異形の意志」とは、それ以前の著書『芸術的抵抗と挫折』における「転向論」によってアプローチされていた、と鹿島は解説しているのだが、現時点ではまだ具体的にE.トッドとの関連性にはふれられていない。次号が愉しみかといえば、小生はそれほどでもないのだ。(一冊に纏まれば読むが・・)

 

「私もかつては熱烈な吉本隆明のファンでした。今はもう卒業しました」と、木菟のご主人に話したことがある(あっ、奥様にだったか、失礼)。そのとき小生は、なぜ吉本を読まなくなったのか、具体的に説明しなければならないと思ったので、以下のことを述べた。

それは、吉本の『反核異論』が契機となった。この本の出版年は1983年で、当時の状況は、安全保障をアメリカに依存しながら核兵器廃絶を訴える左翼・文化人らがいた。彼らは、アメリカの核武装に異を唱えていたが、当時ソ連の核武装に対しては口を塞いでいた。ソ連の核弾頭が実際に日本の米軍基地を射程にして装備されている事実にふれることなく、核兵器廃絶の平和論を展開していたのだ。そんな片手落ちの論理をぶつ進歩文化人こそ、矛盾を通り越して阿呆だと、吉本はこき下ろした。小生は、その鋭い慧眼をもつ吉本隆明に敬意を抱いていた。でも、そこまでのことだ。

決別したのは「反核異論」のなかの原子力発電の容認である。当時、核廃棄物の処理問題や原発事故が目立つ状況のなかで、いわゆる「原発問題」は科学技術の進歩によって、いつか必ず解決する、止揚できるという鋼のごとき鉄壁の思想的確信を、吉本隆明は披瀝していた。

人間が歩む歴史のなかで、人類のあらゆる課題は、科学と技術のたゆまぬ進化によって克服されてきた。原発のそれもいつか解決するという可能性はかなり高い、と見なした吉本。小生はしかし、素直に首肯できなかった。人間のもつ科学力、進歩力に対して、吉本は余りにも「信」を置きすぎてはいないか・・。チェルノブイリ以降の反原発運動さえも、彼は揶揄したが、そこに明晰な科学的根拠を示しているとは思えなかった。

畏れ多い言い方だが、吉本隆明に何かしらの「驕り」が、あるのではないかと危惧した。加えて、原発というものが、原爆をつくる過程で生じた副次的な産物だということを追及していない、と不満に思った。

原爆を開発した科学者たちは、その過程で生まれた核濃縮技術が膨大な熱エネルギーを産み、それは電気エネルギーとして転換できるということを発見した(※注3)。つまり、原爆製造の副次的な再利用を、「原子力の平和利用」という言葉で言い換えたに過ぎない。政治家や実業家らが、そのアイデアにうまく乗っかっただけのことなのだ。

原発そのものが所与の理想形として考えられ、かつ現実的で安全なエネルギー技術開発を目的として生産されたとしたら期待し希望は託せる。でも違う、検証的な考察は徹底されていないと感じた。(戦後最大の思想家である吉本隆明をディスるなんて赦されるはずはない。なので、小生は沈黙するしかなかった)。

ともあれ、吉本隆明の原発容認論は、残念ながら3.11以降も終生変わらなかったようだ。ご主人が棚の上の方から『反・反原発論』(※注)(2015年)を出してくれたので、それは確認できた。

次のことは、他人様に語ったことはないが、いい機会なので書いておくことにする。

当時(1980年代)、私事に及ぶが広告文案家の仕事をしていて、東京電力の原発PRの仕事を持ちかけられた。その下準備のために、多くの書籍・資料を読んだが、賛否両論あわせて、科学技術の深いところまでの確信をもつに至らず、個人的な結論は出せなかった。とはいえ、原発推進、擁護派の文脈を客観・中立的に読み解くと、ある種の逃げ、誤魔化し、詭弁などが見てとれた。感覚的に忌避すべきとして、自主的にその仕事を断った。いま思い返すと、よくそれが出来たと思うし、そのことで傍に迷惑をかけたこともあった。この時の内的心情を知っているのは、一緒に組んで仕事をしていたデザイナーだけだ。

以上のことは、木菟のご主人にも話していない。

その後しばらく四方山話をしていたら奥様が来て、鹿島茂のことや、彼のフランス古書の蒐集癖について話や、句会がどんなものかの話など、愉しい時間を過した。帰り際には、奥さんの友人である詩人の詩集をお貸しいただいた。きちんと読み、感想を述べる約束をした。


蛇足を書く。

小生はその後、道灌山の「古書田高」に行き、3,40分ほどお邪魔した。ご主人から聞いたいちばんの話題は、先ごろ樋口一葉の「たけくらべ」の自筆原稿が売りに出されたこと。即、買い手が現れたが、その値段なんと二千万円。まあ時代の一点ものだし、プレミアム価値として適正かもしれないが・・。

小生は、時里二郎の関連から那珂太郎の詩集があるか尋ねた。棚から薄い詩集を引っ張り出して、「福田正次郎の処女詩集『Etude』(1950 )です。那珂太郎の本名です」と言った。値段は、状態はぎりぎり可であるが函なし、16400円だった。もちろん、ご遠慮した。後で「古書田高」のサイトで在庫をみたが、函入りの同じものが2万5千円、3万5千円の2冊あった。うーむ。


最後に、鹿島茂(※注2)の本で読んだこと、サンテの『星の王子さま』の初版本の話を書いておく。これは当初、アメリカで出版された。限定500部。この一冊が鹿児島で発見されたとき、大新聞社がニュースにしようとした。限定初版本であるからといって、サンテの古書といえども大したことはない。記事にするほど高値にならないとして、鹿島先生は一蹴したという(結果、記事にはならなかった)。

せいぜい、フランスでは7,8万円ほどで取引されていることを知ってたからだ。ただし、サンテグジュペリの妻コンシュエロに献呈した、署名入りの一点ものは、1980年代のレートで28万円ぐらいの値段がついていたという(明治の文豪のそれは、限定初版本は何百万円もする)。その値段の記録を書いているだけで、鹿島先生がそれを所蔵しているかは書かれていない。でも、興味はあったのであろう。

いずれにしても、古書の相場は、日本と米国において異様に乱高下するらしい。素人は近づかない方がいいということだ。


(※注)そのときの本のタイトルをそう記憶したが、正確には『「反原発」異論』(2015)だったかもしれない。吉本隆明の死後出版されたもので、語り下しの体裁であった。

(※注2)思い起こせば、鹿島茂氏とは高校時代に接近遭遇していた(1966,67年)。彼は湘南高校で一年先輩。毎年、我が母校と一日訪問会を、年に1回交互に開催していた。

(※注3)発見ではない。19世紀に発明されたワットの蒸気機関によるエネルギー創造の「焼き直し」みたいなものだろう。


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